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祝婚歌

知人の息子さんの結婚式に出席して、お祝いのスピーチをすることになってしまった。

なってしまった、と、少し困惑しているのは、ひとつの愛すら成就出来なかった私では、その役は不適当ではないかと思っているからだ。

失敗談を話せというのなら、いくらでも話せるが、もし愛する人との愛を永遠のものとしたいなら、結婚はしないことだ、などとスピーチでつい本音を漏らしでもすれば、出席者たちが手にしていたナイフとフォークを一斉に落とすのが見えている。

それでも、いったん受けてしまったら、今度は少しばかりみんなに受けようと思うのが、私の唯一いい所(?)で、携帯でその文例を検索したりもしたが、今更、結婚生活を円満に送るには、三つの袋が要ります。それは「堪忍袋」、「給料袋」、「お袋」ですなどど、手垢のついた祝辞を述べても、つまらない。
そこで思い出したのが、詩人吉野弘の「祝婚歌」である。

     
    二人が睦まじくいるためには
     愚かでいるほうがいい
     立派すぎないほうがいい
     立派すぎることは
     長持ちしないことだと気付いているほうがいい
     完璧をめざさないほうがいい
     完璧なんて不自然だと
     うそぶいているほうがいい


ずいぶん昔のことになる。
実はこの詩の冒頭を、私は、ある女性に紹介したことがある。
その人とは結婚してもいいと考えていたのだが、その女性のこの詩の反応を聞いて、びっくりしてしまった。
「ずいぶん、言い訳がましい、詩ですね、やりもしないで、初めから予防線を張ってるみたい・・・」
私は絶句した。
仮にも、人気の詩人の、結婚式で朗読されれば、皆が感動するし、詩の色紙を家に飾っているひともいるというのに・・・何て大それた女だと、その時は思ったが、詩の鑑賞は自由だし、むしろ、信念を持って選んだ詩人の言葉も時として、予想を覆す受け取り方をされるもので、詩人はいつまでも言葉に謙虚でいなければならないと、詩人でもない、私は思ったものだった。
  
     二人のうちどちらかが
     ふざけているほうがいい
     ずっこけているほうがいい
     互いに非難することがあっても
     非難できる資格が自分にあったかどうか
     あとで
     疑わしくなるほうがいい

結局、私はその女性とは結婚しなかった。
だが、時折、吉野弘の詩集を引っ張り出して、この詩を読んだ。
これは結婚する人にというよりも、社会生活を送るうえでの、大事な格言のように思えてきた。
     
     正しいことを言うときは
     少しひかえめにするほうがいい
     正しいことを言うときは
     相手を傷つけやすいものだと
     気付いているほうがいい
     立派でありたいとか
     正しくありたいとかいう
     無理な緊張には
     色目を使わず
     ゆったり ゆたかに
     光を浴びているほうがいい

吉野弘ファンには申し訳ないが、愛し合い、二人で、新しい生活をしようと船出する人への、この詩が本当の意味での祝婚歌になるのかは、ひねくれた年寄りになった、私にはわからない。

最後の一節は、私が、この詩の中で、一番好きなところだ
     
     健康で 風に吹かれながら
     生きていることのなつかしさに
     ふと 胸が熱くなる
     そんな日があってもいい
     そして
     なぜ胸が熱くなるのか
     黙っていても
     二人にはわかるのであってほしい

美しい一文だが、これは、詩人の世界だ。
庄野潤三や吉野弘の描く世界では、当たり前でも、現実の世界ではそんなに簡単なものではない。
一人の女性すら幸せに出来なかった私は、身に染みて、その難しさを感じている。

別の書物で、愛するということは二人が見つめあうことでなく、遠くにある一つのものに、二人が並んで目を凝らすことだ、とあって、これには少し食指が動いたが、ひねくれた年寄りはこう考え直すのである。
時として、結婚生活の中で、人は目を凝らすべき対象物を見失いがちだ。それを見失ったらどうするの?

全く、袋小路に入ってしまい、出来れば仮病を使って、結婚式を欠席しようとまで、近頃考えるようになった。

ほんとに、愚か者の考えは、我ながら、想像以上に常識から、外れている。

                     


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