私がYouTubeでよく見るものは・・・

こんな年寄りでも、YouTubeはよく利用する。
見るのはほとんどお笑いやバラエティー番組で、甲高い声にコンプレックスがあると言いながら、この時は動画を見て、声をひっくり返して馬鹿みたいに笑っている。
今まさにYouTubeは全盛期で様々な動画が毎日ラッシュとなって溢れかえっている。                              さすがに、○○をやってみた、とか、どっきりしてみました、系は、この歳になると、痛い。
お笑いを見て、涙とよだれをさんざん流した後には、静かな動画が最適だ。

自粛続きのこの時期で、能天気の私も近頃不意に「何処かに旅に出たい」という衝動が沸いてくる。
そんな時見るのが列車で旅する動画である。
中でも寝台列車で旅する動画をよく見る。
調べてみると最近は寝台列車の数も減り、今、定期的に動いているのは「サンライズ瀬戸・出雲」ぐらいだが、その様子も何人かの人が、動画で紹介してくれている。
私は、この時ばかりはいつもの缶酎ハイではなく、缶ビールを枕元に置き、ベッドに寝転がる。
車内販売で缶ビールを買ったというていなのである。
私はここで「サンライズ瀬戸・出雲」の一夜の乗客になったつもりで、タブレットの画面に見入る。

だがそれだけではない。私の妄想は人並外れていて、私はここで自分を未解決事件の犯人を追って列車に乗り込む刑事に仕立て上げるのだ。
実はこれには下地があって、かつて何度もテレビドラマになったり、映画化された、松本清張の「砂の器」の中の今西刑事が犯人の痕跡を追って、東京駅から出雲へと向かうのである。テレビと映画では、そのルートは多少違ってはいるが、それはどうでもいい。私はとにかく既に敏腕刑事なのである。

無論、動画では配信した人が車内を紹介してまわるので、思わぬ臨場感で旅を続けられる。                           闇の中を流れていく車窓の景色を見たり、うたたねをした後、ハッと気づくと夜の閑散としたプラットフォームに列車は滑り込んでいたり、夜行列車ならではの旅情を感じることもできる。

実際は私はその時少し加齢臭が臭い始めた自分のベッドに寝ているのだが、時折、今西刑事が乗り移り、夜行列車の心地よい揺れに身を任せながら、心はまだ見ぬ犯人へと推理を働かせている。まことに安上がりなエンターテインメントである。

先述したように「砂の器」は何度も映像化されているのだが、その度、微妙に主題が変わる。
特に有名なのは、1974年に松竹から配給された野村芳太郎監督のものだが、その映画では今西刑事を丹波哲郎が演じていて、大男で朴訥な感じは、私と似てないこともない。                      人気のある作品だから、映画評は賛否両論だが、ここでの主題は「宿命」で、それはよく表れていたように思う。                音楽を担当した芥川也寸志のテーマ曲「宿命」も素晴らしく、ラスト近くで犯人が子供の頃父親と放浪してまわる回想シーンで繰り返し流された時には、思わずほろりとさせられた。

映画のストーリーは有名過ぎてここでは改めて述べないが、ひとつ素朴な疑問。

この映画での主題となった「宿命」と「運命」はどう違うのだろうか?
「運命」は自分の力で変えることもできるが、「宿命」はそれすら出来ない、ということなのか?
映画の一シーンで、婚約者に「宿命」って何?と訊かれた犯人の音楽家はこう答える。
「宿命」とは生まれてきたこと、そして、今生きていること。

もしそれが真実なら、現実世界の自分たちも、「宿命」に従って、それに翻弄されながらも生きていかなければならない。
果たして私は「愚か者」としての宿命を背負って、これからも生きていかなければならないのだろうか?それはそれでいい。かも。しれない。

最近はスピリチュアルな動画もよく見る。
静かなBGMをバックに神社の紹介をしてくれるサイトがある。
暇に任せて、いくつか見ていると、寝転がっていても、そこを訪れた気になる。
怠け者の私には最適だが・・・まことに不心得なもんで、このことはさすがに神社好きな友人のIさんには言えずにいたが、先日、思い切って、その件話すと、意外にも
「遥拝所という考え方もできますし、いいんじゃないですか」
とあっさり認めてくれた。
それでも、「金運爆上げ」と称して、見ているだけで思わぬ大金が入るという、金色の画面を何分間も流しているサイトまで見ていることは、厚顔無恥の私でもさすがに、Iさんにはまだ言えない。


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