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かわら版No.15 厳密には、法解釈とは何であって、法実践とは何なのか。

いつもお読みいただきありがとうございます。今日は実務にも役立つ法解釈の前提について書きます。この前提を理解し咀嚼してイメージを持っておくことが、成熟した自治体に成長するために、また実際の法解釈とその法実践において大きな意味を持つはずです。

まず、以下の文章を引用します。

「私が提示した説明—―すなわち、解釈とは解釈される対象を、可能なかぎり最良なものとして示そうとする試みである、という説明——は、解釈に関する様々な理論と競合するというよりはむしろこれら競合する理論を包摂するような、より抽象的な理論として想定されている。」(330p)

この記述のポイントは、解釈とは、可能なかぎり最良なものを示す試み、であるということ。そして、大事なことは、これは原理的な定義であるということです※。法の解釈者の代表的な者は裁判官ですが、法の解釈をするすべての者に適用されると考えてください。
※ ここでは、メタ理論的なことは論じません。ここ20年近くロナルド・ドゥオーキンの書いたこの部分を読んできて、原理的に反証するのは、なかなか難しいと思っています。

次に、以下の文章を引用します。

「我々の社会は固定した具体的倫理により結束した社会ではなく、また正義、公正そして価値ある正しい生活が要求する事柄の詳細にまでわたる合意によって結束した社会でもない。(私の考えでは、もし我々がこれらの事柄について合意に達したとするならば、我々の社会はより悪しき社会になるだろう。)我々は自ら有する諸制度を通じて正義や公正につき論争を行い、しかも論争を行いながら、自ら利用しているこれら諸制度を改革しようとするのであるが、その際に前提として了解されているのは、我々が創りあげた如何なる制度組織も一時的なものにすぎず、多数派や行政機関や裁判所の如何なる決定も、単に決定が下されたという理由だけで正しいものとは言えないこと、あるいは、決定が維持されているかぎり我々がそれを尊重しなければならないという理由だけで、当の決定が正しいものになるわけではない、ということである。我々はこのような仕方で、より善くより公正で正義にかなう、と我々が期待する社会に向って前進する。ある場合にこの歩みは後退であるとすべての人々が考えるとしても、全体としては前進であると我々は期待しているのである。」(342p)

上記の文章の内容は、法の解釈が、可能なかぎり最良なものの提示であることから、それは一時的なものにすぎず、また、決定の正しさの否定は、ドウォーキンの法の解釈が、最良なものの提示の中には“法の正しさ”についてもその時点で可能なかぎりのものが提示されている、法の解釈とはそういうものだという考えを含んでおり、法の解釈の連鎖における漸次的正当性に強い信頼をおいているからと言えでしょう。すなわち、逆説的な表現であると僕は考えています※。
※ ここがドウォーキンの面倒なところ、読みにくさだと思います。例えば、アメリカの哲学者・論理学者のソール・クリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」の「クワス算」のような正しさの言及の不可能性を想定しているのではおそらくないです。むしろドウォーキンの考えは、法が正しさを保障する“もの”として信仰的とさえ言い得る感じがしますが、僕としては、ジャック・デリダ的あるいは東浩紀的であり、法とは、〈正しさ〉の訂正可能性の連鎖だと考えたくなります(僕もまだ考え中です)。

いかがでしょうか?おそらく一回読んだだけでは、すんなりと理解できないかもしれません。しかし、それが法の解釈の難しさとそれに向かう者への謙虚さを要求する、特筆すべき特徴かもしれません。「解釈とは解釈される対象を、可能なかぎり最良なものとして示そうとする試み」であり、「我々はこのような仕方で、より善くより公正で正義にかなう、と我々が期待する社会に向って前進する。ある場合にこの歩みは後退であるとすべての人々が考えるとしても、全体としては前進であると我々は期待しているのである。」とする所以かもしれません。

この度もお読みいただきありがとうございました。

参照文献:権利論〔増補版〕ロナルド・ドゥオーキン著「日本語版へのエピローグ」より引用。

かわら版No.15

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