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20世紀ウイザード異聞【改稿】3-①

目次 https://note.com/soloitokine/n/ncac7b1b7f8fa

・梁の上の天使

 パーティーの翌朝、アーニャを迎えに来たユーリアンが意味ありげに笑いながら朝刊を見せた。
「いいニュースだ。例の『花崗岩の竜人』事件が暴かれたせいで、からくり箱の存在意義が微妙になってきた」
 朝刊の3面には、竜人が封じ込められたリル・アレイの岩の写真と共に過去の忌まわしい事件に関する簡単な解説が『写真提供:魔女出版』として載っていた。
 エレインが竜人の怒りに感応してしまった、あの落雷の日。オーリから連絡を受けた魔女出版の記者が急いで現場の岩に保護魔法をかけ、写真はちゃっかりと自社のスクープ記事にした上、各新聞社にもばらまいたのだという。
「何? 何て書いてあるの?」
 人間の文字が読めないエレインは写真を食い入るように見つめている。「署名記事が付いているな。落雷によって過去の事件が暴かれたことを天啓と考えるべきでは、だってさ。よく言うよ今頃になって」
「いや、今だから意味があるんだよオーリ。さきの大戦から7年、世の中が豊かになるにつれて、自分達のしてきた事に疑問を持つ人間が増えてきたんじゃないのか? 事実、水面下じゃお堅い連中も動いているらしい。からくり箱みたいなくそったれ制度を気に入らない連中が、魔女の協力を求めてきたって話も聞くし。これが蟻の一穴になればいいね」

「パパ、みてー」
 ロバのぬいぐるみに乗ったアーニャが、二階の軒先まで舞い上がり、上手に旋回してみせた。朝からずっとこんな調子で飛び回っているから、アーニャは機嫌の良いことこの上ない。そのすぐ下ではステファンが、古い箒に乗ってよたよた飛んでいる。
「たいしたもんじゃないか。オーリが10歳の頃より覚えが早いぞ」
 庭に出たユーリアンが面白そうに見上げる。
 今朝早く、オーリはNo.4の保管庫から古い箒を持ち出してきて、半世紀も前に廃れたという箒飛行術を少しだけ教えてくれたのだ。昨日のひどい飛行のこともあるのでステファンはこわごわ跨ってみたのだが、浮遊するだけなら思ったより簡単で、すぐに慣れた。もしかしたら自転車より簡単かもしれない。
 小さいアーニャは一緒に飛び回れる相手ができて大喜びだ。
「あんまり飛ばすなよステフ、風に煽られると……あ、ほら!」
 調子に乗って高く飛ぼうとしたステファンは、バランスを崩して落っこちそうになった。すかさずエレインが家の壁を蹴り、三角飛びでステファンをキャッチする。
「ステフ、重力から解放されるってのはいいもんだろ? 気に入ったならそれは譲るよ」
「え、いいの?」
「ああ、箒もそのほうが喜ぶだろう。ソロフ先生から譲ってもらった宝物だったけど、今なら君のほうが相応しい」

 そんなだいじな物を、と戸惑うステファンにユーリアンは笑いかけた。「貰っときな。君はこの面倒くさい師匠オーリについてから随分頑張ったんだもの、それくらいの権利はあるさ。ただし骨董品だからな、それ。街中では飛べないし、使えるのはオーリの家と周りの森くらいか――さあおいでアーニャ、お家に帰る時間だ。ママが待ってる」
 ユーリアンはロバのぬいぐるみごと愛娘を抱き取った。
「またいつでもいらっしゃい、小さい魔女さん。ここは守られた場所だから、いくらでも飛んでいいからね」
 守られた場所――エレインの言葉を、ステファンは胸の中ではんすうした。確かにこの家では、竜人も、魔女も、魔法使いも、周りに気兼ねせずに本来の自分でいられる。けれど本当は、街の中だろうが学校の中だろうが、いつでもありのままの自分でいられたら、どんなに楽しいか知れないのに。
「今度来るまでには、ぼくも上手く飛べるように練習しておくからね」
 小さいアーニャの頭を撫でながら、ステファンは本気でそう思った。もっと飛びたい。自分の力で、自分のやりかたで。ささやかな箒飛行は、ステファンの中の新しい扉を開いてくれた気がした。

