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オリジナル小説 リアム・クルス(第1章)

第1章 リアムとカイル


 灰色の壁に囲まれた、ひどく薄暗い小さな部屋で、一人の男の子が目を覚ました。彼の名はリアムといった。
 窓のない部屋には言うまでもなく朝日など射し込まないが、生まれたときからずっと規則正しい生活を送ってきたリアムにとって、昨日や一昨日と全く同じ時刻に起床することなど容易だった。
 リアムはまだ五歳だが、いつも一人で寝ているし、一人でちゃんと起きている。着替えもする。それから、女が階段の上のドアを開けて自分の名前を呼ぶのを待つのだ。
 この日も女はリアムを呼んだ。呼ばれたら、リアムは急いで階段の下に立つ。
「リアム!」
「はい。おはようハンナ」
「おはよう。朝食ができたわよ。上がってらっしゃい」
 リアムは階段を駆け上がり、ダイニングへ向かった。今日のメニューはエッグベネディクト。
――やった! 今日は機嫌がいい日だ!
 リアムは彼女――ハンナ・クルスのその日の機嫌を、朝食のメニューで見極めることができる。

「リアム、私はあなたの本当のママじゃないの。でも、あなたはクルス家の一員よ。あなたを愛してるし、ちゃんと育てたいと思ってるわ」
 ハンナは口癖のようにこう言う。リアムも同じ言葉を返す。
「わかってるよハンナ。でも、僕の本当のママはどこにいるの? どうしてハンナと一緒にくらしてるの?」
 するとハンナはフフ、と軽く微笑んで、何も言わなくなる。リアムもそれ以上問い詰めることはせず、食事を続けた。訊いてはいけないことのように思われるのだ。
 もう一つ、ハンナから言われ続けている言葉がある。完璧になりなさい、だ。
「リアム、あなたは完璧な人間になるのよ。私が全部教えてあげる。そうすればきっと、あの人も戻ってきてくれるわ……。リアム、私を幸せにしてね」
 リアムが「うん」と頷くと、ハンナは幸せそうに笑う。それだけが生きがいであるかのように。リアムが「あの人って?」と聞き返すと、彼女の笑顔は悲しげな表情に変わり、「恋人よ」とだけ答えることを知っているので、決して言わないことに決めているのだ。

 朝食の後は後片付け。食器を流しに運んで洗う。そのままではシンクに届かないので、踏み台の上に乗ってやる。洗い終わった皿はハンナが棚に入れてくれる。
 それが終わったら掃除。食事をしたダイニングに掃除機をかけ、彼自身の部屋をほうきで綺麗に掃く。家には二階もあるようだが、リアムは上がらせてもらったことはない。ダイニングは一階、リアムの部屋は地下室だった。
 掃除が終わると今度は勉強。ハンナはテキストや問題集を持ってきて、とても丁寧に説明した。小学生用のテキストを使っているが、リアムはどんどん吸収する。週に一回のテストは、ほとんどが満点だった。
 リアムは学校というものを知らない。プレスクールにも通っていない。そもそも、この家の外に出たことすら一度もない。リアムは毎日、地下室とダイニングを行き来することしかできなかった。
 勉強の時間は午後五時まで続くが、その合間に昼食と洗濯物の収納がある。昼食後は朝と同じように食器を洗って、その間にハンナが洗濯物を取り込み、二人でたたむ。リアムは自分の服を持って地下室に戻り、また勉強を始める。
 五時になると夕食の支度を手伝う。じっとハンナの横に付いて、頼まれたときだけ作業する。勉強も掃除も嫌いではないが、好きだと感じるのはこの時間だ。ハンナの作る料理は美味しい。今日は何ができるのかな、どんな味がするんだろう、などと考えながら、様々な食材が流れるように形を変えて、美しく仕上がっていくのを眺めているととてもワクワクする。何より、料理をしているハンナの横顔は、他のどんなときよりも楽しそうに見えた。リアムがテストで満点をとったり、特に家事を頑張ったりしたときは、ご褒美にお菓子を作ってもらえる。これがまた美味しくて、リアムは大好きだった。

