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20世紀ウイザード異聞【改稿】2-⑦

目次 https://note.com/soloitokine/n/ncac7b1b7f8fa

・再会

「ユーリアン、ご苦労であった。『野犬退治』は終わったのか?」
 笑いを含んだ表情で、ソロフが眉を上げた。この部屋から一歩も出ていないと言いながら、カニスの件を知っているような口ぶりだ。
「ええ、大人しいもんですよ。『吠えつく犬は噛みつかぬ』ってね」
 ユーリアンはトーニャと目配せし合った。
「カニスと知事の両奥方は三流魔女なんですが、パーティーの直前に喧嘩catfightをやらかしましてね。呪いを掛け合ったんですよ。ガートルードがその後始末をつけた経緯もありますから。奴が正気に戻ったら、シッポを巻いて帰ることでしょう――パセリごと天使像に喰われてなきゃ、ですが」「ついでにソースも添えてやりゃ良かったんだ」
 苦々しい顔で呟くオーリに顔を近づけて、ユーリアンが小声で言った。「馬鹿やろ、証拠を残さないように鼻の骨を修復するのが大変だったんだぞ。だいたい顔の真ん中を殴る奴があるか、アゴいけアゴ。脳震盪のうしんとうで一発だ。これだからケンカ慣れしてない奴は……」
「どちらも変わらん。暴言に対して拳で返すとは、弟子を指導する立場の者として軽率だと思わんか!」
 ソロフの厳しい言葉に、オーリもユーリアンも反射的に『気をつけ』の姿勢をとった。叱られた小僧っ子のような2人を見て、トーニャは肩を揺らし、必死に笑いをこらえている。ステファンひとりだけが、何のことだかわからず目を見開いて大人達の顔を見比べた。
「お前は何のために絵の道を選んだ、オーレグ。いや、オーリローリ・ガルバイヤン」
 大きな皺だらけの手が、オーリの肩を捉えた。
「画家ならば画家らしい勝負の仕方があろう。それにお前はまだ若い。一時の感情に負けて、みすみす将来に傷を残すな。前にも言ったはずだ」
 ハッと顔を上げて、オーリはソロフの目を見た。
 ほんの1、2秒。そして老師匠が微笑むのを見ると、再び銀髪を垂れた。「先生、申し訳ありません。深く心に留めます」