 ユーリアン親子が帰った後、オーリは空を見ながらじっと考えていた。が、やがて何かインスピレーションを得たように、力を込めて言った。
「よし、描ける!」

 午後、オーリはアトリエに大きな縦長のカンバスを持ち込んだ。
 描きかけのまま屋根裏で眠っていた絵だという。なぜそれを今持ち出したのか、覆い布を外しながらオーリは感慨深そうに絵を見上げた。
「以前描いていた時にはなぜ挫折したのか分からなかった。画肌マティエールが気に入らないだの、構図がどうだの、表面的なことばかり気になってね。でも違う。この絵に何が足りなかったのか、今ならはっきり分かるよ」
 こんな綺麗な絵に何が足りないのだろう、とステファンは不思議な思いで見上げた。明るい色彩で描かれた画面は、なるほどまだ下絵の線が残っていたりする個所はあるが、ステファンにはこれだけでも充分なように思える。縦長の画面に何人かの人物が上へ、上へと向かうような姿勢で並ぶのは、何かの舞踊だろうか。一番上の空に近い場所に描かれた人には翼のような物も見えるから、天使を描こうとしたのだろうか。 
 ステファンの隣で同じように首を傾げているエレインの肩に手を置いて、オーリは力強く言った。
「エレイン、君を――いや、竜人フィスス族を描かせてくれ!」
「フィススの絵を?」
「そうだよ。思い出さなきゃ、この世界は人間だけのものじゃないってことをさ」
 オーリはステファンにも明るい瞳を向けた。
「ソロフ師匠の言葉を覚えているかい? 絵描きには絵描きなりの勝負の仕方があると言ってたろう。悪いが今からしばらくは、魔法の修行よりも絵の制作が中心の生活になるよ。ステフ、君には助手をつとめてもらうけど、いいかな」
「もちろんです!」
 張り切って答えたステファンは、ああこの目の色だ、と思った。最初にオーリに会った時と同じ、自信に溢れた力強い水色の目。やっぱりオーリローリ・ガルバイヤンはこうでなくては。
 胸いっぱいに吸い込んだ風は、張りつめた新しい季節の香りがする。


 オーリは描きかけの画面全体に暗い色の絵の具を何度も塗り重ね、とうとう塗りつぶしてしまった。
 なんてもったいないことをするんだろう、とステファンは思ったが、もとより絵のことなんかわからないし、黙って見ているしかない。それにオーリの目の輝きを見ていると、ここから何が生み出されるのだろうという期待のほうが勝ってくる。
 そして嬉しいことがもうひとつ。アトリエに、再びエレインが戻ってきた。
 相変わらず気ままに梁の上に寝転がって面白そうに作業を眺め、時折からかうような言葉を投げてくる。けれどそれだけで、寒々としていた部屋の雰囲気がいっぺんに変わり、皆をホッとさせるのは不思議だった。
 イーゼルに乗せると天井に届きそうなカンバスは、長身のオーリといえども画面の隅まで描き込むとなると大変だ。オーリはL字型のイーゼルを倒れないように固定すると、脚立を持ち込んで描き始めた。
 こと絵に関しては、オーリは魔法をいっさい使わない。数本の筆と刷毛とナイフを駆使し、描く、描く、ひたすら描く。
 ステファンは助手といっても絵が描けるわけでもなし、オーリから指示された番号の絵の具を手渡したり、筆を拭いたりするくらいしかできないが、油の調合を手伝うのは魔法薬でも作っているみたいで面白かった。――魔法修行とは何ら関係なさそうだが――それでも初めてオーリの役に立てる誇りで胸が躍った。

 問題はエレインだ。
 剣を構えたり弓に矢をつがえたりしてモデルを務めるはずが、ものの2分とじっとしていられないらしく、しばしばオーリに文句を言わせた。
「あーもう台無しだ。なんでそう動きまわるんだよ」
「だって退屈なんだもん」
「あの落ち着きのないユーリアンだって絵のモデルくらいは務まったぞ、君は筋力はあるくせに堪えこらえ性がないんだ!」
「偉そうに言わないでよヘボ絵描き!」
 また、騒々しい日々が始まった。けれどステファンはもう心配しなかった。お互いの鼻先に噛み付かんばかりに大声でわめき合っていても、2人の間の空気が以前とは全然違うことに気付いたからだ。
「せんせーい、あんまりエレインを怒らせてると絵の中の人まで怖い顔になっちゃうよ」
 落ち着いたステファンの声に2人は吹き出し、それぞれの位置にまた戻る。
「おやまあ、すごい臭いだこと」
 アトリエにお茶を運ぶマーシャが顔をしかめた。
「いくらお仕事に熱中してても換気はしなくちゃいけませんよ、オーリ様。ステファン坊ちゃんにも良くありません」
「溶き油の臭い? ぼく慣れちゃったよ」
「そうら、その『慣れる』っていうのが良くないんです」
 マーシャは厳しく言って窓を開け、新鮮な空気を入れた。
「確かに揮発油の臭いは身体に良くないな。悪かった、ステフ。助手を頼んだからといって一日中アトリエに篭っていることはない、時々は外に出て箒で遊んで来ればいいよ」
「それで言うんなら絵の具も毒なんでしょ。絵筆を口にくわえるクセはやめなさい、オーリ。あたしまで被害を受けるから」
 お茶を飲もうとしていたオーリは顔を赤くして咳き込んだ。

 そんな日々を送るうちに、不思議な変化が起きた。
 オーリは以前のように大食しなくても魔力を保てるようになって、マーシャを大いに驚かせた。逆にエレインは人間の食べ物に興味を持って、焼き菓子くらいは恐る恐る口にするようになってきた。
「無理に人間に合わせることはないんだよ」
 心配そうなオーリにエレインは首を振った。
「別に無理はしてないわよ、前から食べてみたかったの。でもなんか怖くてさ。人間の食べ物を食べちゃうと、竜人じゃなくなるような気がして」
「何を召し上がろうと、エレイン様はエレイン様でございますよ」
 マーシャは嬉しそうだった。