 ハンナはいつも優しかった。何となく機嫌の悪い日や、落ち込んでいる日もあったが、リアムにはいつも笑顔で接した。
 ただその笑顔には、有無を言わせぬ力があった。リアムにとって、ハンナの言うことは絶対で、逆らいたいとすら思えない。ハンナはリアムに常々こう言い聞かせた。
「あなたは私の言う通りにしていればいいのよ。必ず完璧な人間に育ててあげる。あなたは、私なしでは生きていけないの」

 ある日、食器を洗っている最中に手が滑ってコップを割ってしまった。ガシャン! という音に驚いて思わずハンナを見上げると、彼女は顔を顰めてため息をつき、静かに首を振った。
「リアム。完璧な人間はこんな失敗しないわ。あなたもまだまだね」
「ご、ごめんなさい……」
「ハァ……。もっと練習しなきゃね」
ハンナはてきぱきと割れたコップを片付け、残りを洗うように言った。リアムはすごく申し訳ない気持ちになって、俯いた。ハンナは怒鳴ったことはないが、その分リアムは彼女の微細な表情の変化に敏感だ。ハンナが嫌な顔をすれば、リアムの心も曇る。手先が器用で大抵のことは上手くこなし、滅多に失敗などしないリアムは、叱られることになかなか慣れないでいた。失敗できない緊張感に息苦しさを覚え、心から笑える時間はあまりなかった。

 その日はハンナが街へ買い物に行く日だったが、珍しく帰りが遅かった。五時に勉強を終えたものの、ハンナが呼びに来ない。
 普段午前中はリアムに付きっきりでテキストの新しい内容を教えた後、午後からは問題集を使った復習をさせて、彼女は何か別のことをしている。今日は買い物へ出かけたのだが、夕食を作り始める時間になっても帰らないのは初めてだった。
 リアムは不安になったが、何かできるはずもなく、ただ待っていた。リアムの不安をよそに、ハンナはちゃんと帰ってきた。一人の男の子を連れて。

「離せよ!」
 男の子はハンナに掴まれた左腕を必死に振りほどこうとしながら叫んでいる。銀色の短髪で、歳はリアムと同じくらいだ。
 ハンナは彼のほうには目もくれず、リアムに淡々と話しかける。
「ただいまリアム。この子はカイル。今日から一緒に住むの」
「え、ど、どうして……」
 あまりにも唐突な出来事に、開いた口が塞がらない。横から男の子が怒鳴る。
「俺の名前はケントだ!」
「カイル、わがまま言わないで。あなたは今日からカイルよ。ここで私たちと一緒に暮らすの」
「嫌だ! 離せよ! 家に帰る!!」
 カイルは尚も抵抗していたが、ハンナはそれ以上彼に何も言わず、リアムに向かっていつものように微笑んだ。
「リアム。あなたが完璧になるにはね、友達が必要なの。カイルはあなたの友達よ。いろいろ教えてあげてね」
 リアムは恐る恐る頷いた。

 結局、カイルはリアムとともに地下室へ連れて行かれてしまった。階段の上のドアをドンドンと激しく叩きながら「開けろよ!」と叫び続けるカイルを見て、リアムは仕方なく話しかけた。
「ねえ、もうやめなよ。どうせ開かないよ」
 カイルはリアムのほうを振り返ると、グリーンの瞳でキッと睨みつけた。
「おまえ、あいつの子どもか? 俺をここから出せよ。家に帰るんだ」
 リアムはさすがに可哀想だと思ったが、それでもハンナに逆らえるはずはない。ハンナが一緒に暮らすと言っている以上、カイルにもそれをわかってもらう必要がある。
「ハンナは僕のママじゃないよ」
「じゃあ、おまえも無理矢理連れて来られたのか?」
「さあね。僕はずっとここにいる。訊いても教えてくれないんだ」
 カイルはドアを叩く手を止めて、黙った。リアムが「こっちに座りなよ」と言うと、素直に階段を下りてきて、ベッドの端に腰掛けた。
「いい? ハンナの言うことには、絶対に逆らっちゃ駄目だ。僕たちにはハンナが必要なんだよ」
「なんでだよ。俺は絶対家に帰る。ママとパパが待ってるんだ。きっと俺を探してる」
 リアムがどんなに言い聞かせても、カイルは「帰る」と言って聞かなかった。しかし、いい加減お互いに疲れてきたため、とりあえず今日はもう寝ようという意見で一致した。
 二人は並んでベッドに横たわった。

