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戦場のヨナス

出会い

1924年、秋、ドイツのマールブルグ大学でひとりの若者とひとりの少女が出会っている。
若者の名はハンス・ヨナス
少女の名はハンナ・アーレント。

ふたりは大学時代を誰よりも一緒に過ごした。一緒に勉強し、一緒に食事をし、一緒に将来を語った。
同じユダヤ人であることから親近感を持ち、急速に仲は深まった。
美しい少女は一方で傷付きやすい敏感な女性だった。
若者は少女を守る事に一生懸命だった。それは恋心だったかもしれない。

ある日少女が風邪をひき、大学の講座を休んだ。
若者は講義のレジメを持ち、少女が住む屋根裏部屋を訪れた。
看病をしているうちに、そのう、なんとなく、いい雰囲気になった。
若者は少女の肩を抱いた。熱があるのか少女の体はほてっていて、ドラマとかでもよく見る、男としてはキュンとなる場面だ。
だが、若者はその時、少女から衝撃的な告白を受ける。
「ハンス、あなたに言わなければならないことがあるの」
少女はそう言った。
若者は愕然と腰折れた。
あろうことか、少女がふたりが師事する教授とただならぬ関係にあると言うのだ。
その教授の名はハイデガー
その時の若者のショックはいかばかりか?
誠に男というものつらいもの。
振り返れば私にもそんな経験があるような、ないような・・・。
だが、若者が偉いところは、その後も少女とフランクに付き合い、一時期の断絶はあったものの、少女が数十年経って忽然として亡くなるまで、真の友達として、接した事だ。
私には出来ぬ。・・・そんな気がする。
逆を言えば、若者と少女は魂と魂が結ばれた真の男女関係だったのかもしれない。

ジャストフレンズ


ジャズのスタンダードに、「ジャストフレンズ」、という名曲がある。

かつて恋人同士だった二人が別れ、友だちに戻るという、いわば失恋の曲なのだが、テンポが良くてノリのいい浮遊感があるから、コルトレーンをはじめとした有名な演奏者が吹き、サラ・ボーンをはじめとした多くの歌手もよく歌っている。

ここでの投稿で書いたこともあるが、私がパートに出ている施設で、何度かジャズライブを企画したことがある。
偶然にも、演奏者は違うのに、選曲が「ジャストフレンズ」で被ったことがある。
その時、私はMCの特権を活かして、演奏者にこういう質問を投げかけてみたのだった。

さて、永遠のテーマである、男女の間に友情は成立すると思いますか?

年老いたトランペッターはモゴモゴと口を濁した。
フルーティストの中年女性は何よ今更、つまんない質問するの、とばかりに、醒めた表情で横を向いた。
唯一、若いベーシストだけは、真っすぐに私を見て、「相手次第でしょうね」と答えた。
そう、その答えは一部当たってるのかも、と、彼らの演奏する「ジャストフレンズ」を聞きながら、そう思った。
私はきっと面白がってそんな質問をしたのではない、と思いたい。

きっと、ハンス・ヨナスとハンナ・アーレントの関係が頭にあったからに違いない。

こんな事にめめしく拘るのは私ばかりなのかと思ったら、近頃、テレビドラマで、「いちばんすきな花」、というのがあって、前宣伝で、男女の間に友情は成立するのか、と謳っていた。
若いドラマを見続けるのは少し忍耐がいるが、いまのところ、私の求めるものは得られていない。

戦場のヨナス


大学でハイデガーのもと、勉学に励んだヨナスとアーレントだったが、迫りくるナチズムの迫害の中、その後は、全く違った人生を送ることになる。

アーレントはドイツを脱出したあと、パリに身を潜め、その後、アメリカへと亡命する。
これもここに投稿した、「漂白のアーレント」、でものべたように、新大陸で、主に政治思想家として、哲学者として多くの場面や論壇で活躍することになる。
ただその間長く、国籍のないパーリアとしていきていくことにもなる。