「まあ説教はそのくらいにしておけ、ソロフ。わしも長くは起きておられんでの、まずは小さい坊主の話を聞いてやろうぞ」
 ステファンは慌てて辞書の紐を解き、内ポケットに大事にしまっておいたオスカーの手紙を取り出した。
「この手紙のこと聞きたいんです。えっと、ぼくのお父さんは2年前から行方がわからなくて。あ、そうだ。大叔父様はぼくのお父さんのことを知ってるんですか? なぜ? それからあの、そうだ辞書。辞書なんだけど文字は消えてるけど、あのう」
「少し落ち着かねばの、オスカーの息子よ。言葉は整理してから言うものだ。その水晶は?」
 テーブルの上で水晶のペンダントが光っている。オスカーを探すために集めた全ての情報を、トーニャがこの中に込めてくれたはずだ。オーリが手を伸ばし、水晶から鎖を外してイーゴリの顔に近づけた。
「ふむ、記録の石か。悪いがオスカーのことは、この石から直接聞くことにするぞ。そのほうが坊主も話しやすかろうて。オーレグ、額に乗せよ」
 茶色いイーゴリの額(とおぼしき場所)に水晶が置かれた。ほどなく石は青白く光り始め、イーゴリは半眼になった。ソロフも石の上に手を置く。おそらく、一緒に水晶の記録を読んでいるのだろう。以前ステファンが眠っている間にオーリが額に手を触れていた時も、こんな風だったのだろうか。「ふむ……ふむ。なるほどのう、よく調べたものよ……ふむ」
 モゴモゴと言っていた茶色い口は、やがて水晶の光が消えると同時にふーっと息をついた。
「ときに、この辞書を分解したのは誰かの?」
「ユーリアンですわ、大叔父様」
 トーニャが誇らしげに答えた。
「すみません、貴重な本だとはわかっているのですが。もう魔法は消えていますし、どうしても裏側を調べる必要がありましたので……」
 すまなそうに言うユーリアンを制するようにイーゴリは声をあげた。
「見事だ! 炎使いのユーリアン、ようやった。わしは以前分解を試みて、あまりの難しさに断念したことがある。お前はこういった方面に詳しいのか?」
「いえ、詳しいというわけでは……ただ、魔法書の装丁は特殊ですから、修行時代から興味がありまして。僕の専門は建築ですが、古い屋敷の設計図を調べていると、資料に紛れて時々呪わしい力を持った本に出会うことがあります。その場合一般の目に触れないうちに魔力を封じておく必要がありますので、作業をするうちに分解術も自然と身に付いたようです」
「ますます気に入った。これでオスカーの帰る道も開かれるやも知れんぞ」「帰る道、って。大叔父様! お父さんがどこに居るか、知ってるんですか?」
 ステファンの心臓がドキンと鳴った。初めて、オスカーの居場所に関する言葉を聞けるかも知れないのだ。
「知っているとも言えるがの。全く知らぬとも……」
「はっきり言ってください!」
 苛立たしげに詰め寄ったのは、ステファンではなくオーリだった。
「大叔父様、あなたはいつもそうだ。謎かけのような言葉で逃げて断言することをしない。いにしえの賢者の口ぶりでも真似てご自分を権威づけてるつもりか? 不愉快だ!」
「オーリ、言いすぎ。失礼よ」
 トーニャにたしなめられてオーリは一度言葉を切ったが、ステファンの顔を見て再び口を開いた。
「ある日突然父親の存在が消える、それが子供にとってどんなにショックな事か、わかりますか? 死別ならまだ諦めもつく。だが生死も分からない、行方も分からない、そもそもなぜ居なくなったのかという疑問にすら、誰も答えてくれない。毎日どれだけ不安な状態と戦わねばならないか、わかりますか? それでもほんの少しでも手掛かりが見つかるならと、この子は懸命に大叔父様を頼って来たんです。それを――」
「ふむ、オスカーの話をしておるのか、それともオーレグよ、お前の父親の話かの?」
 ピシ、と音を立ててオーリの青い火花が散ったように見えた。だがそれはステファンの錯覚に過ぎず、実際は刺すような眼差しがイーゴリ大叔父に向けられただけだった。ソロフが両手を肩の位置で開いておどけるように言う。
「そう苛めるな、イーゴリ。わが弟子は忠告を早速聞き入れて大人しくしている。素直なもんじゃないか」
「ではその素直さに免じて先程の非礼は許そうぞ。ソロフ、手短に説明してやってくれぬか」
 まだ鋭い目を向けたままのオーリには構わず、イーゴリは目も口も閉じてだんまりを決め込んでしまった。 