 翌朝目覚めると、カイルはリアムの隣ですやすやと眠っていた。リアムはカイルの肩を優しく揺する。
「カイル、起きて。朝だよ」
「う~ん……」
 寝覚めが悪いのか、なかなか起きない。
 着替えを済ませてからもう一度起こしてみると、ようやく起き上がった。
「早く着替えて。もうすぐハンナが呼びに来るから」
 リアムは自分の服を差し出した。昨夜は夕食を食べ損ねて腹ペコだった。おまけにシャワーも浴びられなかったので、なんだか気持ちが悪い。
 カイルは受け取った服に着替えると、リアムの隣に立って顔を洗った。
 リアムはそんなカイルの様子を見て、いくらか安堵した。昨日のように暴れだすのではないかと懸念していたのだ。
――よかった、大人しくしてくれそうだ。そろそろハンナが来る。
 七時十五分きっかり。いつも通りハンナは地下室へのドアを開けた。
「リアム、カイル。朝食の時間よ」
「おはようハンナ」
 リアムはハンナに挨拶した後、カイルを促し階段を上る。
 上りきって、二人ともドアの外に出た瞬間、突然カイルが走り出した。一直線に玄関へと向かって駆けていく。
 リアムもハンナも一瞬呆気にとられたが、ハンナはすぐに我に返り「待ちなさい!」と叫んで追いかけた。そして、カイルが玄関ドアに手をかけると同時に、彼の体を抱きかかえた。
 ジタバタと必死に抵抗し、「離せよ!」と怒鳴りつつ再び地下室へと運ばれていったかと思うと、下から「リアム!」と自分を呼ぶ声が聞こえてきたため、リアムは慌てて階段を駆け下りた。
 見ると、カイルはベッドの足に鎖で繋がれていた。尚も暴れているため、左の足首に錠が食い込んで痛そうである。どこから出したんだろう、とリアムは不思議に思ったが、とても訊ける空気ではない。
「リアム、カイルを見張ってなさい」
 ハンナはそう言うと、さっさと一階へ上がっていった。そしてまたすぐに朝食を持って戻ってくると、
「リアム、カイルを説得して、反省させなさい。この子が心を入れ替えない限り、ここから出ることは許さないわよ」
とだけ言い残し、出て行った。
 ここまで怒るハンナを見るのは初めてだ。リアムは怯えを隠せなかった。自分が悪さをやらかした訳ではないのに、溢れ出す涙を抑えきれない。
 ところが逆に、カイルのほうは既にケロッとした様子で話しかけてきた。
「ちぇっ、イケると思ったのになあ。リアム、食べようぜ」
「…………」
 リアムはカイルを理解できなかった。大人が本気で怒る姿を目の当たりにして、なぜ平気でいられるのか、皆目見当もつかなかった。
「……君は、どうして平気なの? 君のせいで怒られたんだよ?」
「なんでおまえが泣いてんだよ。俺は慣れてるから。ママに叱られんの」
 カイルはフォークを手に取って、パンケーキを口いっぱいに頬張った。
「君のママ、そんなに怖いの?」
「別に普通だよ。誰のママだって怒るだろ。みんなそう言ってる」
「みんな?」
「プレスクールのみんな。みんなのママも宿題やれってうるさいってさ」
「……プレスクール?」
「おまえ、プレスクール知らないの? 勉強は?」
「勉強なら、ここでしてる」
 ふ~ん、と小さく呟くと、カイルは残りのパンケーキを口の中に放り込んだ。
 プレスクールとかいうものを知らないのがそんなにおかしいのだろうか、とリアムは戸惑う。今まで、勉強は家でするものだと思っていたし、ハンナ以外の人間に会ったのもカイルが初めてだった。彼の口ぶりだと、複数の子どもたちがプレスクールという場所に集まり、一緒に勉強しているように思われる。
 カイルはパンケーキを飲み込むと、プレスクールについて説明し始めた。
「プレスクールってのは、子どもたちが集まって先生から勉強を教えてもらうところ。学校に行く準備をするんだってママが言ってた」
 リアムは知らない単語のオンパレードにますます混乱した。先生? 学校? どれも経験したことのないものだ。
 リアムのよくわからないという顔を見て、カイルは大袈裟にため息をついた。
「おまえ、ほんとに何も知らないな。もしかして、この家から出たことないの?」
 リアムがそうだと頷くと、カイルは目を丸くした。そうしてしばらく考えて、こう続けた。
「よし、じゃあ俺が、外の世界のこといろいろ教えてやるよ」

