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温泉ライターが本気で推す温泉本#4『温泉文学事典』

温泉の沼にハマり、湯めぐりを始めてから20年。その間、数多くの先人たちの書籍から温泉について学んできた。

そこで、私がこれまで読んできた温泉関連書籍の中から、特に影響を受けてきた本を紹介していきたい。

第4回は、浦西和彦編著『温泉文学事典』(和泉書院)

本書の特徴は第一に、鈍器になり得るような分厚さである。600ページ弱。3段組みのレイアウトにびっしりと文字のみが詰め込まれている。絵や図版は1つも入っていない。まさに事典の装いである。価格も6600円と衝動買いをするにはハードルが高い。

温泉に関する書籍を集めた私の本棚の中でも、本書は圧倒的な存在感を誇っている。

本書は温泉について書かれたエッセイや温泉が出てくる文学作品を事典項目にして編集した温泉文学事典だ。近代文学において温泉地がどのように描かれているかを網羅的に知ることができる大著である。

「温泉文学」と聞いてまず思い浮かべるのは、尾崎紅葉『金色夜叉』(熱海温泉)、夏目漱石『坊っちやん』(道後温泉)、志賀直哉『城の崎にて』(城崎温泉)、川端康成『伊豆の踊子』(湯ヶ野温泉)あたりだろうか。

もちろん、こうした名作の内容(要約)がコンパクトにまとめられているだけでなく、大町桂月、田山花袋、山口瞳、池内紀など温泉にまつわる名紀行文を残している作家たちの作品も(温泉に関する記述を中心に)紹介されている。

収録作家数は473名、収録作品数は853編、登場する温泉数は約700カ所に及ぶ。

本書は、作家の名前で「あいうえお順」に並んでいる。温泉地から調べたいときは、巻末の都道府県別の索引から引けるようになっている。実に便利である。

1ページの「あ行」を見ていくと、最初のページに作家の阿川弘之(阿川佐和子さんの父)が綴ったエッセイの一部が載っている。好きな温泉について述べた文章のようだ。一部抜粋しよう。

鳴子温泉は湧出量の豊富な事では、熱海や伊東をしのいで、全国で一二を争うが、幸か不幸か東京から遠いので、いまだにひなびた山の趣を残している。鳴子にも旅館は沢山あるが、町全体が、熱海のような宴会場の感じになり切っていない所がいいのだ。

まさに鳴子温泉の魅力を言い当てており、現代人が書いたと言われても納得してしまいそうだが、この文章が書かれたのは昭和33年である。東京タワーが完成した年で、高度経済成長の真っただ中だ。

鳴子温泉の魅力は当時からさほど変わっていないことも興味深いが、そのようなイケイケドンドンの時代に、熱海や伊東ではなく、「鳴子が好きだ」と言い切っている阿川氏にも共感をせずにはいられない。

しかも、同じエッセイの中で、「熱海や伊東へ向かう電車の中から酔っ払って温泉に着く前から真っ赤な顔をしていないと、楽しんだ気分になれない」観光客のことを「中途半端な薄汚さがある」と断じている。こうした文章を読むだけでも、阿川氏が温泉本来の愉しみ方をよく知っている人だったことがうかがえる。

・・・とまあ、最初の1ページ目から、温泉好きにとってはいろいろと考えさせられる文章が登場する。

本当は1ページ目から順にじっくりと読みたいところだが、さすがにそれをする心と時間の余裕がないので、今は、今度訪ねる予定の温泉地を引いて、その温泉地にまつわる記述を読み込む、という使い方をしている。

すると、いろいろな発見がある。たとえば、山梨県の名湯「下部温泉」で引いてみると、作家の井伏鱒二がこんな文章を残していた。

下部温泉の源泉館によってきた。農閑期だから、源泉館には三百人からの客がいた。浴場は朝六時から夜の十時までほとんど満員で、遠慮をしていると入浴の機会を失ってしまう。去年も発病する前に源泉館にいこうとしたが、満員のため川下のある温泉宿にいった。そこの番頭の態度はどうも気に食わなかった。

下部温泉の源泉館はこの地を代表する老舗の湯治宿で、今もその名湯を求めて湯治に励む人は少なくない。往時はもっと多くの人で賑わっていたとは聞いていたが、これほどの混雑ぶりだったことに驚く。

別のエッセイでも井伏鱒二は源泉館の浴場について触れている。

湯壺は囲いの一方が天然の岩壁のままで、その滑っこい岩に一尺ほどの長さの鉄棒が打ちこまれていた。中番に聞くと、昔、棒にふご(竹や藁を編んで作った容器)を吊るし、大怪我をした人間をふごに入れ、鉱泉につかるように吊るしたのだそうだ。

湯壺とは、おそらく今の「かくし湯大岩風呂」のことだと思うが、その光景を思い浮かべるだけでも驚きである。それほどまでに怪我人や病人が源泉館の湯を頼りにしていたことがよくわかる。

下部温泉はほんの一例だが、こうして『温泉文学事典』を引いてから温泉に向かうと、より深く、より広い視点から温泉地をとらえることができる。本書は、いわば宝の山。温泉ライターの仕事には欠かせない一冊である。

願わくば、時間をかけて1ページ目から順に読み進めてみたい。そして気になった文章は原著にあたり、じっくりと読み込む。そんな読書体験ができたら幸せなのだが、今はまだ、それができる余裕はない。実現するのは、いつになることやら。

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