「サンフレ取材班」の18年 Part1
プロローグ
2006年3月5日、5名の学生と広島ビッグアーチ(エディオンスタジアム広島)に初めて立ち入った。Jリーグ開幕戦、サンフレッチェ広島対鹿島アントラーズの、観戦ではなく撮影のためである。
当時40代。歩く速度も、食べる早さも学生に負けることはなく、カメラの3.5インチモニターも老眼鏡なしで細部までクリアに見えていた・・・そんな私もこの12月から(前期)高齢者会にメンバー入りする。それはともかく、2006年から2023年10月21日セレッソ大阪戦までのサンフレッチェ広島Jリーグ公式戦ホームゲーム355試合のうち、大学業務のため行けなかったいくつかの試合やコロナ禍の無観客試合等を除いてほとんどの試合に参戦していた。18年という期間が長いのかまだまだなのかはよくわからないが、よくもまあ無事に続けることが出来たものである。
安田女子大学「サンフレ取材班」はサンフレッチェ広島のJリーグ公式戦ホームゲームで場内演出用の動画を学生カメラマンが撮影し、スタジアムの大型映像装置に提供する他、SNS時代前の2006年当時からネット用動画の提供を続けてきた。1年生の複数の希望者から現場で選考を行い、各学年で1名のレギュラーカメラマンが残るという、Z世代の学生さんにとってはちょっとハードなシステム。それでも、現代ビジネス学科、造形デザイン学科の2学科にわたり、18年の間レギュラーカメラマンを引き継いでくれた学生の皆さんに敬意を表したい。なにより、卒業後、社会に出て美しく活躍する彼女らに時々出会のは、とても嬉しく、誇らしいことでもある。
9月16日のヴィッセル神戸戦、9月30日の名古屋グランパス戦の2試合は卒業生にメンバー入りしてもらう同窓会を企画した。ビッグアーチ/エディスタでの「サンフレ取材班」の活動が11月25日のガンバ大阪戦をもって終了するからである。
時々人の名前が出てこなくなる症候群を除いて特に「ぼけ」を自覚しているわけではないが、エディスタ最後の日に向けて、記憶をたどりながらこの18年間の出来事を点描し、彼女らの活躍を記録に留めることにした。
サインもらっちゃった・・・
撮影を始めた2006年シーズンの滑り出しは散々なものであった。ホームで負けてアゥエイで引き分けるという繰り返し。4月には監督が交代しホームでかろうじて引き分けたのは4月22日、佐藤寿人選手がキックオフ最速ゴールを決めたセレッソ大阪戦。5月3日、駒野友一選手がフリーキックゴールを決めた雨のアビスパ福岡戦でやっと勝利を見ることができた。
(古いHDDを開けてみたら、当時のサポカメの映像が出てきた。1440X720のHDV解像度・・・)
3月5日の開幕戦以降、サンフレ取材班の学生は、大型映像用に試合前の会場周辺を撮影する他、ピッチ横にカメラを据え試合そのものも撮影するようになった。
4年のKSKさんが撮影する映像には迫力があった。相手とバトルしながら目の前を駆け上がる駒野選手の映像が流れた時、観客からウォーという歓声があがり拍手が続いた。7月22日のジェフ千葉戦では、デビューした柏木陽介選手の般若の顔をした野心溢れるプレイを永延と追っていた。まさに天才カメラマンであるが、一方、彼女はもともとサッカーに興味があったわけではないようで、最終節あたりで実はオフサイドを知らなかった事が判明した。
2006年はワールドカップドイツ大会の年。サンフレッチェ広島からも駒野選手が日本代表入りしていた。3月25日のガンバ大阪戦。前日、大阪での就活を終えたKSKさんは、ガンバ大阪の選手と同じ新幹線に乗って広島に帰ってきたそうである。
そして、翌日のカメラマン控室。
「サインの列に並んだら、ガンバの5番にサインもらっちゃった。」と、嬉しそうにメモ用紙を見せびらかす彼女。
「えっ! ツネ様!!・・・」と固まる一同・・・
なんと・・・日本中がワールドカップで盛り上がる中、彼女は日本代表キャプテン、宮本恒靖選手を知らなかった・・・・
ワールドカップドイツ大会の期間中、ペトロヴィチ監督が就任。あのヤバい練習シーンを撮影したあと、7月22日 ジェフユナイテッド市原・千葉戦でお披露目するメッセージ収録を行った。