 カイルは自らの日常を事細かに話した。
 カイルの家は街中にあって、いつも多くの人で賑わっていること。週に三日はプレスクールに通っていること。プレスクールでは色塗りやハサミを使った工作をしたり、ブロックで遊んだり、昼寝をしたりすること。一番人気のおやつはクラッカーであること。ママにはよく叱られるが、ちゃんと謝ればすぐに許してくれること。公園という場所にはブランコや滑り台があって、みんなで遊ぶこと。クリスマスにゲームを買ってもらったこと。そして、毎年誕生日になると、パパが遊園地に連れて行ってくれること。
 実は、この遊園地で両親が目を離した隙に、ハンナに抱きかかえられて攫われたのだった。
「だから、俺ははやく帰らなきゃいけないんだ。ママもパパも、きっと心配してる」
「……そっか」
 リアムはそう返すだけで精一杯だった。外にはいろいろな場所があって、たくさんの人間がいる。想像を絶する世界の広さ。温かい家族のあり方。言葉にならない感情が頭の中を渦巻いた。
――今までこれが普通だと思っていたのに。
――ハンナと自分だけが、世界のすべてだと思っていたのに。
 リアムの中で、これまでの常識が一気に崩れ去っていった。
――僕は、〝普通〟じゃなかったのか――。
 ハンナへの絶対的な信頼が、初めて揺らいだ気がした。

