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ドイツ隊、執念の山ナンガ・パルバット『ヒマラヤ登攀史』深田久弥 岩波新書

 今、4畳半の書棚を探しても、見つからない。岩波新書 青版 704で、1969年発行されたこの本は、少年時代の自分にヒマラヤという場所と登山という意味を教えてくれた1冊だった。正直に書くと、自分は、アウトドアより、インドア派だと思う。読書の世界だけ、アウトドアを楽しんでいると言ってもよいほうだ。作者を見た方は、「ああ日本百名山の・・・」と思われただろう。ただ、今回、見つからないで、ネット検索して、作者が、あの方だと知ったのも、インドア派の自分らしい。まったく、作者の記憶がなかったからである。手元に見つからないので、記憶で書いているので、ご容赦願いたいが、「ドイツ隊 執念の山、ナンガパルバット」というのは、章の見出しだった思う。この山へのドイツ隊が、命がけで、何回も挑戦した記述がとても心に残っているからだ。

 私自身の貧弱な登山体験は、尾瀬へ行ったことである。鳩待峠からと沼山峠からの尾瀬ヶ原への旅を2年続けて、行った。行く前の事前登山も合わせると、それぞれのコースで、2回ずつ行っている。正直なところ、仕事であったので(小学5年生を引率していくという)楽しむというより、安全第一をどう確保するかと自分の貧弱な経験で大丈夫かという思いだった。尾瀬は、疲れた。とにかく、行った方は、当たり前と言うことだろうが、自分は、素人である。地元のガイドの方がついてくださるのだが、最初、事前登山では、もう、参ったという気分だった。尾瀬ヶ原に入るまでに、峠越えをしていく。ということは、下山と言っても、また、峠を越えるのである。はあはあ言いながら、登ったのを覚えている。檜枝岐の方から、沼山峠を越えるのも、難儀だった。尾瀬で唯一、そして、未だに心に深く残っているのは、浮島うきしまをみたことである。その例えようもない神秘な姿には、心奪われるものがあった。その後、説明の例えに使ったは、ラピュタが水の上に浮かんでいるという言い方をした。

 もう一つの体験は、富士登山(ただし、5合目から)である。大学1年の夏休みに、大学のクラス全員で登った。新宿駅からバスで向かい、夜中に5合目から登るという強行登山。ご来光を頂上でという訳だが、日頃、不健康な生活をしていた当時は、参ってしまった。高山病である。酒も飲んでないのに、二日酔いの頭痛のきついのが、やってくるという例えがよいだろう。痛くてたまらない。山頂で、担いできたビールを飲もうと言う仲間がいたが、飲める気分ではなかった。須走から、下山したが、驚いたことに、あれほどの激しい頭痛が、どんどん快方に向かうのは、信じられなかった。

 ヒマラヤ登攀史とは、まったくかけ離れた登山体験を綴ってしまったが、   その後、ここに書き記す山に登った記憶は、ない。これから、山登りをしようなんて気持ちは、心房細動と不整脈の持病持ちの自分としては、ない。でも、読書の世界とテレビや映画の世界だけは、アウトドアに広がっていくようである。

 追記 そうだ、もう一つ登った山があった、怖い思いをした山である。福島県の猪苗代湖近くの猫魔ヶ岳である。これも、尾瀬と同様に仕事で登ったである。尾瀬登山から2年目の時だった。夏の引率なので、安全確認のために事前登山に行ったのは、5月の連休だったように思う。登山口まで、旅行代理店の方が車で送ってくれて、代理店の方は、登らずに、車で下山口の方に行き、そこで待っているという。甘く見ていることもあり、登ったのは、自分とあと女性2人であった。とくに、女性の1人は、少し足が不自由なところがあったので、夏の本番の前に、自分で登っておきたいと志願されて来たのだった。猫魔ヶ岳に登るまでは、南側から登っていたので、気づかなかった。山頂から、反対側に下り始めて、事態の深刻さに気づいた。残雪である。雪がなければ、草原とおぼしきところ、一面の雪。いったい、どう行けばよいのだろう。まったく、素人である。とにかく、女性2人には、待ってもらって、自分は、あたりを歩き回った。あの派手なショッキングピンクのようなテープの目印が見つからないのである。必死だった。日が暮れたりしたら、大変だとわかっていた。今は、知らないが携帯の電波は、圏外だった。沢のように思われる場所を見つけて、その岸沿いに見て歩き、テープの目印を発見した時は、助かったと思った。3人で下りて行き、旅行代理店の方の車を見つけた時は、ほっとしたのを覚えている。本番の夏に行った時には、雪などは当然なく、わかりやすい道で、こんなところで迷うヤツは、いるわけないという雰囲気だった。ますます、ヒマラヤ登攀史とは、比べものにならない素人の体験談であった。

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