一方で、ユダヤ人として、そのアイデンティティをより強く意識して生きていたヨナスは、ユダヤ人の国家を建設するための運動、シオニズムに傾倒していく。

運動のさなか、彼は兵士として、戦場に立つ。
そこで、彼は生命のはかなさを実感する。
彼が最前線で戦ったのはほんの数ヶ月に過ぎなかったが、その体験は衝撃的だった。
轟音ときな臭い土煙の中、彼の見た光景は、毎日誰かが負傷し、殺害されていく、圧倒的な暴力だった。
その体験は彼に新しい哲学的な思索を与えることになる。

人間の存在、生命の存在に対して、ハイデガー哲学では説明できない、はかない肉体について考え、精神と肉体を分ける二元論的な西洋哲学をも乗り越えていこうとしている。
その思索は自ずと「生命倫理」「環境倫理」へと進んで行き、その論を進めて行く中で、アーレントの考えもその思索の中へと取り入れていく。
アーレントの書いた「エルサレムのアイヒマン」で一度は離れたふたつの魂が再び出会うのである。

未来世代への責任


ヨナスの生命倫理、技術倫理の思想は高く評価された。
それだけではない。
何より画期的なのは、未来世代への責任を明らかにしたことだ。
ヨナスはテクノロジーの危機について、こう語る。
恐ろしいのは、原子爆弾の明らかとして目に見える脅威よりむしろ、あまりにも普通で、平和的で、利潤・享楽・快適・生活の美化・負担の軽減へと方向づけられた技術の使用である。
環境破壊の問題において顕著であるように,テクノロジーの影響は次々と連鎖反応し、長い時間をかけて巨大化することで、未来において初めてその副作用が顕在化する。
だからこそ、現代に生きる私たちは生命倫理、環境倫理においても、未来世代への責任を負っているのだ。
その提言にはいささか理想主義的な一面はあるにせよ、人新世の時代に生きる私たちが頭上に掲げるべき理想なのかもしれない。

それで結局、男女の間に友情は成立するのか?



自身の活動においても明確に、公的領域と私的領域を区別して、提言を続けたアーレントだったが、ことヨナスとの書簡のやり取りの中ではその私的な部分をもあからさまにしている。

その中に次のような一文がある。
愛と心の動きについて述べたものだ。
少し長いが引用する。

「実際、私たちが互いに自らを区別するのは、私たちの外面においてです。しかし、それと同時に、有機体としての私たちは皆ほとんど同じように見えます。つまり、私たちが解剖されてしまえば、この身体に拘束されながらも情動を持つ内的生命において、私たちは皆ほとんど同じです。私たちがお互いをはじめて区別するのは、私たちの感情を表現することが問題となる時なのです。だからこそ、たとえば、すべての人間は愛をすべての時代に同じように感じていると考えられていますが、しかし、愛を無限に違った仕方で表現するように思えます」

別の一文ではこうも言う。

「・・・中略・・・私が誰かを好きになったり、それどころか愛したりすることを、私は特定の器官において、たとえば、まったく比喩的な意味においてでなく、私の心臓において、それを明瞭に感じることができます」

これらの文章を読んだとき、訳も知らず、大袈裟に言えば私の胸は感動で震えた。

男は目の前の人のことを、妻と呼び、恋人と呼び、友達と呼び、女は目の前の人のことを、夫と呼び、恋人と呼び、友達と呼ぶ。
そこにどんな違いがあるのか・・・?

もしかしたら、アーレントの言うように、その時の愛と心の動きは、身体の器官の、例えば心臓で感じているものとして、全て同じものかもしれないのに・・・。

こんなことを考え出したら、これまで信じてきた秩序や経験で積み上げてきたものすら、あやふやになって、泥沼へとはまっていくのかもしれない。
私の長く持ち続けた疑問は、結局、決して解決されないのだろう。

ただひとつだけ確かなことがある。

私はもう人に、男女の間に友情は成立するか?、などとという質問は決してしないだろう。

そういうことだ・・・。

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