 秋の陽射しが斜めに差しはじめた頃。来客にお茶を出すという初めての大役を果たしたステファンは、盆を抱えてホゥとため息をついた。
 最近オーリは、夜も昼もなく絵の制作に没頭している。と共に、アトリエのお客も頻繁に来るようになった。オーリが今取り組んでいるあの大きな絵の出品について話し合うためだ。
「どうやら間に合いそうだね、ガルバイヤン」
 午後のアトリエでお茶を飲みながら、客人はホッとしたように言った。薄い真鍮色の髪をきれいに撫でつけた頭で何度もうなずき、眼鏡の奥から碧色の目を輝かせてオーリの絵を見ている。
「まだ八分がたってところですが。大丈夫、ちゃんと仕上げるから」
「今回は単なる展覧会とはわけが違う。アート・ヴィエーク主催の、大いに『売る』ための美術展だ。海外からも目の肥えたお客が集まるからね。君の大作をうちのブースの目玉にしたいんだ」
 立ち上がり、正面からしげしげと絵をみていた客人はオーリを振り返った。
「相変わらず描き始めると早いな。もっとも取り掛かるまでが遅くていつもハラハラさせられるが」
「早くないですよ。昔の聖堂でフレスコ画を描いてた絵師達の仕事はこんなものじゃなかったはずだ」
 オーリは遠い目をしてカンバスを見上げた。
「聖堂の画、か。なるほどそんな雰囲気もあるなあ。これはいいよ、ガルバイヤン。竜人というモティーフもいい。他の画家には悪いが、今回の展示の中では群を抜いて高額がつけられると思うね」 
「どうかな、流行の抽象画やポップアートならともかく……まあ値段の話はあんたに任せますよ、キアンさん。わたしはただ、一人でも多くの人にこの絵で訴えたいだけだから」
 腕組みをして立つオーリの銀髪は伸び放題で、無造作に束ねられたままだ。絵の具だらけの襟の上では、顎の周りに無精ヒゲすら見える。けれど水色の目はそれ自体が発光しているのではないかと思えるほど強い輝きを放っていた。
「いい顔になったな、魔法使いくん」
 キアンと呼ばれた壮年の来客は、オーリの横顔を見ながら愉快そうに笑った。

 ステファンは1階に降りると、思い切り背伸びをした。
 今日は、マーシャもエレインも出掛けている。お茶の淹れ方だけは教わっていたものの、なんだか緊張して疲れた。難しい顔で仕事の話をしている時のオーリは近寄りがたい。いつもエレインやステファンと冗談を言い合っている時とは別人かと思ってしまうほどだ。
「大人の話には口をはさんじゃいけないし。子どもってつまんないや」
 ステファンは盆を放り出し、ビスケットはどこかな、と戸棚を探し始めた。戸棚の中は、マーシャが作り置きした蕪ジャムの瓶やビスケット缶がきちんと並んでいる。砂糖もバターもいまだ不足している中、干したベリー類を上手く使ってマーシャは焼き菓子を作る。これが結構評判らしく、今日もマーシャは近所のおかみさん達の集まりに招かれて行ったのだ。
「あー、いっけないんだ、つまみ食い」
 いつの間に帰ったのか、エレインがからかうように言いながら顔を覗かせた。
「遅いよエレイン。先生のところにお客さんが来てるんだ。お茶はなんとか出したけど、カップなんてどれを使ったらいいかわかんないし、ぼく一人で困っちゃったじゃないか」
「で、お菓子も出すの? どんなお客?」
「ええと……このごろよく来てる、なんとかいう画廊のメガネの人」
「画廊?」
 エレインは眉を上げて少し考えたが、すぐに笑い出した。
「ああ、サウラー画廊のキアンっておじさんでしょ。お菓子もジャムも要らないわよ、あの人甘い物がダメらしいから」
「へえ、そうなんだ」
 ステファンは半ばホッとして、改めてビスケット缶を取り出した。
「じゃ、おやつにしようっと。マーシャがね、青い缶のは家族用だから食べていいって言ってたよ。エレインも食べる?」
「もちろん」
 もうすっかり人間の食べ物――といってもお菓子だけだが――に慣れたエレインは、缶の蓋を取ろうとしてピクと耳を動かした。
「――オーリが何か変」
「え?」
 ステファンが聞き返す頃には、エレインは階段を駆け上がっていた。