 翌日、七時きっかりに起きたリアムはカイルを起こしてハンナが来るのを待った。
 ハンナは朝食を持って現れた。どうやらまだ、二人を地下室から出すつもりはないらしい。
「ねえ、ハンナ。カイルの足枷を外してあげてよ。可哀想だよ」
 リアムはハンナの神経を逆撫でしないよう、なるべく柔らかく頼んでみた。ハンナは穏やかな口調で、しかし決して機嫌の良くない声音で答えた。
「あら、リアム。優しいのはいいことね。でも駄目よ。外してあげられるのはトイレとお風呂のときだけ。彼がこの家から逃げたりしないと誓うまではね」
テーブルに食器を並べると、ハンナは部屋から出て行った。
 食事の後、食器を重ねていると、しゃがんでゴソゴソしている背中が目に入った。
「何してるの?」
「んー、これ外れないかなって」
 カイルは足を引っ張ったり床に叩きつけたりして、なんとか足錠を外そうとしていた。
「無理だと思うよ……。そんなに簡単に外れたらつける意味ないし」
「うーん」
 一応止めてみたが、やはりカイルは聞かない。尚もガチャンガチャンと繰り返す。
 リアムは諦めてテキストを開いた。昨日は丸一日カイルと話していたせいで勉強に手をつけられなかった。ハンナも相当機嫌が悪かったのか、教えに来ることはなかった。今朝もまだ直っていないようだったし、しばらくは自習するしかなさそうだ。
 一通りガチャガチャやった後、飽きたのか、それとも疲れたのか、カイルは足錠をいじるのをやめて床に寝っ転がった。
「あ~外れねー!」
「…………」
「なあ、何やってんの」
「勉強」
「勉強?」
 カイルは起き上がって、リアムの手元を覗き込んだ。
「……何だこれ。全然わかんねー」
「やってるんじゃないの? プレスクールで」
「そんな難しいのやってねーよ。それ、学校でやるやつじゃねーの」
 学校……。そういえば、プレスクールは学校に行く準備をする場所だとカイルが言ってたな。
「おまえ、頭いいんだな」
 カイルはベッドに寝そべりながら言った。
「え?」
「だって、プレスクールにも行かずに、もう学校の勉強してるんだろ」
 ベッドの上で豪快に腕を伸ばすカイル。
 リアムはこれには何も返さず、黙って考え込んだ。ハンナは、リアムに広い世界を教えてはくれなかった。しかし、言葉だの、計算だのといった事柄はすごく熱心に教えてくれた。家事だってそうだ。わからないことがあれば、一つ一つ丁寧に説明してくれる。
――ハンナは、僕のことをどう思っているんだろう。僕をどうしたいのかな。
 そんな疑問が頭の中をよぎる。彼女は常に「完璧になりなさい」と言う。だが、その理由は? 例の〝恋人〟を呼び戻したいだけなのだろうか。リアムには、そうではないような気がしてならなかった。

 昼頃、昼食を運んできたハンナの腕には、大きな袋が下げられていた。ハンナは袋をカイルに手渡し、
「あなたの服よ。サイズが合わなければ言いなさい」
とだけ言って出て行った。
「ピッタリだ」
 早速着ていたリアムの服を脱いで、新しい服を着たカイルが嬉しそうに呟く。
 リアムはそろそろ彼を説得できるかもしれないと思った。
「ねえカイル。ハンナに『もう逃げない』って言いなよ。悪い人じゃないってわかったでしょ?」
「えー」
 カイルは眉根を寄せて続ける。
「俺嘘つくの嫌いなんだよね」
「嘘って……」
「だって俺絶対ここから出るし」
 依然気持ちは変わっていないようだ。リアムは心の中でため息をついた。

 その夜、カイルはハンナから新しいテキストやノートを手渡された。見ると、リアムがとうの昔に終わらせたものだった。
「明日からはあなたも勉強するのよ。リアム、彼にクルス家のルールを教えてあげて」
 それだけ言って、ハンナは一階へ上がっていった。どうやら明日から教えにきてくれるつもりらしい。
「ルールって?」
 カイルに訊かれたので、リアムはこれまでの一日の流れや週に一回のテスト、その点数に応じたご褒美等について話してやった。
 初めカイルは面食らって、不満の声を漏らした。毎日一日中勉強なんて最悪だの、絶対無理だの言っていたが、ひとしきり文句を言い終えると、もらったテキストをパラパラとめくって眺めていた。
「大丈夫だよ。ハンナは丁寧に教えてくれるし、僕も教えてあげられるから。そのテキスト、もう終わったんだ」
 リアムは励まそうとしたが、カイルの不満は別にある。内容がわからないことが問題なのではなく、遊ぶ時間がないのが問題なのだ。
「そうじゃなくてさ、いつ遊べばいいんだよ。おまえ今までどうやって遊んでたんだ?」
「遊ぶ? 休憩なら、自由に取っていいと思うけど」
「違うよ、外で走り回ったりとかさ」
 もちろんリアムにそんな経験はない。この家から出たことがないというのは、文字通り家の玄関から外に出たことがないという意味だ。
 カイルは改めてリアムやハンナの異常さを認識した。そして若干の恐怖を覚えた。このままずっとこの家に閉じ込められていたら、自分も二度と外へ出られないのではないか。カイルは一層脱出の意志を強めた。

