宇多田ヒカルと愛することについて

宇多田ヒカルの『One last kiss』が好きで、今年の春はそればかり聴いていた。なんなら屋久島旅ではそればかり聴きながら車を飛ばしていた。

故郷は私の大事な場所でありながら、愛おしい、幼い自己中な自分が暴れまわった記憶で一杯だ。沢山の人を愛そうとして、結果傷ついたり傷つけたりした思い出がしっかりと風景に刻まれすぎていて、ふと蘇る記憶に苦笑を通り越して恥ずかしくなる。

もう触れることは無いだろうと思っていた記憶がするりと頭に浮かぶとき、あまりにリアルなその手触りに、思ったより私は遠くまで来ていないのかもしれないと錯覚しそうになる程、苦しくて少し切ない。

こういう思い出たちを、今愛する人とも作っていくのだろうか。これから、またきっと違う手触りや肌触りで。


『One last kiss』の中に「誰かを求めることはすなわち傷つくことだった」とある。まさにそれを感じることが、恋人との暮らしの中である。

大切な人と出会うという事は、いつか別れが来るという事実もハッピーセットになってついてくる。

人を愛するという事はとても素敵なようでいて、同時に悲しみへのカウントダウンをしている様なものなのかもしれない。

忘れたくても、忘れられないような思い出が増えれば増えるほど、いつか来る大切な人との別れはより強いものになってしまう。

それでも、人は人を愛せずにはいられない。

傷つけても傷つけられても、人は人に触れあっていたいとおもう。それは淋しいからなのか、孤独だから?不安だから?そういうのもあるけどきっとそうじゃなくて、人は人と触れて初めて自分の心のカタチを知れて、自分の事をより深く分かる事ができるからではないだろうか。そして変化していく自分に喜びや楽しさを見いだせるからではないか。

それが、いつか来る深い悲しみの始まりだったとしても。

人を愛そうとする行為は人生を豊かにしてくれる。そう信じている。


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