「そんなばかな!」
 廊下にまで響くのはオーリの声だ。アトリエの椅子では、キアンが困惑した顔で座っている。
「悪い話ではないと思うが。何か問題でもあるのかね」
「おお有りだ。なんでカニス卿の名前がそこで出てくるんです!」
「オーリ、火花」
 エレインに注意されて、オーリは背中で散っていた青白い火花を消した。「ごめんねキアンさん、普通の人から見たら、魔法使いの出す火花って怖いわよね。で、カニス卿って誰?」
「これはエレイン嬢。いや、ガルバイヤンの絵を気に入ってくれたらしくてね、今後出資者になってもいいと名乗りを上げた人のことだよ」
「カニスって、前に駅で竜人をいじめてた人だよね」
 ぼそっとつぶやいたステファンの言葉に、エレインが顔色を変えた。
 オーリはたしなめるような目を向けたが、仕方ないな、と言って駅やパーティーでのいきさつを説明した。
「なるほど、君とは個人的な因縁あり、というわけだ。出資の話は何か魂胆がありそうだな」
 キアンは面白そうにオーリの表情を伺っている。
「魂胆もなにも、嫌味に決まってるじゃないですか。さっそく札束で頬を張ろうというわけだ」
「当然君は断るだろうから、その次の手も考えているんだろうな」
「まさか出品の妨害をするとか?」
「いや、わたしがカニスなら君の絵を買い占めた上で今後の作品発表の場を奪うことを考えるだろうな。君の絵を買いたがる画商は多いから当然値段は吊りあがり、ガルバイヤンという絵描きを屈服させることもできる。一石二鳥だ」
「……恐ろしいことをさらりと言わないでくださいよ。出品したくなくなってきた」
 頭を抱えるオーリの横で、さっきから黙って聞いていたエレインが口を開いた。
「いいえ、むしろ出すべきだわ」
 緑色の目は鋭いままでオーリのほうに向き直る。
「オーリ、画家には画家の戦い方があるのよね? あたし絵の事は解らないけど、戦いなら絶対にしちゃいけないことがあるわ。『敵前逃亡』よ」
 水色の目が驚いたように開いて、ごくりと唾を飲み込む音がステファンにも聞こえた。
「君らしい考えだなエレイン――いや待てよ」
 しばらく考えていたオーリは、顔を上げて絵をみつめた。
「守護者どのの言うとおりだ。戦う方法は確かにまだあったな。正攻法かどうかは知らないが」
「おいおい! まさかカニスと魔法合戦でもしようなんていうんじゃないだろうな。うちも商売だ、お得意さんを怒らせてもらっちゃ困るよ」
 キアンの心配を打ち消すように、オーリは唇の端を上げてみせた。
「大丈夫、ちゃんと画廊には儲けてもらいますよ。カニス卿に伝えてください。お近付きのしるしに今回の作品には卿の顔を描き入れさせてもらう、とね」

 画廊のキアンが帰った後、オーリは新聞社や雑誌社に使い魔のカラスを送った。ここしばらく郵便と電話に仕事を取られていたカラスどもは、喜んで飛び立って行った。
「信じらんないよ! どうしてあの嫌な髭男の顔なんて描くの?」
 最後の1羽が飛び立つと、ステファンは抗議した。オーリの仕事に口出しをするつもりはなかったが、今度の絵はエレインがモデルになっているのだ。その画面に、よりによってあの憎たらしい髭づらを描き入れるなんて、絵が穢されるような気がして嫌だ。
「うーん、やっぱりイメージだけじゃ似てこないもんだなあ。写真が届くのを待つか」
 オーリは呑気に鉛筆を指で回しながら、スケッチ帳にカニスの髭づらを描き起こしている。
「先生ってば!」
「あ、ステフ。君のお茶、美味しかったよ。おかわりをポットで持ってきてくれるかな」
 全く意に介せず、といったオーリの態度にぷうっと頬を膨らませて、ステファンは乱暴にティーカップを下げた。
「そんな扱いをしちゃカップが傷つくわよ。それ、マーシャのお気に入りなんだから」
「だって! エレインも先生に何とか言ってよ、カニスなんかと一緒に描かれて平気なの?」
 憤慨するステファンと共に階段を下りながら、エレインはふっと微笑んだ。
「絵のことでは彼に何を言ってもムダよ。完成を待ちましょ。あの人のことだから、きっと何か企んでるに違いないわ」
 そうして先に下り、階段のステファンを見上げて言う。
「あたしのために怒ってくれてありがと、ステフ」

 どきりとして、ステファンは立ち止まった。

 何だろう、最近のエレインは。

 明るい緑色の瞳もヘソ出し服も変わらないが、時々ふっと竜人らしい猛々しさが消えて、花が香るような気配の時がある。以前なら真っ先にオーリに抗議するのは彼女の役目だったろうに。
「なんだよ! なんだよなんだよ先生もエレインも! ぼくひとりで怒ってバカみたいだ!」
 ステファンはずんずん足音を立ててキッチンに向かい、次はうんと苦いお茶を淹れてやろう、と思いながらケトルを火にかけた。

 


しかしそんな腹立ちも、翌日からのオーリの苦闘ぶりを見ているうちに消し飛んでしまった。これまでも昼夜の区別なく絵に向かうのは大変そうだったが、オーリはむしろその大変さを楽しんでいるようにさえ見えたものだ。
 けれど仕上げの段階になって、彼は苦しい表情を隠さなくなってきた。

――もういいんじゃないか。

――いや妥協するな。

――もう筆を置きたい。

――だめだ描かずにいられるか!

 稲妻が飛び交うようなな感情のせめぎ合いがステファンの目にも読み取れて、アトリエに入る前にはちょっと深呼吸せねばならない。
 絵の中の竜人たちは、完成が近づくにつれて命を持ったように生々しく、筋肉など今まさに動いているみたいな熱を感じる。逆にオーリはひと筆ごとに憔悴していくように見える。まるで自分の魔力を削って絵に分け与えているのではないかと思えた。
 心配してそれを口に出すと、隈のできた目元に笑みを浮かべてオーリは答えた。

「作品を世に送り出すというのは、命をひとつ誕生させるに等しいんだから。楽なはずないさ」

 愛用のマホガニーのパレットはすでに何色の絵の具がこびりついているかわからない。さらにその上で新しい絵の具がぐしゃぐしゃにせめぎ合い、オーリの格闘を示している。彼はそれを抱え、これでもか、これでもかと筆を運ぶ。
 エレインはただ黙って見守っていた。