「よろしい、では久々の講義といくか」
 ソロフ師匠は銀色の目で一同をぐるりと見渡した。手にはいつの間にか古い黒檀の杖が握られている。
「さて、弟子たちよ。事を成すには時の試練というものが必要な場合がある。オスカーの手紙を見るがいい、文字の外に何が見える?」
 皆の視線が一斉にテーブルの上に注がれた。もう何度読み返したかしれない、薄黄色の紙片をじっと見つめながらステファンが答えた。
「焦げ跡、です。メルセイの熱針で焼き切ったところ」
「それもあるな。ではその熱針の材料となるものは?」
「電気石の一種です。普通は圧力や熱を加えることによって電気を発生しますが、ごく稀に落雷を受けさせることによって高熱を発する結晶があり、この性質を利用して鉱物針を研ぎだすことができます」
 よどみ無く答えたのはユーリアンだった。
「その通り。では訊く、その電気石を抱く鉱物とは?」
「花崗岩……あ!」
 言いかけたオーリが目を見開いた。
「そうだオーレグ、お前の住むリル・アレイでかつて切り出していた花崗岩から熱針の材料は採られた。あの村は強い磁場を持つ断層の上に有るゆえに、古くから魔法使いや魔女が好んで住み着いた場所であった。そして竜人たちには悲劇の場でもあったな」
 ステファンの脳裏に、岩の中に封じられた竜人たちの顔がよぎる。
「オスカーは魔法道具の小さな針1本から材料の採石地を調べ出し、竜人たちの悲劇を知り、そして私やイーゴリの元へ辿り着いた。まるで絡まった糸を手繰るようにしてな。ふふふ、面白い奴だ。そしてもうひとつ、重要なことがある。わかる者?」
 黒い杖が手紙を指し示す。
「待って……そう『罫線』よ。これには最初から違和感があったの。これってただの罫線じゃなくて、特別な意味が有るのではないかしら」
「よく気付いた、魔女アントニーナよ」
 満足そうにうなずいて、ソロフは紙片を手に取った。
「この12本の罫線、これはおそらく『時』を象徴するものだ。オスカーが巡らねばならない時間の長さなのか、それとも――」
「時間の? じゃあ」
 ステファンは懸命に考えを巡らせた。
「お父さんが居なくなってからもうすぐ2年だから、12時間でも、12ヶ月でもないよね……まさか、12年も帰って来られないって意味ですか?」  「そうとは言ってない。そんな絶望的な顔をするな」
 ソロフが目を向けて微笑んだ。
「この特殊紙を辞書の両端に使うことによって、辞書の本体に書かれた言葉は守られていた。だがその片方が切り取られ、守りが失われたとなると、辞書に書かれた言葉の魔力はバランスを失って暴走し、最悪の場合、術者を飲み込むことになろう。オスカーはそれを覚悟した上で、帰る道しるべとして12本の線を書き残したとも考えられる。その代わり、切り取られた紙片に書かれた言葉は強力な守りと拘束力を得たはずだ。そうだな、オーレグ」
「手紙に拘束力など無くても、わたしはオスカーの願いを叶えるつもりでした。現に、そこに書かれた2年という期限を待たずにステファンを迎えに行ったんだ。ではオスカーは、やはり辞書の中に?」
 沈痛な表情のオーリの隣で、突然ステファンが悲鳴を上げた。
「どうしよう! ぼくとお母さん、魔法を解いて辞書の文字を消しちゃったんだ。お父さんも一緒に消えちゃったかも!」
「慌てるな、どうもお前さんは早とちりすぎるな」
 苦笑いをしながら、ソロフは椅子の上のイーゴリに向き直った。
「どうだイーゴリ、まだ起きていられそうか?」
「むろん。お前の力を見届けねば、な」
 大叔父イーゴリは、茶色い目らしき場所を片方だけ開いて、ニィと気味悪く笑った。

「さて、では」
 ソロフは部屋の中央に立つと、足元に辞書と手紙を置き、杖でトン、と床を突いた。床に金色の紋様が浮かび上がる。一同はさっと飛びのいて、その様子を固唾を呑んで見守った。
「オスカーが今どこに居るかは判らぬ。罫線の12という数がどういう単位の時間を示すのか、または別の意図があるのかもな。だが辞書の守りが解かれた今なら、彼の意識にまで辿り着けるかも知れぬ。やってみよう」
 足元の紋様は眩いほどに強い光を放ち、ソロフの髪が逆立つ。
「しっかり見ておくんだ、ステフ」
 ステファンの両肩に手を置きながら、背後に立つオーリが緊張した声でつぶやいた。
「あれが、本物の《《同調魔法》》だ。ソロフ先生は今、わずかに残った手掛かりを手繰ってオスカーの意識に繋がろうとしているんだよ」
 金色の光の中でソロフは目を閉じ、水に潜るように意識を集中している。
 深く。深く。さらに深く。
 やがて光の中に、人間の輪郭のようなものがおぼろげに現れ始めた。「お……父さん!」
「オスカー!」
 2人の叫ぶ声が、同時に部屋に響いた。