 カイルは布団の中で考えた。確実に逃げるにはどうすればいいのか。地下室から出してもらえたとしても、玄関まで走っていく手はもう使えない。ハンナは警戒しているだろうし、何より足の速さで大人に勝てるはずがないのは充分わかった。
 それにもしかしたら、ドアには錠が掛かっているかもしれない。だとすると、ハンナにばれないように部屋を出る必要がある。意表を突いても、ドアの前でもたつけばたちまち捕まってしまうからだ。
 更には、簡単に開けられる錠ではない可能性もある。南京錠のように鍵がいるものだったら、こっそり探して、こっそり奪わなければ。もしくは、別の出入り口を探すか――。
 事前に調べることが山ほどある。
足錠を外す方法。
地下室からこっそり出る方法。
玄関ドアの開錠の仕方。
別の出入り口の有無。
 カイルは気の遠くなる思いだった。

 朝になると、カイルはいつものようにリアムに起こされて朝食を食べた。すると早速勉強の時間が始まった。
 ハンナの話を真剣に聴いているリアムの向かいに座り、二人の様子を窺う。ハンナは続いてカイルにもテキストの内容を説明した後、地下室を出て行った。
 カイルはリアムに相談してみることにした。彼はハンナに信用されているし、一階の様相にもある程度詳しいだろう。
「なあ」
「何?」
「どうやったら確実に逃げられると思う?」
 カイルの質問に、リアムは軽くため息をついて答える。
「まだ逃げる気なの? 無理だってば。ハンナはすごく頭がいいんだ。僕らみたいな子どもが勝てるわけないよ」
「だからおまえに相談してるんだろ。おまえだって頭いいし、やってみなきゃわかんないだろ」
「僕には無理。ハンナの言うことは絶対だもの」
 リアムは頑として首を縦に振らなかった。カイルは不思議でならなかった。リアムはこんなにひどい扱いを受けてきたのに、なぜあんな奴の言うことに従っているのか。嫌っている様子すらない。むしろ依存している。
 ハンナがいなければ生きていけない――。
 そう思い込んでいるようだ。
 カイルだって、ママのことは大好きだ。口うるさいと思うこともあるが、普段は優しいママだ。コップを落として割ってしまった時は、てっきり怒られると思っていたのに、ママが真っ先に言った台詞は「まあ! 怪我はない?」だった。
 ママは美味しいご飯を作ってくれるし、掃除も洗濯もしてくれる。けれども、ママがいなきゃ生きていけないと思ったことはない。そりゃあ会えなくなるのは絶対に嫌だが、ママがいなくても立派に暮らしている人たちがいることをカイルは知っている。
 とにもかくにも、まずはリアムをその気にさせなきゃな、とカイルは結論付けた。

 何週間か過ぎても、リアムとカイルの距離は一向に縮まらなかった。
 カイルは「逃げる」、リアムは「無理だ」の一点張りで、お互いに全く譲らない。そのせいで未だ地下室から出られない生活が続き、リアムは辟易してきた。
――この子、なかなか頑固だなあ……。
 自分がハンナから離れるなんてありえないが、カイルもまた脱走を諦めるなんてありえないと考えているようだ。このまま彼の話を否定し続けても、彼は決して折れないのではないか――。
 リアムは内心、焦り始めていた。