 そしてある寒い日。夜通し描き続けていたオーリは最上部の竜人を描き終えたところで筆を止めた。脚立を下りて照明を消すと、いつの間にか夜は明け、北側の天窓からは柔らかい朝陽が光の帯を投げかけている。オーリは自然光の中でしばらく絵を見つめ、よし、とひと言短く言ってうなずき、サインを書き入れた。
 梁の上で見ていたエレインは音もなく飛び降り、絵の具で汚れた顔に腕を伸ばした。

 眠くて半ば朦朧としていたステファンの目に、不思議な光景が映る。
 下絵に塗り込められていたはずの翼を持つ天使がカンバスを抜け出し、ひざまずくオーリに、賞賛の接吻キスを授けている――
 どこまでが現実でどこまでが夢なのかはっきりしないまま、あの絵が完成したのだということだけ、分かった。
 ステファンは安心して息をつき、アトリエの壁にもたれたまま眠りに落ちた。


 11月最初の土曜日。
 首都ブラスゼムの駅から程近いヴィエークホールには、多くの人が訪れていた。

「わ、先生。ずっとここに居たの?」
 円柱の陰にいたオーリにぶつかりそうになって、ステファンは驚いた。「ずっと居たよ。気配を消してると風景の一部になってしまうから分からなかったんだろう」
「うん。あのね、先生の絵、すごく評判いいみたいだよ。すぐに良い買い手がつくだろうって!」
 無邪気な弟子の言葉に微笑み、オーリは冷静に言った。
「あんまり早く売れるのは困るな。主賓が来てからでなきゃ面白くない。じっくり交渉するように言っておいてくれ」
「わかりました。でも、ちょっと他のとこも見てきていい?」
 答えを待たずホールに向かう小さな背中に、迷子になるなよ、と言いかけてオーリは苦笑し、自分に言い聞かせた。
「過保護だぞ。ステファンだってもうすぐ11になるんだから」
 ホールの一隅から場違いなほど声高にしゃべる人物が現れた。取材に来た新聞記者や雑誌記者を見て何を勘違いしたか、傲慢な笑い声を立てている。「来い、カニス。舞台はこっちだ」
 誰にも聞こえぬようにつぶやき、銀髪は円柱の向こうに消えた。

 サウラー画廊のブース前には人だかりができていた。
 暗い緑色をベースに、燃えるような赤い髪が画面に踊る。背景には翼竜や多種多様な妖精の姿が。肥沃な大地を蹂躙する人間たち、誇り高く剣をかざして戦い果てる竜人、そして混沌の地を離れ、天高く舞う美しい娘――竜人フィスス族の過去、現在、未来がひとつの画面に表現されている。
 最上部に描かれた竜人の娘は、まぎれもないエレインの顔だ。背中には、微かな光が翼の形に浮き出ている。いやエレインばかりではない。全体的に重い色調の絵の具がところどころ掻き取られて、下絵に描かれた明るい色が顔を出し、画面に光を与えている。オーリが一度全体を塗りつぶしてしまったのは、最初に描いた天使の絵を諦めたのではなく、むしろ生かすためだったのか、とステファンはため息をついた。
 カニス卿の顔は、確かに描かれていた。画面の最下部、どす黒い混沌の地に、自分が鎖で繋がれていることにも気づかず吠え立てる――犬(canis)の姿で。

「こっ、こっ、これは何だっ!」
 カニス卿は大きな腹を揺らしてわめいた。
「バカにしおって若造が! こんなものは芸術の名に値せん! おいサウラー画廊、撤去しろ! 我輩を誰だと」
 だがそんなわめき声も、次々と焚かれるフラッシュやカメラのシャッター音にかき消された。成り上がり者のカニスを日ごろから良く思わない大衆紙の記者など、溜飲が下がったような顔で絵の中の『犬』とカニスの髭づらを並べて撮っている。
「オオ素晴ラシイ、新シイ。シュールデス!」
 カニスを押しのけて外国人らしい女性が声をあげた。
「竜人ガ生キテイルヨウデス。コノ国デコンナ絵ニ出会エルトハ」
「全くだ、奇をてらっただけの抽象画が多い中で、久々に魂のこもった絵を見ましたぞ」
 画商らしい別の男も、顔を上気させてさかんに画廊主のキアンに話しかけている。
 人びとは絵を賛嘆する一方で、壊れた機械のように口をパクパクさせているカニスの顔を見ては失笑をこらえている。

「お気に召して頂けたかな、カニス卿」
 人垣の頭越しに、銀髪の青年がのどかに声を掛けた。一瞬怪訝そうに青年を見上げた人びとの中から、記者たちがまず気付いてどよめいた。
「ガルバイヤン! あなたはこの絵の作者、ガルバイヤンですね?」
「カニス卿の出資を受けるというのは本当ですか?」
「卿、犬の姿として表現されたご感想は? 何かひと言!」
 凹面型のフラッシュが一斉に焚かれる。赤ら顔をさらに赤くしていたカニスは、記者たちに取り囲まれてオーリを睨んだ。
「きさま……我輩に恥をかかせたつもりだろうが、後悔することになるぞ」「はて、恥とは?」
 オーリはすっとぼけた顔で応じた。
「わたしは筆に任せて表現したまでですよ。絵の解釈は人それぞれだ、出資の話もお心任せということで」
「気ニ入ラナイナラ、アナタハ退キナサーイ、オ犬サン。コノ絵ハ私ガ買イマース」
 白い手を挙げた外国人女性に、周囲から拍手が起こる。画商たちは焦った顔を見せた。普通この手の美術展では、絵を買い取るなら画廊を通じて個人的に、静かに交渉を進めるのが常だ。
「いや、ちょ、ちょっと待ってください。私が先に交渉を」
「いいえ、当店こそが」
 にわかに賑やかになるブースの中央で、突然カニスが笑い始めた。
「くくく、なるほどねえ。まんまと策略に乗せられましたな」
 ざわめいていた人びとが一斉に振り返った。
「ご存知かな、この若造は魔法使いだ。自分の作品を売り込むために人の心を操るくらい、わけはない。諸君、気を付けたまえ」