ワールドカップが終わりリーグ戦が再開した。ペトロヴィッチ監督就任後、ホームで勝てない試合が続きちょっとハラハラしたが、8月30日ジュビロ磐田戦でやっと勝利もぎとった。それ以降リーグ戦では、約一年間、ホーム無敗が続いた。
その後、シーズン後半戦で徐々に勝ち点を積み上げ、無事、J1に残留することができた。
「にう」って何ですかね・・・
2007年シーズン。ピッチに背を向け、サポーターの様子をひたすら撮影するサポカメを配置し、選手のプレイとサポーターを交互に組み合わせる編集スタイルが確立した。選手のプレイシーンにあわせて、ゴール時はもちろん、おしいシュートが外れて天を仰いだり、相手の反則にブーイングするカットを入れた振り返りビデオ(PV)を作成するようになった。
2007年は負けが続き、最終的には12月8日の入れ替え戦で京都サンガと引き分けJ2降格となった年である。その日も試合後の監督会見や選手会見を収録したが、スタジアム内に、会見場にも漂っていた殺伐とした空気を今でも覚えている。
会見場で当時の久保社長がペトロヴィッチ監督を続投させると発表したとき、周りのメディアは「えっ」という感じであったが、実は私は少しほっとしていた。多数の選手が抜けてチームがバラバラになってしまうと思っていたからである。
話しは少しさかのぼる。11月18日ヴィッセル神戸戦。マラソンゲートに、縦書きで「にう」と書かれた弾幕が垂らされた。一緒に撮影していた同僚の山下教授と
染「にう? ・・・あれ何ですかね」
山「う~ん、何なんでしょう・・・」
さらに縦書きで「共闘」の弾幕が垂らされ・・
山「共闘・・・学生運動のスローガンじゃないんだからね・・・」
染「あっ・・・・」
|共| |に|
|闘| |う|
さらに10月27日ジェフ千葉戦にさかのぼる。2-0でリードしていた、後半アディッショナルタイム、立て続けに2失点し痛い引き分け。入れ替え圏から抜けられない苛立ちの中、サポーターから示された「勝て」のボードを見て佐藤寿人選手が言った。
「勝て」ではなく「勝とう」ではないか・・・
ここから「共に闘おう」(We Fight Together)という言葉が言われ始めたと思う。この思いを込めて、12月1日、ホーム最終ゲームのガンバ大阪戦の試合前PVを編集した。(ラストカットのみ)
All for J・・・ワン!
J2で迎えた2008年シーズンはほとんどが勝ち試合で、柏槙コンビ+森脇ら当時の若い選手らの活躍もあって、記憶にある限り最も楽しいシーズンとなった。2008年からスタジアム内にケーブルをはって地上カメラの生中継業も担当するようになった他、試合前に上映する振り返りビデオ(PV)のBGMを選べるようになった。以後BGMがアンセムになるまでの2年間、同一シーズン内で同じアーティストの曲を2回以上使わないというルールを決め、それぞれの試合展開にあわせた曲選びに励んだ。
3月16日ホーム開幕戦、3-0で勝利した愛媛FC戦にあわせたのは息子のオファーによる「GReeeeN」の「-道-」。このPVを上映した次のホームゲームは3月23日、雨の水戸ホーリーホック戦。1名退場の苦しい展開の中、相手の決定的シュートをファインセーブしたのはよかったのだが、セーブしたのがストヤノフ選手だったため一発レッド、PK献上。「メーデー、メーデー、広島はいったい何人で戦ってるんだ。」「信じられないことだが広島は9人しかいない・・・」ということで終盤に1点を追う絶望的な展開。久保竜彦選手のゴールで同点に追いつくも再び突き放されたアディショナルタイム、森脇良太選手の顔面トラップシュートが決まり同点に追いついた壮絶な試合は、最後まであきらめないサポーターの映像とともに今でも印象に残っている。この試合のPVには「ゆず」の「栄光の架橋」をあわせた。
ところで見出しの"All for J・・・ワン"の話。2008年のチームスローガンは "All for J1"。沢山の人に様々な場所で"All for J1"と言ってもらい、ハーフタイムに流すという企画をやっていた。当時この企画を担当していたのがサンフレッチェ広島の山田さん。
山「先生ねえ、わしゃ、 All for J1のワンを犬に言わせるのをどうしても見たいんですけどね。」
染「まじですか。かなり難しいと思いますが・・・」
山「どうしても見たいんですよ。お願いできますかね。」
染「・・・・・」