「なあリアム。おまえってさ……自分のこと、どう思ってんの」
 ある日の午後、勉強中にカイルが話しかけてきた。
 唐突すぎる質問に、リアムは問題集を解く手を止めて聞き返す。
「は?」
「自分って、どんな人間だと思ってる?」
「どんなって……」
「いろいろあるじゃん。優しいとか、わがままだとか、頭がいいとか、足が速いとか」
 リアムは閉口した。一つも単語が浮かんでこないのだ。
 これまでの人生で、ハンナの性格を推察することはあっても、自分自身について真剣に考えたことなど一度もない。考える必要がないからだ。リアムはハンナの言う通りにしてさえいればよかったのだから。
 しばらく考えた末、ようやく一言呟いた。
「……未熟者、かな……」
 今度はカイルが呆気にとられる番だった。
「はあ?」
 予想外すぎる単語に理解が追いつかない。
「何、未熟者って。どういうこと?」
「ええと……僕は、ハンナに言われたことを実行して完璧にならなきゃいけないんだ。でも、時々失敗もするし、テストも毎週満点ではないし……。だから、完璧にはまだまだ程遠い、って意味で、未熟者だよ」
「…………」
 カイルはなんと返せば良いかわからなかった。
 自分がどういう人間か、プレスクールの友達に訊いたときは、「私は泣き虫だから、強い人になりたい」とか、「僕はよく賢いねって言われる!」とかいう答えが返ってきた。
 しかし、〝完璧〟ということはつまり、強くもあり、賢くもあるということだ。もっと言えば、何でもできて、絶対に失敗しないということだ。
 完璧な人間など存在しない。なぜなら、人は失敗して初めて成長するからだ。カイルは先生にそう教わった。パパにしこたま怒られて大泣きしたときには、ママがカイルの背中を摩りながら、「パパもママも、ケントが大好きだから叱るのよ。あなたがろくでもない大人にならないように叱るの。どうでもいいと思ってたら、叱ったりせず放っておくわ」と優しく諭してくれた。
 ハンナはリアムを叱らない。単にリアムが優秀なのかもしれないが、自分に逆らうカイルにさえ声を荒らげることはない。ただ冷たく刺すような視線を向けるだけだった。
 ハンナは知らないのだろうか。愛情をもって叱るということを。
 リアムは知らないのだろうか。真の愛情とは、自分に自信を与えてくれるものだということを。
 二人は知らないのだろうか。誰も完璧な人間になんかなれないということを。
 五歳の子どもでも知っているような事実を。
「リアム。おまえはもっと、その……いいやつだよ」
 うまく言葉にできない自分がもどかしい。カイルは、リアムにもっと自信を持ってほしかった。リアムはカイルよりずっと勉強ができるし、食べ物の好き嫌いもない。
 けれども、リアムは悲しそうな表情を浮かべ、黙って首を左右に振るだけだった。

 結局、カイルが脱出の糸口を見つけられないまま、半年が過ぎた。
 半年間、リアムとカイルは同じ部屋で生活してきたにもかかわらず、今なお打ち解けられずにいた。原因は、脱出に対する意見の相違もあるが、それ以上にリアムの態度にあった。カイルが何を話しかけても、リアムは必要最小限の返事しかしない。会話が膨らまず、お互いの人となりがいまいち伝わらない。
 カイルは一時期、嫌われているのではないかと不安になった。だがリアムは決してカイルを嫌ってはいない。むしろ仲間ができたようで嬉しく思っていた。度々逃げ出そうとしては失敗してお仕置きをくらうカイルに呆れることはあるが、そんな自分に諦めることなく話しかけてくれるところが好きだった。
 ただ、リアムは自分から話を振ることができなかった。せっかくカイルが話しかけてきてくれても、会話を広げられる知識や考えがリアムにはなかった。
 テキストの内容なら何でも答えられるのに――。リアムはますます自分が情けなくなった。ハンナが「友達が必要」と言ったのは、こういうことだったのだろうか、などと考えていた。