「おっしゃる通りわたしは魔法使いだ。カニス卿、あなたもだ」
 落ち着き払ったオーリの声に、人びとはオゥ、とうなるような声をあげた。
「わたしたち魔法使いは物語の中にいるのじゃない。皆さんのすぐ隣に存在して、生きている。なにも特別なことじゃない、現実と魔法は地続きなんですよ。そして竜や竜人もだ。たとえ表向きには居ないことにされようと、見て見ぬふりをされようと、現実に地続きの処でちゃんと生きている。生きて、人間と同じように笑ったり悲しんだりしているんです。狭い管理区の中に押し込めたりしなくても、彼らとはお互いに礼節を守ってさえいれば共に生きていけるはずだ」
「は! 卑しい竜人相手に礼節とは笑わせる。騙されるな、こいつは自分の家に赤毛竜人の娘を囲っているような不道徳極まりない奴だぞ」
 オーリの水色の目が怒気を含んで光った。『竜人の娘』という言葉に反応した記者が、今度はオーリを取り囲む。
「あの絵に描かれた竜人のことですね? モデルが実在するんですか?」「どの竜人です? ひょっとして、あの一番上に描かれた美人がそうですか?」
 なんて人たちだ、とステファンは記者たちを睨んだ。ついさっきまで『犬のカニス』を笑っていたくせに、面白そうな話題なら何にでもとびつくのか。モデルがどうとか、絵の価値とは関係ないじゃないか。幸い今日はエレインを連れて来てはいないが、何でオーリはこんな連中を呼び寄せたのだろう? わざわざ使い魔まで飛ばして。ステファンの不安をよそに、オーリは冷静な顔で答えた。
「確かに、あの竜人のモデルとなったのはわたしの守護者ですが。カニス卿には逆に『不道徳はどちらか』と申しあげたい。ひとたび魔法使いが竜人と契約したなら、ずっと共に居るのはむしろ当然だと思いますよ。あなたのように、年端も行かない少年の竜人をカネで売り払うなど、わたしには信じられないね」
 売った? カネで売ったって? と言う声が波のようにさざめき合った。隣や向かいのブースから、なにごとかと人が集まってくる。
「この国にははるかな昔から、人間以外にも多くの『知恵あるもの』が生きてきた。近代でもそうだ。忘れたフリをしてもだめだ。魔法使いとは本来、それらと人間との仲立ちをする立場じゃなかったのですか、カニス卿。あなたはどうやらカネと引き換えに別の代償を払ってしまったようだが」

 ステファンははらはらしながら成り行きを見守っていたが、ふと気が付いて、大人達の足元をかいくぐり、カニスの隣に近づいた。オーリは冷静に話を続けている。
「とはいえ皆さん、わたしは絵の解釈を押し付けることはしない。この絵からストーリーを感じるなり人間の罪を恥じるなり自由にしてもらうしかない、人の心は縛れないんだから。ただ――」
「ところでその竜人の赤毛娘ってのは、今日は連れて来なかったんですか? ぜひ取材させて頂きたいんですがねえ」
 オーリの言葉など耳に入らないように軽薄な調子でカメラを掲げる男を、水色の目が睨む。ピシ、と音を立てて、フラッシュ球が割れた。
「竜人の取材をしたい? 本当に? なら、礼を尽くして管理区にでも取材したらどうです。どれほど人間が酷い仕打ちをしてきたか、嫌になるほど分かるはずだが」
 気迫に押されたように、男はすごすごと人垣に隠れてしまった。
「くだらん演説はそのくらいにしておくんだな、ガルバイヤン」
 薄笑いを浮かべて一歩踏み出そうとしたカニスが、う、と口髭を歪めた。
「ずるいよ、おじさん。魔法使いはこういう場所で杖を使っちゃいけないんだ。教えてもらわなかったの?」
 こっそり杖を向けようとしたカニスの右手を、ステファンが押さえている。周りの人は飛びのき、非難の声を浴びせた。
「魔法使いの『公共の場における禁止事項』違反。記者さん、今のはちゃんと撮ったんだろうな」
 オーリは口の端を上げて皮肉っぽく言ったが、決して目は笑っていない。
「カニス卿、幸運でしたね。魔法管理機構にでも知れたらおおごとだ。違反が未遂で済んだことをこの子に感謝なさい」
 悠然と言い捨てると、ステファンを連れてその場から離れようとした。「は、いい気になりおって! 貴様はもうお終しまいだぞ、ガルバイヤン。我輩はヴィエークの上の者にも顔が効くんだ、分をわきまえぬ生意気な若造など、画壇に居られなくしてやる!」
 カニスは真っ赤な顔で幼児のようにあからさまな憎悪の言葉を投げつけている。オーリはブースの画廊主に肩をすくめてみせた。
「だってさ、キアンさん。どうする?」
「さてねえ。『顔が効く』ヴィエークに言ってつまみ出してもらおうか。あんなのがキャンキャン吠えてたんじゃ、美術展の品位に係わるからね」
 うんざりしたようなキアンは手を挙げ、各ブースを見回っている係員に合図を送った。