ということで、まずは犬探し。「誰か犬を飼ってる人はいませんか?」と学内を聞きまわって柴田教授のお宅に協力いただけることになった。わざわざ奥様に車を出していただき、大学の芝生広場で収録開始。教授が「オール・フォー・ジェイ」と呼びかけ「ワン」と吠えさせる撮影がそう簡単にうまくいくはずがなく、失敗の繰り返し・・・。20テイク目ぐらいだったと思う。前のテイクの山下教授の「おしい」という声がちょっとかぶってしまったが、「オール・フォー・ジェイ」と「ワン」のタイミングがピタリとあった。後日、この映像はスタジアムで喝采を浴び、柴田教授に報告したらとても喜んでいただいた。
その後、サンフレッチェ広島は順調に勝ち点を重ね、9月23日の愛媛FC戦に勝利すればJ1への復帰が決まるところまでたどりついた。前ホームゲームのFC岐阜戦は7-1で大勝したこともあり長い曲が使える。実はJ1復帰が決まるこの試合に合わせる曲は「アルフィー」の「希望の鐘が鳴る朝に」にすると決めていた。
J1復帰を決めた次のホームゲーム、10月4日の湘南ベルマーレ戦は「絢香 」の「 おかえり」を流すことにした。「お帰り sweet home! 帰る場所 愛をありがとう」。
学生カメラマン列伝 2009年~2010年
J1に復帰した2009年シーズン頃からは、撮影の経験を積んだカメラマンがそろうようになり、試合前の外撮影、ケーブルはり・生中継から試合撮影まで一連の撮影を指示なしで学生たちにまかせられるようになった。
YMMさんは試合前の外撮影が得意。スタジアムに集まってくるサポーターの様子やお祭り広場の様子を次の試合前に上映するPVの冒頭部分に使っていた。彼女は外撮りに出るたびに抜群のコミュニケーション能力を発揮?して屋台の人とすぐ仲良くなるようで、お菓子やら、アユの塩焼きやらなにがしらもらって帰ってくる。元気にしてるかな。
GTNさんとUEMさん。二人とも1年生の時から撮影の才能を発揮し、4年間メインカメラを担当してくれた。結婚して広島を離れているはずだけど元気にしているかな。
2006年から一緒に撮影を行ってきた山下教授は1年生が最初につくサポカメの指導担当。具体的なカメラの操作や録画開始のタイミングからカメラを向ける方向や画角まで細かな指導を行ってくれる。また、長い間、自らサポカメを担当し試合中はB6前の定位置に立ち撮影を続けた。
カメラマンは試合中喜怒哀楽を表に出すのはご法度だが、彼はサンフレッチェ広島のゴールが決まると必ずガッツポーズで飛び上がり、スカパー(当時)の中継に入り込んでしまう。何回言われてもなおらないので、最後はスカパーのスタッフから、「山下先生は飛ぶのか」という賭けの対象になったとか、ならなかったとか・・・。
2009年11月21日名古屋グランパス戦。長い闘病を経て森崎浩二選手が1年ぶりにビッグアーチに帰ってきた。復帰を待ちわびていたサポーターの熱い想いに感動した。
サンフレ取材班は2006年に撮影を始めた当初から撮影カメラに SONY FX1を使っていた。地デジ化前の4:3のアナログテレビの時代からハイビジョン(HDV)カメラで撮影していたのである。標準では望遠側が足りないので、8月28日のモンテディオ山形戦から2倍のテレコンレンズをつけ、その重さに対応したごつい三脚を導入した。
このカメラ、とても迫力のある映像が撮れるのはよいが、視界が狭く、選手のプレイを追うための反射神経が求められる。なぜか小柄な学生が担当する事が多かったのだが、重さが10Kgを超え、自分の体よりも大きな三脚・カメラをかかえての移動・撮影は大変だったと思う。
Jリーグ公式戦にはリーグ戦とカップ戦がある。カップ戦ではスポンサーのヤマザキビスケットの製品がカメラマン控室に置いてある。自由にとってよいということで、学生カメラマンの楽しみのひとつである。
サンフレッチェ広島と関わるようになってジンクスを信じたり、験をよく担ぐようにになった。当時のJリーグ女子※ネージャー※立※花さんが来ると負けるとかなんとかかんとか・・・etc. etc. 。良いジンクスもある。11月7日の浦和レッズ戦。後半アデッイョナルタイムに佐藤寿人選手が逆転ゴールを決めた最高に盛り上がった試合であったが、この試合のキックオフ前、安田女子高校ダンス部の生徒の皆さんがパフォーマンスを披露していた。私の記憶が正しければこれから3年連続で安田女子高校ダンス部が登場すると劇的ゴールの勝利試合が続いたはずである。まさに勝利のジンクス。