 光の中の人物は次第にはっきりとした像を結びだした。
 少し癖のある黒髪、彫りの深い顔立ち。ステファンに似た鳶色の目が、驚いたように見開いた。
「ステファン……ステファンか?」
「お父さんっ!」
 駆け寄ろうとしたステファンをオーリが捕らえた。
「だめだステフ。オスカーもそこで止まれ!」
「どうして!」
 ステファンは必死に腕を振りほどこうともがいた。
「だってお父さんだよ、あんなに探したんじゃないか! そこに居るんだ、離して先生、お父さんのところに行くんだ!」
「そこに見えるのはオスカーの『意識』だ、実体じゃない。それに同調魔法では対象に触れちゃいけない。でないと、術者の意識がこちら側に戻れなくなる。君だってファントムに助けられただろう!」
「落ち着きなさい、ステファン」
 オスカーの声に、ようやく我に帰ったステファンは暴れるのを止めた。「……お父さん、本当にそこに居ないの? だって話ができるよ。前に保管庫の中で見た時は、ぼくの声はお父さんに聞こえてなかったのに」
「それは、君の同調した対象が日記の中の『思い出』つまり過去の時間だからだ。けど今見えているオスカーはわたし達と同じ時間の上に居る。そうだな? オスカー」
「ああ、そのようだ」
「無事なのか? そこはどこだ?」
 まだステファンをしっかり押さえたまま、オーリの声は震えている。
「今は答えられない。君たちの居る世界ではない、とだけ言っておこうか」
 オスカーの鳶色の目が悲しげに微笑んだ。
「杖を持つ魔法使いと違って、僕のような者が魔法道具を使うとなると、いろいろ制約があってね。口外できないことも多いんだ――ソロフ師の意識を間近に感じる。そうか、これが同調魔法なのか――息子がそこに居るということは、あの手紙に託した願いを君が聞き入れてくれたということだね。感謝する、オーリ」
「なにが感謝だ、あんな手紙じゃ何もわからない。皆をどれだけ心配させたと思う!」
 オーリは銀髪を振り、怒りを抑えきれないように言った。
「こんなことなら、忘却の辞書なんて貸すんじゃなかった。オスカー、君はこうなることを覚悟の上で辞書を使ったのか? まさか帰らないつもりじゃないだろうな」
 オーリの問いには答えず、鳶色の目はただ懐かしそうに友人や息子を見ている。ステファンの腕を掴むオーリの手に、痛いほどの力が込められた。「離してください、先生」
 ステファンは涙を浮かべてはいたが、落ち着いた声で言った。
「大丈夫、お父さんには触れないよ。ただもうちょっとだけ、近くで顔を見させてください」
「ステファ……」
 オスカーの手がピクと動いた。久しぶりに会えた息子を抱きしめたいのに違いないが、拳を握り締め、かろうじて押さえている。父と息子は手を差し伸べ合うこともなく、お互いの顔を見つめて向かい合った。
「大きくなった。男の子らしい顔になったな、ステファン」
「ぼくは相変わらずチビだよ。お父さんは、ちっとも変わってない。最後に見た時のまんまだね」
 ステファンはかなり無理をして笑顔を作った。
「ああ、そうだな。ここでは時が流れていないから。空腹も、疲れも感じない奇妙なところだ。敢えて言うなら、時空の間隙すきまとでもいうのかな」
「オスカー、なんでそんな所に行っちまったんだ。なんとか出られないのか?」
 ずっと黙っていたユーリアンが、たまりかねたように声を掛けた。
「君は……ああ、ユーリアンだ。それと、トーニャ? 驚いた、二人ともあんまり美しいから異国の人形かと」
「冗談言ってる場合かよ、自分の状況を心配しろ。相変わらずだな、この男は」
 ユーリアンは笑おうとしてできず、視線を逸らした。
「お父さん、ひとつだけ教えて。ぼくが魔力なんて持って生まれたたから、お母さんとケンカになっちゃったの? もしそうなら、ぼく家では二度とあんな力使わない。いい子でいるように努力するよ。だから、帰ってきて。お母さんのために帰ってきてあげて」
「ステファン、それは違う」
 オスカーは首を振った。
「お前はいつだっていい子だった。いや、この世に無事に生まれたというだけでもう充分にいい子なんだよ。悪いのは、お父さんなんだ。いつも夢ばかりを追いかけて、遠い過去の世界ばかりを見て、現実に目の前にいる人を大切にしてこなかった。忘却の辞書を使ったのも、お母さんの心を病ませてしまったことへの、せめてもの罪滅ぼしなんだ」
「お母さんは病んでなんかいないよ。ごめん、せっかくお父さんが掛けた魔法だけど、なんかぼくとお母さんで解いちゃったみたい。でももう泣いてなんかいないはずだ。自分から伯母さんと話し合いに行くくらい、お母さんは元気になったんだよ」
「ミレイユが? そうか……良かった」
 オスカーは目を閉じ、安心したように微笑んだ。