「カニス? そんな名ではなかったはずだ。確かあの者は……」
 人垣の後ろから騒ぎをじっと見つめる人物がつぶやいた。誰にも気付かれることなく、彼は静かに会場を後にした。


 会場の外に出ると、オーリとステファンは、どちらともなく笑い出した。
「よくやったステファン・ペリエリ! あの時のカニスの顔といったら! 風刺画にして新聞に載せてやりたいくらいだよ」
 空を仰ぐオーリは心底愉快そうに銀髪を揺らした。
「ぼくもスッとした。先生こそすごいや、あんな大勢の人の前でカニスをとっちめるなんてさ。エレインにも聞かせてあげたかったな」
「ばかいえ、膝が震えてたんだぞ。緊張が過ぎて人前で火花がパチパチ飛び出したらどうしようかと思ってたさ。カニスが先に杖を取り出してくれなきゃ、こっちが『違反』をするところだったよ」
 二人で拳を付き合わせ、ひとしきり笑い合った後、ふとステファンは心配になった。
「先生、さっき最後にカニスが言ってたことだけど。まさか仕返しに、先生の絵を売れなくしたり……とか」
「あり得るね」
 オーリは涼しい顔でうなずいた。
「あれだけ恥をかかされて大人しく引き下がるようなやつじゃないだろう。まあ今回の作品は売れるだろうから画廊側に損をさせることはないとして、問題はこれからだな。カニスがわめいてた事も、あながち不可能なことじゃない。絵が売れなくなったらどうするかなあ。トーニャにでも泣きついて、もっと挿絵の仕事を回してもらおうか」
「そんな……」
 他人事のように笑っているオーリを、ステファンは呆れて見上げた。
「理想はどうあれ、大人の世界は汚い。覚悟はしてるよ。どんな分野でも、多くの人がその汚い波にもまれながら、どこまで妥協してどこまで自分の誇りを守るか、そのせめぎ合いで毎日格闘してる。このオーリローリだって今は偉そうに言ってるけどね、かつては周りの大人に負けて、自分の魂を裏切るような絵を描いてた時期もあったんだよ」
「描きたくない絵を描いてたってこと? 絵描きさんって、好きなものを描いてるんじゃないんですか?」
「そうできるならいいんだけどね。大切なものはただ『好き』というだけじゃ護れないんだ」
 オーリは苦い表情で黄金色に輝く木立を見上げた。
「そのうちに話してあげよう。ちょっと重い話になるからね、こんな気分のいい日にはそぐわない」
 ヴィエークホールの周囲は並木道になっている。時おり灰色のリスが走り回るのを目で追いながら、そのうちっていつだろうとステファンは考えた。けれどオーリのことだ。必ず話してくれるに違いない。こういうのも時の試練てやつかな、などと一人で納得した。
「おしゃべりしてたら電車通りに出てしまったな。近くだから、ついでにW&Wユニオン本部に寄って杖を受け取ってこようか」
「え、杖って何の」
「君の杖に決まってるだろう!」
 オーリに明るい瞳を向けられて、やっとステファンは思い出した。8月に申請した、魔法使いとしての最初の杖のことだ。

 通りの向かい側に、息をひそめるように建つ細長い尖塔が見える。尖塔を見上げながら、オーリは指を弾いて黒いローブを取り出した。
 尖塔のある細長い建物の中は昼間だというのに薄暗かった。埃と煙と古い薬油の混じったようなにおいが漂っている。ゴトゴトと足音のする寄せ木張りの床を進んで正面の事務机に向かうと、長い灰色の髪をした魔女が顔を上げた。
「杖の申請者だね」
 オーリが口を開くよりも早く、魔女は丸い眼鏡をずりあげ、面倒くさそうに言って書類を広げる。
「ここにサインを。あんたもだよおチビさん」
 おチビと言われて少しムッとしながら、ステファンは魔女の枯れ木色の顔をなるべく見ないようにして几帳面な文字を書いた。
「なんだね、そんなにたっぷりインクをつけちゃ乾きにくくってしょうがない」
 魔女は書類にインクの吸い取り器ブロッターをぐりっと押し付けた。
「お若いの、あんたが師匠だね。杖は後ろの棚にあるから自分でお探し」
 何やら記号を書いた紙片を指にはさみ、オーリに差し出す。
「随分と手続きが簡素になったもんですね」
 皮肉を込めたオーリの言葉など意に介さず、魔女は眼鏡の奥の黄色い眼を細めてため息をついた。
「今どきはこんなもんさね。ああ、昔は賑やかだったねえ。大勢の子が順番待ちに並んで、ちゃんと戴杖式なんてのもやったもんさ。あんたら若い者はそんなの知らないだろうね」
「いえ、わたしはギリギリ『戴杖式世代』ですよ――あった、これだ」
 オーリは棚の中から杖の箱を選び出すと、蓋を開けて中を確認した。
「ちょっと古くないですか?」
「文句をお言いでないよ。このごろは新しく魔法使いになろうなんて子は滅多に居やしないんだから、杖職人もあまり作らないんだよ。なあに、古くたって力は衰えてないさ」
「杖職人がそんなんじゃ困るな……ステフ、こっちへ」
 ステファンは促されるまま、部屋の中央で杖を捧げ持つオーリと向かい合った。
 薄暗い部屋には高い位置にある窓から光が射して、床に描かれた円形の文様を照らしている。黒いローブを着た銀髪の魔法使いは光の中で厳かな表情をして告げた。
「ステファン・ペリエリ、今よりこの杖の主となって己が魔法を極めんことを……以下省略!」
 ひやりとした感触の杖をステファンの手に載せると、オーリはいつもの顔に戻って片目をつぶってみせる。

