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本当の福祉とは①

こんにちは。
名古屋で伊勢茶カフェの店長をしています、松本壮真(まつもとそうま)です。

今日は『将来こんな事したいなぁ』というお話です。いつかやりたいとは思いながらも、まだ全く着手できてない事です。『へ〜そんな事考えてるんだぁ』と思って聞いていただけたら嬉しいです。

何年も前からずーっとやりたいと思っていることです。

僕がやりたい3つのこと

実は大きく3つやりたい事があります。
①伊勢茶事業
②学習事業
③福祉事業

この3つです。

プレゼンテーション1_page-0001

これは2年くらい前につくったプレゼン資料の一部です

①伊勢茶事業については今メインでやっている事で、伊勢茶をもっと知ってもらいたいと思っていて、そういう場を作ったり新しい嗜み方や楽しみ方を提案しています。

②学習事業については、僕の地元松阪市飯南町でやりたいと思っています。田舎と都会の教育格差みたいなものを無くしたいです。今はオンライン学習ツールも多いですが、それでもなお『リアルな学び』にも価値があると思っています(ちょうどこのコロナで体感している人も多いかもしれません)。これはまた別の機会にお話します。

③福祉事業については、これから高齢社会になっていく中で取り組むべきというのもありますし、僕自身の経験から必要な事だと感じました今日はこれについて詳しくお話をしたいと思います。

とはいえ、福祉に携わった事がほぼ無いので現在の問題を理解できていないかもしれないですし、拙い発想かもしれません。広い心で読んでいただけたら幸いです。ちなみにですが、現状を否定したいというわけではありませんし、現在福祉関連の仕事をされている方を否定したいわけでもありません。

前提となる僕の経験

僕、椎間板ヘルニアの手術をした事があります。しかも2回。特に1回目の経験が僕の人生にとっては非常に大きな出来事でした。1ヶ月くらい寝たきりだったんです。寝ていても痛いし、ほふく前進みたいな感じでトイレやお風呂まで移動していました。

その時は実家に帰っていたので、ありがたい事に寝ているだけで朝昼晩の3回ご飯は出てくるし、洗濯もしてくれるし、お風呂も入れてくれます(あ、お湯を、です)。僕は起き上がる事も難しかったので、寝ながら本を読んだりワンピースを読み返したりしていました。少しずつ寝ていれば痛くない時間が増えていったのですが、結局治らず手術したという形でした。

これ、寝ていれば腰が痛くない時って「動けない」って事以外は何も不自由なかったんです。ご飯は出てくるし、お風呂も入れてくれるし、洗濯までしてくれる。好きな音楽は聴けるし好きな本は読めるし漫画も読める。すごくラクに生活している見えるかもしれません。

でも僕、全然幸せではなかったんです。

手術後のメモにこんな事を書いていました。

出来てた事が出来なくなるのは悔しいしツラい。腰が痛くなった時、ヘルニアでまともに歩けなかった時、自分でトイレに行けなかった時、悔しくて情けなかった。ドラマで観るような、脚が動かなくなった人が動かない脚をもどかしく思い叩いてしまったりする気持ちが分かった。
2014年1月

何でもやってもらえて、腰が痛い以外には不自由はなくて、つまり腰が痛くない時間であれば不自由は何もなくて、それでも僕は幸せではありませんでした。

「出来ない事が増える」って事実を受け入れるのは辛い、という事を知りました。僕の場合はヘルニアだったので、完全に治らないというわけではなかったですが、それでも先が見えない中でこの事実は辛かったです。

そして、『不幸ではない=幸せ』ではないと知りました。

少なくとも不幸ではなかったんです。でも幸せではありませんでした。なぜだろうと考えました。ここに、僕が新しい福祉の形が必要だと考えるヒントがありました。

①達成感がない

本を読んだり、漫画を読んだりする中では僕は圧倒的に達成感がありませんでした。当時の僕には布団の上だけでは何も達成する事が出来ませんでした。ご飯を食べ、お風呂に入り、あたたかい布団で寝るという生活の中では僕は何も達成感を得られませんでした。