「もう、あまり時間は無いぞ」
 ソロフの顔が苦しそうに歪んできた。
「待ってください師匠。オスカー、あの12本の罫線の意味するものは何だ? もう辞書の魔法は解けているんだ、君が戻るためにこっちから働きかけることはできないか?」
「残念ながら、その問いにも答えるわけにはいかないな。だが僕は必ず帰る。それまで息子を頼むよ――ああ、視界が薄くなってきた。ステファン、いいかい、顔を上げるんだよ。自分の力に誇りを持つんだ。ミレイユに伝えてくれ、ずっと愛していると。けどこれからは自分の幸せのために生きて欲しいと。オーリ、大切なものからは決して手を離すな。そしてユーリアン、トーニャ。子供は未来そのものだ。きっと――」
 そこまでしか声は聞こえず、オスカーの姿はかき消えた。
「待って、待って、お父さんっ!」
 夢中でオーリの腕を振りほどいたステファンは、オスカーの残像を捕まえようと、何もない空間をむなしく掻いた。


「フフ……フ、ちと無理が過ぎたな」
 ソロフの身体がぐらりと傾く。
「師匠!」
「ソロフ先生!」
 同時に駆け寄ったオーリとユーリアンに両側から支えられ、老いた魔法使いは深々と椅子に身体を沈めた。
「オスカーめ、自分の言いたいことだけいいおって。私やイーゴリへの礼は無いままか……」
 ソロフは荒い息を吐きながら、それでも満足そうな目をしていた。
「先生、ご無理をさせてしまいました。オスカーに代わって感謝します」
 オーリは目をしばたたかせながら、老師匠の両手をしっかりと握った。

「ステファン?」
 トーニャの手が背中に触れて、我に帰ったステファンは目をぬぐった。「お父さん、必ず帰るって言ってたよね」
「ええ、そうね」
「ぼくのこと、いい子だって言ってくれたよね?」
 振り向いたステファンは、もう泣き顔などではなかった。
「もちろんよ。皆、そう思ってる」 
 ステファンはトーニャに笑顔を向けると、部屋を横切り、ソロフの白髪頭に飛びついた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう! お父さんに会わせてくれて。ぼく、何て言ったらいいか――とにかくありがとうございます! 先生の先生、やっぱりすごいや。大叔父様も、ありがとう!」
「ふははははっ」
 ソロフはステファンの頭をなでながら、心底嬉しそうに笑った。
「見たか弟子たちよ、これが本物の『童心』だ。このくらい真っ直ぐに自分を表してみよ。どんなにか生き易くなるだろうに。なあイーゴリ、そうは思わんか?」
 椅子の上の茶色いイーゴリは、答えない。どうやら眠りについてしまったようだ。

「師匠も少しお休みになったほうが……」
「そうだな。では今日最後の講義だ。座りなさい、弟子たちよ」
 ソロフの言葉に全員が居ずまいを正してソファに座った。
「オーレグ、お前が指摘したようにオスカーは今、過去でも未来でもなく、我々と同じ時間の上に居る。だがその一方でこうも言っていた。『ここには時間が流れていない』とな。さて、これがどういうことか判る者?」
 一同が戸惑って顔を見合わせる中、オーリが口を開いた。
「以前オスカーと議論したことがあります。時間とは静かに流れる川の水のようなものだ。けれどそこに舟を浮かべて乗り込んだら? 中の人間は『川と共に流れている』が『舟の中で同じ状態を留めている』とも言える。つまり――そういうことですか?」
「おおむねその考え方で正しい。オスカーの息子、言っていることが判るか?」
「わかんない」
 ステファンは正直に答えた。
「ではもっとはっきり言おう。オスカーはおそらく、過去と現在を自由に行き来する能力があったのだろう。舟に守られたまま、川を遡ったり下ったりするようなものだ」
「まさか!」
 ステファンが叫ぶ隣で、オーリが眉を寄せた。
「いや。うすうすわたしもそう思ってはいた。彼は時々過去の出来事を実際に見てきたように克明に話していたからな。もしそれが自分の身内に関する重大な出来事なら、過去を変えてしまいたい思いに駆られるかも……」
「おいおい! 大変なことをさらっと言うなよ」
 ユーリアンが頭を抱えた。
「過去を観る能力を持つ者は確かに居るよ。けど、観ることはできても干渉するのはタブーだろう。オスカーはそのタブーを犯して過去の何かを変えようとしたとでも?」
「推論ばかりしててもしょうがないな。でももしそうだとしたら、彼が今の状態になったのは辞書のせいばかりじゃない……?」
 沈痛な空気が流れる中、ゆっくりと手を叩く音が響いた。 
「ふふ、時の試練とは面白いものよ」
 ソロフは疲れた顔をしながらも誇らしげに弟子達を見回している。
「手のかかるヒヨッコも一人前にものを考えられるようになったな。大丈夫、オスカーは戻ってくるとも。それを信じて待つのもまた『試練』だ。わかるかな」
 皺だらけの大きな手がステファンの肩に置かれた。
「でも、いつまで?」
「はっきりとは断言できぬが、そう遠い未来ではなかろう。さっき彼の意識と繋がった時、戻ろうとする明確な意思を感じたからな。これは一種の《《時限魔法》》かも知れぬ。オスカーのことだ、無鉄砲な若造のような魔法は使うまい。何らかの条件を付けてこちら側に戻る方法は確保しているはずだ」
「……じゃあ、待ちます。ソロフ先生が言うんだもの、信じなきゃ」
 ステファンが神妙な顔をしているのを見て、ソロフは笑いながら手を振った。
「まだ不安かな。よろしい、ではお前に良い物を与えよう。何か書くものを」
 ソロフに促されて、トーニャが小机にあった紙とペンを差し出した。皺だらけの指が走り、幾つかの文字が記されてゆく。
「先生、これは?」
「なに、ただオスカーをしゃべらせておくだけというのもしゃくなのでな。奴の意識と繋がったついでにちょっと見えたものを記憶しておいたまで」
 老師匠は走り書きの紙片をステファンに渡した。