――これが、初めての杖。

 確かに魔女の言うとおり、目に見えない力を感じる。が、オーリのおかげで緊張がほぐれたせいか、恐いとは思わない。そっと自分の腕に沿わせてみると、肘から中指の先までとぴったり同じ長さだ。ステファンは手の中で呼吸を始めたような象牙色の杖をしっかりと握り締めた。

 乾いた拍手音が部屋に響く。
「戴杖式の真似ごとってわけかい。さしずめあたしは立会人ってとこかね。おめでとう、おチビさ……いや、ステファン・ペリエリ。今日からはあんたもお仲間ってわけだ」
「あ、ありがとうございます」
 ステファンは頬を紅潮させながら、改めて魔女の顔を正面から見た。枯れ木色の顔は不気味ではあるが、眼鏡の奥の黄色い眼は意外と人が良さそうに見える。
「ただしそれはあくまでも『仮の杖』なんだからね。しっかり精進してなるべく早く本物の杖を持つことだ、自分の稼ぎでね。それとローブだ。だいたいあんたもねオーリなんとかさん、杖を受け取りに来るつもりならこの子のローブも用意してやるもんだろうに気の利かない師匠だよまったく」
 魔女の機関銃のような台詞が終わらないうちに、オーリは肩をすくめてステファンを連れ、部屋を後にした。
 明るい表通りに出て行く2人の年若い魔法使いを見送りながら、魔女はため息をついた。
「もう、時代は魔法を必要としてないんだ。あの子たちは最後の世代になるかもしれないねえ……」

 *  *  *

 4日後の聖花火祭の夜。

 魔法使いも、竜人も、保管庫の中で眠っていたファントムも、この日ばかりは身分を偽らず、羽目を外して大騒ぎをする。川を挟んで対岸の村と花火を飛ばし合い、来るべき冬の前に、年に1度の馬鹿騒ぎが許される祭りなのだ。
 ステファンは自分の杖を使って小さな花火を飛ばした。初めての杖を使って最初に覚えたのがこんな過激な遊びだなんて、とエレインは呆れ顔だったが、ステファンには嬉しくてしょうがない。箒だって今日は乗り放題だ。
 オーリはステファン以上にはしゃいで、川の対岸に向けてガンガン花火を飛ばしまくった。当然、こちらにも花火は飛んでくる。護岸の枯れ草には水魔どもが走り回って霜が降りているし、川があるお陰で火事にこそならないが、時折火の粉が顔に散ってくるのが結構危ない。これで毎年たいした怪我人も出ないというのだから驚きだ。
 祭りが最高に盛り上がってきた頃、凍りそうな夜空に大きな花火が綺麗な孤を描いて飛び始めた。ユーリアンたち火を操る魔法使いが飛ばしているのだ。
 歓声をあげながら、ステファンの目に父オスカーの顔がふと浮かぶ。
 2年前、父はこんな花火を見ながら、オーリの元へ訪ねて来たのだろうか。

――外なる鍵と内なる鍵、12の魔の目といまだ開かざる目、5つの12に時は満ちなん――

 ソロフがオスカーの意識と繋がった時読み取ったという、呪文のような韻文のような不思議な言葉。何度も読み返し、書庫の本も思いつくままに調べてみたけれど、解らないままだ。
 繰り返される『12』という数はもしかしたら、東洋の『十二支』と関係するかも、とオーリが言ったことを思い出す。年に12種類の動物の名前を付ける話はステファンの想像力を大いに刺激した。5つの12、つまり12種類の動物たちが5回巡ってくると60年。人はその齢に、暦をひと巡りして最初に還るのだという。オーリの父方の祖先たちは何と面白い考え方をするのだろう。けれど、それだとオスカーは60年も帰らないということだろうか? とても待てない。

「そーら飛んで来るぞ、ぼっとしてないで応戦だステフ!」

 声を掛けられて我に帰ったステファンは、慌てて火の粉を避けた。すかさずオーリが杖を振り、オレンジ色の花火を飛ばす。それは飛びながら金色のドラゴンの形になって、敵陣を大いに慌てさせた。
 そうだ、今年はドラゴンの名前のついた年だとオーリは言っていたっけ。それも、あと2ヶ月足らずで終わってしまう。あの花火の光のように、つかまえようとしてもあっという間に消えてしまう、時間というものの不可思議さ。

 ねえお父さん、と心で呼びかけてみる。ぼくは自分の杖を手にしたよ、早く見せてあげたい、と。



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