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酒とバラの日々

「その話、前も聞きましたよ」と若い友人が言った。
「そうだったっけ?」と私は照れ隠しに視線をそらし、店内をぐるりと見回す。                                洞窟のような、そんな形容詞をふと頭に浮かべながら、壁際の本棚に視線は戻り、再び、ある本の背表紙で止まった。                伝説の登山家、加藤文太郎に関するものである。              「この人、新田次郎の「孤高の人」のモデルになった人なんだよね」   店を訪れ、注文を終えると、私はそう言ったのだ。制止されなければ、こう続けるつもりだった。                        「加藤文太郎が何故単独行を続けたのか、分かる?」           登山経験も乏しいくせに、知ったかぶって、そう言ってたと、思う。    この店に来ると、私は何故か上ずっている。珈琲の香りがそうさせるのだろうか?                               ふと見ると、狭いカウンター席の向こうでマスターがおそらくは私たちが注文した珈琲を入れている。その横顔は今日も真剣そのものだ。

八ヶ岳の麓の町にある小さなジャズ喫茶。                小綺麗な街のカフェとは真逆で飾り付けなど何もない。洞窟のような狭く薄暗い店内には、ジャズ喫茶特有の大きなスピーカーとたくさんのレコード、CD、壁際に本棚が据え付けられている。                マスターの愛読書だろうか、山の本、ジャズの本、珈琲の本 東洋哲学の本、それから茶道の本。冒頭で述べた本もそこにあるのだ。       私は気の合う友人と、女子会ならぬ男子会のランチをした後に、この店を訪れる。                                決して一人では来ない。変な言い方だが、馴染みの客にはなりたくないのだ。いつも一見客のようにふらりと立ち寄り、決して長居もしない。一杯の珈琲を飲み干すと、何事もなかったように、店を出る。           そんな気持ちを知ってか、知らずか、マスターも特に話しかけても来ない。かといって、気難しい人でもなさそうで、ある時には、カウンター席に座っていた若い常連客風の男の人生相談に乗っていた。             店のメニューは少なく、珈琲とトーストぐらいで、決して儲かる様子もないのだが、当のマスターに悲観的なものはない。

茶の湯の極意に「一期一会」という教えがある。            今は出会いの大事さを教える言葉として世間に浸透してきたが、私がこの言葉を知ったのは四十年以上前の話だ。十代の私にどこまでその意味が分かったのか疑問だが、私はそれからこの言葉をいわば座右の銘として胸に刻んできた。                               茶をふるまう時、亭主は眼前の客人をいつも最初で最後の客のつもりで心を込める。茶会が終わり、客人が帰る時には玄関先まで出て、客人の背中が路地の角に消えるまで、見送る。だが、私が感銘を受けたのは、このあとだ。
.亭主は茶室に舞い戻り、再び、いま帰った客人の幸せを人知れず祈りながら、またお茶を立てるのだ。「一期一会」の出会いとはそれほどに深い。

ビルエバンスが「酒とバラの日々」を弾いている。ピアノの音が店内に流れている。                              仕事をするマスターの手がふととまり、窓の外に目をやっている。私は私で友人との会話をやめ、残った珈琲の美味しさを噛みしめながら、遠くを見る目つきになる。                              過去を懐かしむようにピアノの音を聞きながら、会話をすることもないのにマスターと思い出話をした気になっている。                マスターは玄関先まで私を見送ることはないが、また今度来た時には、同じように美味しい珈琲を入れてくれるのだろうか。五年後、十年後、お互いにさらに年老いて、今の「珈琲とジャズの日々」をいとおしく懐かしむだろうか。                                 そんな、人との関わり方があっても、いいと思うのだ。たった一杯の珈琲を通して。

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