 『外なる鍵と内なる鍵

  12の魔の目といまだ開かざる目

  5つの12に時は満ちなん

「ええと・・・・・・すみません、これ何かの詩?」
「さてな。詳しくは解らぬ。何しろこっそりオスカーの頭の中からくすねた言葉だからな。帰ってからよく思索せよ。この年寄りからの宿題だ」
 ソロフは悪戯っぽく肩をすくめてみせた。
 またひとつ謎が増えちゃった、と思いながらも、ステファンは紙片を手紙に重ねて大切にしまった。

「ときに、オーレグよ。お前の父シウンとオスカーは、似たところがあるな。お前はオスカーに自分の父親を重ねて見ていたのではあるまいな?」「それはないです、ソロフ先生」
 オーリは苦笑した。
「確かに共通点はあります、魅いられたように自分の研究に没頭して、家庭を顧みないところとかね。ですがわたしの父はただの壁画絵師です。東洋人ということもあって祖父や大叔父には随分嫌われていた。オスカーのように魔力でもあれば受け入れてもらえたのでしょうが」
「え、先生のお父さんって魔法使いじゃなかったの?」
 驚くステファンに、オーリは悲しげな目を向けた。

「ああ。絵が描けるという以外これといって特別な力の無い、ただの男だよ。わたしが5歳の時にこの国を追われたというから、あまり覚えてないんだけどね」
「それについては少し訂正しておこう」
 ソロフが手を挙げた。
「お前は自分の家族が離散することになった原因を、イーゴリのせいと思っているようだがな。あの絵師の才能を惜しんだゆえに国外に脱出させたのは、お前の母オーリガだ。お前も知っておろう、20年前にジグラーシ魔法を使う者は人として扱われてなかったのを。魔力を持たぬシウンにまで我々と同じ荷を負わせるわけにはいかぬと、オーリガは考えたのだ」
「母が? そうなのですか?」
「私は覚えているわよ、オーリャ」
 トーニャが幼名で従弟に呼びかけた。
「叔母様は言っていたわ。『シウンは壁に心を刻み、私は息子に心を遺す。いつか時が満ちる日、オーレグは全てをわかってくれるはず』とね」
「時が満ちる日……」 
 オーリは唇を噛んで自分の手を見つめた。
 ソロフがうなずきながら、歌うように言う。
「時の試練とはまことに、不可思議で面白いものよ。あたかも巨大樹の成長を見守るがごとし。時代は変わった。魔女も、魔法使いも、これからは魔力だけに頼るのではなく、どう生きてゆくかが問われることとなろう。さあ、弟子たちよ、私の講義は終わりだ。あとは各々が自分の進むべき方向を見誤らないことだ」
 語り終えると、満足そうにソロフは目を閉じた。