11月27日 ホーム最終戦ベガルタ仙台戦。4年間カメラマンを務めたUEMさん(左)は勝利の女神。彼女が撮影に来た試合ではほとんど負けがない。
東北人魂 media@sanfrecce
2011年3月5日、昨シーズンの最終戦に続きベガルタ仙台との対戦でいつも通りの開幕を迎えた。撮影を始めて6シーズン。ここに通い、沢山のサポーターの声援を聴き、試合の結果に一喜一憂しながら過ごすことがとても幸せなことであるということすら忘れてしまうあたりまえの日常が続いていた。
2011年3月11日 東日本大震災
テレビの中継も、Twitterのツィートも、なにもかも、目に入る非現実に、あたりまえの幸せな日常が消え去った。一切の華やかさは「自粛」の闇に沈み、「ポポポポ、ポ~~ン」というフレーズだけが頭の中で繰り返される毎日。予定されていた計画は全部中止、Jリーグも第2節以降の試合が延期となった。
4月9日。1か月ぶりにチャリティマッチとしてヴィッセル神戸を迎えた。スポンサー看板等が一切ない、ガランとしたピッチ横にカメラを置いた。
1995年1月17日、ヴィッセル神戸がスタートした練習初日に阪神淡路大震災が発生した。選手入場時に神戸サポーターによって歌われる「神戸賛歌」は、震災からの復興の象徴であり、サンフレッチェサポーターとともに静かに耳を傾けた。拍手しながら涙が出た。
神戸讃歌
原曲:愛の讃歌 (Edith Piaf)
俺達のこの街に お前が生まれたあの日
どんなことがあっても 忘れはしない
共に傷つき 共に立ち上がり
これからもずっと 歩んでゆこう
美しき港町 俺達は守りたい
命ある限り 神戸を愛したい
4月24日、リーグ戦が再開した。サンフレッチェ広島のYouTube公式サイトが開設され、勝利試合のサンフレ劇場を収録・編集し提供することがここから始まった。ヒロシマ サイコーです!!
リーグ戦再開後、7月に入る頃にはだいぶ落ち着いて暮らせるようになっていた。7月10日、本来はホーム開幕2週間後の3月に行われる予定であった第3節セレッソ大阪戦が行われた。この日の試合前企画は安田女子大学書道学科の皆さんによる書道パフォーマンス。その準備中の学生たちにいろいろ話しかけていた選手が1名。準備に集中していたのか、学生たちの対応が少し冷たい (申し訳ありません m(_ _ )m )。ってか、君たち、日本代表播戸竜二選手を知らんのかい。
広島でサンフレッチェ広島を中心に取材するメディアの皆さんが中心となってチャリティTシャツ(東北人魂 media@sanfrecce)が企画された。山下教授とも相談して、学生カメラマン全員ぶんのTシャツを購入した。
Hiroshima is with you. Stay strong.
ホーム最終戦は別れの時でもある。11月26日大宮アルディージャ戦。何人かの選手とともに2006年からチームを率いてきたペトロヴィッチ監督の退団が発表された。
We are the Champions!
2012年の開幕戦は注目の一戦となった。2011年までサンフレッチェ広島を率いたペトロヴィッチ監督が浦和レッズの監督に就任し、なにげに復活していた柏槙コンビとともに対戦相手としてビッグアーチに帰ってきたからである。
当時はサンフレッチェ側の監督会見を収録しWeb用の動画を提供していて、基本的には私が撮影していた。最初にペトロヴィッチ監督と通訳の青山さんが席についていつもの調子でごく自然にカメラを回し始めたのだが、「あれっ、浦和の監督だった」と気づいて、気を取り直し、あらためて森保監督の初会見を収録した。
次のホームゲーム、3月24日の鹿島アントラーズ戦と2試合続けて強豪を撃破。ゴールを決めた後、サポーター席に向かった大崎淳矢選手の跳躍が半端なかった。
5月19日のヴィッセル神戸戦。先制するも逆転を許し、後半アデッショナルタイムに森脇選手の劇的ゴールで再逆転勝利。撮影する彼女の足元で「シャー」と叫んでいたのは、山下教授に「撮影中は絶対に飛ばないで下さい」といつもお願いしていた私です。逆転されてガックリくるところ、最後まで諦めないという事が大切。
