劇場版おっさんずラブレビュー

 個人的におっさんずラブは牧が救われる話でもあるし、春田が救われる話でもあると思っていました。

 映画を観る前に監督と脚本の徳尾さんのインタビューを読んでいて、男としてのプライドや嫉妬が絡んでいること、ジャスが春田を兄のように慕うことに〝家族〟の鍵が隠されているような気がしていました。

 誰もが憧憬や追憶の中で、夏祭りは美しさの象徴として在るように思います。子どもの頃の記憶、恋人とのデート、大人になってからの家族サービス。その大衆性にリンクさせて、しかも負の感情を突き動かす核の部分にする荒技には驚かされました。ここで一つ目の大きな揺さぶりがあります。

 「全然キレイじゃねーよ」

 誰もがキレイだと見上げている夏の花火。さっきまで牧と見た時はあんなにキレイに見えたのに、ひとりで見上げる花火は全然キレイに見えない。

 この春田のセリフに春田がどれだけ牧のことを好きで、かけがえのない存在なのかがわかります。好きだとも、愛してるとも一言も言っていないのに。

 貴島プロデューサーがインタビューで話していましたが、春田の言葉に傷つく牧の顔を見て、さらに春田が傷つくのを見て自分も泣いています。自分にはジャスの心の闇と春田の心の闇が共鳴し合ったから、春田の心のギアが一つ入ったのだと思っています。

 クローゼットの牧はもっと複雑です。春田が1ギア、狸穴が1ギア、部長に関しては3ギアくらい入れてやっと自分の殻を壊せた感じがしました。部長の愛の大きさにいつも感銘を受けます。内側から自分の殻を壊すのはなかなか難しいです。どうしても自己防衛が働くので。劇場版は牧の成長の物語でもあります。

 父親が不在である春田は、自身のアイデンティティが根無し状態なところがあり、両親から溢れんばかりの愛情と、地続きである母親からの理解を得られている牧よりも、春田の心の闇は深いのではないかと思っていました。

 母親が精神的に自立している場合、その母親との関係を深く揺るぎないものにしたくて、子どもはさらに子どもでいようとします。未熟でひとりでは何もできない自分でいようとします。未熟な自分はひとりでは何もできないから、そうすることでより母親に愛してもらおうとするのです。春田は牧に対して依存し、母親の愛情を求めているような描写もありました。

 ドラマでは母親が出て行ったあとに牧が来て、牧が出て行ったあとに部長が来て、部長が出て行ったあとには牧が帰って来ました。図らずも人としての成りを保つことが出来たのは、母親の不在を埋めてくれる存在があったからです。

 劇場版では春田の母親は家に戻り、それをきっかけに牧が出て行き、春田もまた、家を出ることになると思います。このことは春田の母親と、無意識に母親の愛情をパートナーに求めていた春田の精神的な自立にもリンクしているように感じました。

 春田が欲して止まなかったであろう〝家族〟というもの。そこに牧という永遠の伴侶を迎え、春田に欠けているものを牧が補い、牧に欠けているものを春田が補い、劇場版で二人は共に歩んで往く道を選びました。ひとりうずくまって泣いていた小さな春田は、もう道に迷うことはないのだろうと思いました。

 わんだほうからの帰り道の別れ際、春田の背中をずっと見つめていた牧。何かを感じて振り返る春田。このシーンには二人の不安定な関係性と不安な気持ちが表れています。

 それがラストシーンでは一度は立ち止まりますが、二人とも振り返りません。このシーンの対比は見事です。自分は二人の関係性がより確かなものになったのだと受け取りました。

 牧、春田を幸せにしてくれてありがとう。春田にあんなことを言わせるなんて牧しか居ない。何度も何度も春田の長ゼリフのシーンで泣かされます。自分はこんなにも尊いラブシーンを観たことがありません

 しかも手を繋ぐ演出が素晴らしいです。肩を抱くとか寄り添うとかではなく、春田が牧の手を取ったことに激しく揺さぶられました。(シナリオを読んでこれが田中さんのアドリブだと知り、涙が出そうになりました)このシーンは田中さんと林さんにしか絶対出来ないと思いました。

 心から笑って泣けて、本当に素晴らしい映画を送り出してくれてありがとうございます。おっさんずラブが誰かの明日を約束するものとなり、遠いどこかの誰かの光となるのなら、こんなに素晴らしいことはありません。

 どうかひとりでも多くの人の心に届きますように。