 部屋を辞しても、しばらくの間誰も口をきかなかった。皆、それぞれに思うところがあったのだろう。
 螺旋階段の古いカーペットを踏みながら、ステファンは上着の上からポケットを押さえた。父オスカーの頭の中にあったという不思議な言葉がそこにある。必ず帰る、と父は言っていた。けれど、いつ? この不思議な言葉が、何かヒントを与えてくれるのだろうか。そう遠いことではないとソロフは言ってくれたが、その日まで父の顔を忘れそうで怖くなる。
「そういえばぼく、お父さんの写真を持ってなかった」
「オスカーは自分の写真を撮ることには興味なかったみたいだしなあ。あんなに遺跡の写真を撮りまくってたのに」
「案外そういうものだよ。わたしだって自画像は練習用にしか描いたことはない――いや、家族の絵もか」
 オーリは何か考え込むように口をつぐんだ。
「そういえば僕も他人の家ばかり造って、自分の家は借家のままだよ。何だ、『遠い夢ばかり追って』って言われそうなのは、オスカーばかりじゃないな」
「まったく。魔法使いの男ってどうしてそうなのかしら」
 辛らつなトーニャの言葉に、一同は苦笑し合いながら階段ホールに降り立った。

 両開きの扉の向こうは広間だ。音楽が聞こえてくる。
「どうする? 今なら最後のワルツくらいには間に合うと思うけど」
 扉を指差すユーリアンに、トーニャは首を振った。
「やめとくわ。お母様に会ったらまた小言をいわれそうだし、アーニャのことも気になるから帰らなくちゃ」
「アーニャならもう眠っているだろう。明日の朝まで預かるよ。どうせお腹のベビーが生まれたら静かな時間なんて無くなるんだろうから、今日くらい水入らずで過ごせば?」
 気を利かしたオーリの言葉に夫妻は顔を見合わせ、笑った。
「そうだな、娘の様子ならトーニャの鏡で見られるし、何よりマーシャさんが付いててくれるから心強い。じゃ、帰りますか奥様」
 おどけたように腕を組みながら、ユーリアンは片手を挙げてオーリに感謝を示すと、海岸に続く庭へ向かった。

「家族、か」
 夫妻を見送るオーリは、何かを思い出すように呟いた。
「そうだ、さっきソロフ先生が言ってたけど、先生のお母さんって今どこに住んでるの?」
「さあね、あの辺かな」
 オーリは星々の煌めく夜空を指差す。つられて空を見上げたステファンは、はっと顔を曇らせた。
「ご、ごめんなさい。天国に行っちゃったんだね」
「謝ることはないよ。母とアガーシャが亡くなったのは、もう20年も前なんだ」
 オーリは暗い庭に出て歩き始めた。
「あまり多くは覚えてないけど……優しい人だった。でもひどい時代だったから、魔法を人前で使うところは見た記憶がないな。母が『賢女』という、魔女界では最高位の称号を持つ人だったと知ったのは、ずっと後になってからだよ」
「じゃあ、アガーシャは?」
「彼女はある意味、一族の犠牲者だ」
 庭の外れに向かうと、音も無く海岸への道が開いた。来る時のように名乗りを上げなくとも良いようだ。
「ここなら悪口を言っても大叔父様には届かないな」
 オーリは皮肉な表情で岩壁の間を進む。
「魔法を使う連中なんて、偏屈なんだよ。だから一族で固まって、限られた中から伴侶を選ぶのが常だ。でもそうやって血の濃い者同士が結婚を繰り返した結果、アガーシャのようにひとつの力だけに特化した魔女が生まれることもあった」
「ひとつの力だけって……あんな赤ん坊の姿なのに?」
「だから、それが彼女の力だった。つまり『一生無垢な赤ん坊で居る』ってことさ」
「一生ずっと? 260年も生きたのに、成長しなかったの?」
「ああ。まさに『童心』の権化さ」

