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ふたりのジェームズ

アメリカ文学が嫌いじゃない。

愚か者のくせにえらそうに、と思われると、この話はここで終わりになる。
ここの投稿者の皆様は誰もクリエーターとして自立していて、文学にも精通していると思われる。
だから、今から話すことはいかにも初心者の個人的なたわごとだ。
こうして言い訳ばかりするのには少しばかり理由がある。
自分の感性が近頃疑わしいのだ。自分がこうだと思うことがなかなか人に伝わらないもどかしさ。
たとえば少ない読書の中で感動した作品を紹介しようと思っても、その半分も伝えることのできない歯がゆさ。

アメリカ文学が嫌いじゃない、と言いながら、そんなにたくさん読んだわけじゃない。
ヘミングウェイはそのタイトルに惹かれて読み始めるが、いつも途中で、挫折する。

サリンジャーは流行りに乗って「ライ麦畑でつかまえて」を読んだはずだがあまり覚えていない。
フォークナーは好きだ。
いつか身の程知らずに短編小説を書きたい、と思った時、フォークナーの短編を読み漁った。「八月の光」もタイトルがかっこいいと思った作品だが、こちらは読みとおした。

貧しい読書遍歴ではあるが、アメリカ文学に限らず、ヨーロッパ文学、ロシア文学も含めて、今まで読んだ外国文学の本の中で、私のベストテンに入る作品。

それがふたりのジェームズの作品である。


アメリカの作家ジェームズ・パーディーの「アルマの甥」のすごさを、どう伝えたらいいのだろう?

伝えられないなら、読んでいただくしかないのだが、恐らく多くの人は直ぐに退屈で投げ出してしまうことだろう。
何しろ特に変わったストーリー展開もない。ただただ、アメリカのある町の一画に住む人々の、しかも老人たちの日常がつづられているだけで、アメリカ文学特有のダイナミズムがない。
一読しただけではその良さがわからない。というか、一読するのに難渋するため、私も最初は毎晩少しずつ読んでいく方法を取った。よく見ると文体自体は淡麗で詩的に満ちているから心地よい。

主人公はアルマという小学校教師を退職して、故郷に戻ってきた老婦人である。彼女は未婚で今はこれも年老いた兄と暮らしている。
兄妹は甥であるクリスを愛している。
何故なら両親を飛行機事故で失くした甥をその後家族として育ててきたからだ。そのクリスは今は町を離れ、軍隊に入っている。時は朝鮮戦争のさなか、クリスは遠く離れたアジアにいる。

物語はそのクリスから二人のもとに手紙が届くところから始まるのだが、やがてクリスが戦地で行方不明になったとの一報が入る。そこでアルマの判を押したような退屈な日常にクリスへの思いが入り込んで、それは交流する近所に住む老人たちをも巻き込んでいく。
何より、アルマとボイドの兄妹を囲む周囲の人々もそれぞれに独自の過去を持ち人生を続けている。それらが意外な深さで絡まりあって、それまで気付かなかった真実に近付いていく。
やがて、近所の住人達との交流から、アルマは自分が愛する甥のクリスの事さえ、何も知らなかったことに愕然とするが、その思いはやがて諦念と変わり、「それが人生」と受け入れる。

だが、「日常」とは一体何だろう。

ジェームズ・パーディーはこの作品で、これでもか、これでもか、とばかりに小さな町の老人たちの日常を書ききっている。
まるでそこにこそ、人生の全てがある、と言わんばかりに・・・そこにしか真実はないとばかりに・・・。

確かに、私たちは誰しもそれぞれの日常を持っている。
それは概して退屈さに満ちていると思われがちだ。
朝起きて身支度を整えて、仕事や学校に行き、慌ただしい時を過ごし、勉強し労働し、疲れ果てて帰宅する。テレビや読書、ゲームやネット、家族と食事をしたり、お酒を飲んだり、ささやかな慰安を喜びとして、眠りにつく、そしてまた朝・・・。その繰り返し。
ふと、こんな日々でいいのかと葛藤し、新しい何かを始めようとするが、大抵はうまくいかない。
何も大して大きな事件も起きない代わりに、それほどの大きな喜びもない。それが日常。それが人生。そんな日常を私たちは無限に繰り返しているように思いがちだ。
だが本当にそうなのか?

「アルマの甥」を読んでいると、時折その日常の中に思いがけない人生の真実が隠されていて、それだからこそ時折背中におののきのようなものを感じる瞬間がある。
退屈だと思われる「日常」もよく見れば実はその傍らに誰しも暗い深淵を抱えているし、覗き込めば、そこに思いがけぬものが潜んでいる。さりげなくすれ違う人々に思い切って手を伸ばせば、自分との意外な精神的な接点をも見つける。

この作品の登場人物はいわゆる普通の人である。だがその普通の人たちが毎日見ている景色は本当はかけがえのないほど美しい。人との関わりもまた然り。これは私たちの日常ともいえる。

「アルマの甥」を読み終えて、本を置く。私の中に心地よい諦念と静謐さが同居している。

私はそう遠くない時期に、この世界からいなくなるだろう。それでも世界は何も変わることなく、朝が来て、夜が来て、普通の人々の日常は続いていく。当たり前のことだけど、この物語を読んでいると、素直にそのことを受け入れることが出来るのだ。

人生とはそういうものだ、そして、少しは、いいものだ、と。

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