今回も監督会見の収録。神戸の監督(ヘッドコーチ)は今日が最後の采配。最後に述べられていた神戸のメディアの皆さんへのお礼のコメントにちょっとウルッと来てしまった。広島のメディアの皆さんも一緒に拍手。
7月7日のジュビロ磐田戦。サンフレ取材班の学生カメラマンの撮影技術は先輩が後輩を直接指導しながら引き継がれる。この試合のPVを編集中、ジュビロ磐田に移籍した駒野選手と清水航平選手のサイドでのバトルのシーンにちょっとウルッとしてしまった。こういう形でもまた技術が受け継がれ続ける。
7月14日、雨の川崎フロンターレに勝利し、サンフレッチェ広島はベガルタ仙台を抜いて首位に立った。2006年に撮影を始めてからJ1で首位に立つサンフレッチェ広島をみるのは初めての体験。
8月25日のFC東京戦に敗れ、つぎのアゥェイのジュビロ磐田戦に引き分け再び2位に転落した。
2位で首位を追うサンフレッチェ広島。9月15日のベガルタ仙台戦が天王山の首位決戦。首位決戦に向けて、居ても立っても居られなくなり、夏休み合宿中の書道学科の皆さんに緊急の願い。勝利への思いを込めて字幕用の「共に闘おう」の書をしたためてもらった。
運命の9月15日、ベガルタ仙台戦。時折強い雨が降る悪天候の中、2万5千人のお客さんが集まり首位決戦に臨んだ。後半、森崎和幸選手が先制ゴールをあげるも、同点に追いつかれる息詰まる展開。
後半30分、同点が続いていたが、勝利を信じて、スタッフが「サンフレ劇場」用の道具の運び込み準備を始める。階段があるので、大きなスピーカーや劇場の道具を軒下の通路におろし、台車に積み替えてB6に向かおうとしたその時、高萩洋次郎選手のゴールが決まり、サンフレッチェ広島は再び首位に返り咲いた。
11月24日、ホーム最終戦となるセレッソ大阪戦。広島ビッグアーチは、この試合で勝利すればリーグ優勝が決まる大一番を迎えた。優勝の瞬間を見ようとスタジアムに集まったお客さんは3万2千7百人。入場待機の列は補助競技場の上の段から第一球戯場の先まで続いていた。
キックオフ1時間前、突然強い雨が降りだした。11月末の冷たい雨。サポーターにとっても撮影する我々にとっても、ビッグアーチではこれはもう苦行でしかない。ただ今シーズンを振り返れば、初めて首位に立った川崎戦も、首位決戦を制したベガルタ仙台戦も、思えば強い雨の洗礼を受けていた。この苦行もいつかは報われる・・はず・・・「心頭滅却すれば氷雨もまた温し」の境地まではいかないが寒さに耐えながら雨が過ぎるのを待った。
キックオフ30分前。選手がアップに入っくるのを待っている時、歓声があがった。空が少し明るくなり、大型映像の奥に出現した2つのアーチ。
RAINBOW、雨がもたらしてくれた2張の弓。スタジアムのビッグアーチとあわせて3本の矢を放つ3張の弓が揃ってしまった・・・「これは吉兆じゃ・・・」口に出すと無効になりそうだったので心の中でちょとだけ叫んだ。
2012年11月24日、サンフレッチェ広島はJ1でのリーグ優勝を成し遂げた。2007年12月8日、槙野智章選手のオーバーヘッドシュートがポストにあたり、J2降格が決まった時マラソンゲートの下にいたのだが、5年後に同じ場所でJ1優勝の瞬間をむかえる事になった。
優勝の余韻に浸る間もなく、メディアの皆さんはこれからが仕事。実はリーグ優勝セレモニー等はクラブでなくJリーグの演出スタッフの仕切りで行われる。サンフレ取材班の学生カメラマンも含めて赤いビブスはビデオカメラ、黄色いビブスはスチールカメラ、紫ビブスはオフィシャルカメラとビブスによって撮影可能エリアや立ち入り可能エリアが決められている。通常のビデオカメラは赤ビブスの指定位置で撮影すれば良いのだが、場内中継カメラは指定エリアから外れた位置に置かれいたたため困った事態に。当時はスタッフパスを持っていたのでビブスをはずしてカメラにいきついて事なきを得たがかなりあせってしまった。
ホーム最終戦恒例の記念撮影。粋なはからいか、このチャンピオンボードは最後まで残してもらえていた。今シーズンも1年間お疲れ様。
翌日、優勝の余韻をかみしめながらサイト用の動画を編集。2012年シーズンのサンフレ取材班の活動を締めくくった。
「サンフレ取材班」の18年 Part2 に続く