「皮肉なものだね、オーレグ」
 突然の声に驚いて2人が振り向くと、岩壁の入り口に黒い服の少年の姿が見えた。
「あ、ソロフ先生……」
 黒い服の少年――ソロフの『童心』は、道には入ろうとせず、入り口に立ったまま涼しい声で続ける。
「現実主義の魔女の最長老が、成長しない赤ん坊アガーシャだった。対して童心を重んじたはずの魔法使いの長老は干からびた姿でどうにか命を保っている。ステファン、君ならどっちがいい?」
「どっちもやだ。ぼくは何百年も生きたくないし童心なんてよくわかんない。普通に成長するんじゃダメなの?」
 ステファンの言葉がおかしかったのか、ソロフの『童心』は笑い声をたてた。
「ところでオーレグ、君もまだこの姿が見えるんだね。大丈夫、失ったものはいつか取り戻せるよ。より遠い血とより近い魂を伴侶に生きるんだ。オーリガもシウンも果たせなかったことが、君にはできるはずだよ」
「そう願いたいですね」
 オーリが応じると、軽く手を振って少年の姿は消えた。
「ソロフ先生、見送りに来てくれたんだ。でも心の一部だけ飛ばすなんて器用だね。眠ったんじゃなかったの?」
「あの師匠なら眠りながら北極までだって行けるさ。やれやれ、口調まで子供に変わるんだからまったく……」
 オーリは苦笑いしながらも、ソロフの去った方に向いて目礼した。

 岩壁に挟まれた道を抜け、海岸に出ると、ユーリアンたちの姿はもう無かった。ただトンネルへの入り口を示す白い紋様だけが、人影に反応するかのように微かな光を発している。けれどオーリはそこに向かおうとはせず、海風に吹かれて白い月の浮かぶ夜空を見上げた。
「……そうだな、久しぶりに飛んでみるか」
「え、飛ぶって?」
「こんな月のいい夜にトンネルなんて面白くないだろう。ステフも自力で飛ぶことを覚えたんだよな?」
 振り返ったオーリは悪童の顔になっている。ステファンはいやな予感がして後ずさりした。
「ちょ、ちょっと待って。飛んだといってもぼく全然知らずに……ガーゴイルもここには居ないし」
「誰がガーゴイルなんて使うと言った!」
 がし、と脇腹を抱えられたと思うと、次の瞬間には2人とも海の上に高く飛翔していた。
「ひぇええええええ!」
 ごうごうと風の舞う音がする。周り中の景色が渦巻きのように歪む中、ステファンは振り落とされないようにしがみつくのがやっとだった。
「死ぬ死ぬ死ぬーっ!」
 大げさではなく本当にそう思った。呼吸ができない。上下左右の感覚もむちゃくちゃ、熱いのか冷たいのか判らない強い風の中をオーリは飛んで行く。これはひどい。アトラスに乗って飛んだほうがまだましだ。

 時間にしてどのくらいだったのか、突然硬い地面を靴の裏に感じて、ステファンは前のめりに転んだ。ようやくどこかに降り立ったのだ。ホッとした途端、吐き気が込み上げてきた。
「おえ……」
 頭の中がぐらんぐらんだ。でたらめに揺れる視界の中に、見覚えのある白い家と灯りが見えた。
 玄関ドアが開き、真っ赤な髪が篝火かがりびのように踊り出る。
「オーリ! ステーフ!」」
 真っ直ぐに走ってくるのはエレインだろうか?
 たった2時間ほど留守をしただけなのに、10年ぶりに会うみたいにに両手を広げて来る。
 冗談じゃない。この状態であの怪力ハグなんてされたら、ほんとに死ぬ。ステファンは焦ったが、秋バラの植え込みの前でエレインは急に立ち止まった。
 何か言葉を飲み込むかのように口を引き結んで、バツが悪そうにオーリを見ている。目を真っ赤に泣き腫らしているように見えるのは、オレンジ色した玄関灯のせいだろうか。
「より遠い血とより近い魂……」 
 そうつぶやいたオーリもまた泣き笑いのような顔を見せた。ステファンの目の前でひと足に植え込みを飛び越え、そのままエレインを抱きしめる。「ちょ、ちょっとオーリ!」
 驚きながらもいつもの怪力で突き飛ばすわけでもなく、エレインはただ固まった。
「なに、いきなり……離しなさいよ」
「やなこった!」
 出発前にエレインから言われた言葉をそのまま返し、オーリは離すどころかいっそう腕に力を込めた。

 もう、勝手に感動の再会劇でもなんでもやっててくれ、とステファンは頭を振った。とにかく胃の中がでんぐり返りそうで吐き気が治まらない。何か薬草を出してもらわなきゃ……
よたよたとステファンが玄関に向かうと、マーシャが出迎えてくれた。

 オーリとエレインがその後何時ごろ家に戻ったのかは、知らない。


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