②「ありがとう」と言われる経験

「ありがとう」と誰かに言うばかりで、この期間の僕は「ありがとう」を言われる経験が本当になかったんです。何かをしてもらうばかりで、自分が誰かに何かをしてあげるって事がなかったんですね。

③変化がない

同じなんですね、毎日の景色が。同じ白い天井を眺めていました。家から出るのはたまに行く病院だけ。もちろん歩くことが困難なので、寄り道をする事もありません。毎日変化のない環境で生活していました。

3つの経験を通して

2つの経験を通して以下の事を学びました。
①ただ生きてるだけでは幸せではない
何かをしてもらうばかりでは幸せになれない
③変化がないと疲れてしまう。

もちろんこれには色んな価値観の方がいると思うので、「ただ生きてるだけで充分に幸せ」という方もいると思いますし、「何かをし続けてもらう事が私は幸せ」という方もいるかもしれません。

少なくとも僕は、この状況では幸せを感じるまではいかなかったという話です。※これちなみに「感謝していない」と「幸せじゃなかった」は全く別の話で、もちろん感謝はしてました。

元気に歩けるうちに

「健康寿命」と言われたりします。健康寿命とは「心身ともに自立し、健康的に生活できる期間」のことです。「ただただ寿命を伸ばすだけじゃなくて、健康的に生活できる期間を考えた方がハッピーじゃない?」という考え方です。

やはり寝たきりになってしまうと大変だなぁと思います。自分も周りも。自分で身の回りの事をするのが難しくなって、それから介護施設に入る。という事を福祉とするのはおそらく違うなと漠然と感じていました。

介護施設に入る前。これが大事だなぁと考えています。じゃあどうしようかな、と考えました。

高級介護施設

高級老人ホームみたいなものがあります。結構高い金額を払う施設で、食事は料亭の料理人が作ってくれて、ダンスホール(?)やカラオケや運動スペースがあるような。

贅沢な生活ができると思います。好きな時間に起きて、美味しい朝ご飯を食べて、軽めに運動をして、美味しいお昼ご飯を食べて、ちょっと身体を動かしたり、カラオケをしたり、美味しい夕ご飯を食べて、ちょっとテレビ観たりして、寝る。

これたぶん最初はすごく楽しいと思います。好きなことして過ごせるから。でも、ここに何年もいるという事を考えると、『これだけ』ではしんどいと思います。いつかきっと飽きるはずです。慣れてしまった高級料理はもう普通の料理で、好きな事をする時間も普通で、カラオケをするのも散歩するのも同じメンバー。人ってやっぱり、変化していないとずっとその場にいるのはしんどくなるんじゃないかなぁと思います。

①達成感②「ありがとう」と言われる環境③変化がない、というすべては満たせていないので、これは僕の目指す形ではないと思いました。

バリアアリー

『夢のみずうみ村』という施設があります。ここはバリアフリーならぬ『バリアアリー』を提唱していて、あえてハードルを意図的に設けています。『なるべく自分の力で生活してもらいたい』という愛です。これは突き放すのとは全く違っていて、転倒しそうになっても支えられるように「必ず手の届く範囲(一歩先)に“掴めるもの”を設置する」という優しさがあります。

僕の価値観としては、こちらの価値観が近いなと感じました。

本当にその人のためになるのか

何か困っている時に助ける姿は美しいです。でも本当にそれをし続ける事がその人のためになるとは限りません。誰か忘れてしまいましが、戦国武将で「息子〇〇の言うことは全部聞いてやれ」と命令した人がいたそうです。その武将はその息子を心底可愛がって大事にしたかったのでしょうか?実は、全く逆だったそうです。『こいつは自分の跡継ぎにしたくない』と感じたからこそ、「すべての願いを叶えてやれ」と言ったそうです。そうすれば自分で何もできなくなるから。

その人を助ける事と、その人を大事にすることは別だったりします。その人の事を思うなら、時には『助けない』事も優しさになると感じています。


僕の中では1つの答えに辿りつきました。この事は伝え方によっては誤解を与えてしまうかもしれないので、次回詳しくお伝えしますね。

だいぶ長くなってしまいました。だいたいいつも3000文字以内におさめようと思っているのですが、超えてしまいました。

また次回詳しくお伝えします。
ではまた

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