 この頃、二人の生活には読書が取り入れられていた。相変わらず外に出してもらえないので、二人にとって地下室でできる唯一の娯楽でもあった。午後六時からの夕食の後、入浴と歯磨きを済ませると、九時の就寝時刻までは自由時間となる。二人は毎日一時間半程度の時間を読書に充てていた。特にカイルは夢中になって読んだ。本のリクエストをするときだけは、ハンナに好意的だった。
 ハンナのほうも、あまり勉強熱心でなかったカイルが積極的に本を読むようになって、ホッとした。カイルが「こういう内容の本が読みたい」と言うと、ネットで検索したり、図書館員に質問したりして借りてくる。
 カイルは脱出を諦めた訳ではないが、クルス家での生活が前ほど嫌ではなくなった。長時間の勉強や、カイルという名で呼ばれることや、ハンナが見せる〝ママ〟とは少し違う態度にもだんだん慣れてきたし、反抗しても暴力を振るわれることはない。ご飯は美味しいし、好きな本を好きなだけ読ませてもらえる。
 ただ、やはり両親のことが気にかかった。今頃どんな生活をしているのだろう。きっと息子が生きているかどうかもわからないだろうし、自分たちを責め続けているかもしれない。
 カイルは様々なジャンルの本を読んだが、親子愛を描いた小説などはつい自分と重ねてしまい、涙を堪えることができなかった。夜、隣で眠るリアムにばれないよう、静かに泣いた。

 そんなある日、リアムは勇気を出してカイルに話しかけてみた。
「ねえ、カイル。訊いてもいい?」
「うん?」
 カイルは読んでいた童話の本から目を離さずに答える。
「親子って、どんな感じ?」
「……うん?」
 質問の意図がよくわからず、リアムのほうを振り返って訊き直した。
「どういう意味?」
 リアムは読み終えたばかりの本をテーブルに置き、カイルの目を見て再び訊ねる。
「僕、パパの顔もママの顔も知らないんだ。だから、親と子がどういう関係なのか、本で読んでもよくわからなくて……。実際には、どんな感じなの?」
 難しい質問だ。カイルは唸った。親子ってどう? と訊かれても、一言で言い表せるものでもない。
「んー、優しいけど意地悪で、面倒だけどいないと寂しくて、好きだけど嫌いで、鬱陶しいけど大切な存在、かな」
「???」
 リアムはますますわからないという顔で首を傾げた。無理もない。カイルだって今の説明で伝わるはずがないとわかってはいるが、これ以外に説明のしようがないのである。
「う~ん、わかんないとは思うけど、ほんとにこんな感じなんだよ。気を許せるから喧嘩もするし、大好きだから喜ばせたいとも思うし、対等っていうか」
「対等?」
「うん」
「なんで? 親の言うことはよく聞きなさいって、どの本にも書いてあるのに」
 リアムはカイルの言うことが信じられなかった。親は子どもの世話をして、子どもが良い子になるように注意する。だから子どもは親の言うことをよく聞いて、それに従う。その関係はリアムとハンナにも当てはまる。だから、自分とハンナは親子と同じなのではないかと、僅かな希望を抱いて質問したのだ。それなのに、親と子が対等な生き物だとは。
 リアムとハンナは決して対等ではない。リアムはハンナに絶対服従。ハンナが上で、リアムが下だ。当然のことだ。ハンナはリアムが知らないことをたくさん知っているし、リアムができないこともたくさんできる。
〝できない〟リアムが〝できる〟ハンナに従うことはあたりまえであるはずなのだ。
 カイルはそんなリアムの想いをよそに、先ほどと変わらぬ表情で話す。
「そりゃあそうなんだけどさ……でも、親だって人間だろ? 間違えることもあるって」
「……そう?」
「そう。そうじゃなきゃ犯罪は起こらないだろ。前にテレビで殺人事件のニュースやってたときにパパが言ってた。母親が一歳の息子を殺した事件でね、なんでそんなことするんだろうと思って訊いてみたんだ」
 カイルの話によると、その母親は育児に疲れ、息子を自宅マンションに放置したまま何日も留守にしていたらしい。子どもの父親とは出産前に別れており、頼れる人間は一人もいなかったそうだ。
「何もできない赤ちゃんを何日も独りでいさせて死なせるなんて最低だよな。面倒見きれねーなら産むなよ!」
 カイルは怒り心頭といった様子で捲し立てた。
 カイルが「人殺しなんて最悪だ!」などと喚いて憤慨している間、リアムの思考は依然「親と子は対等かどうか」という論点で埋め尽くされていた。
 続いてリアムは言った。
「でも、ハンナはそんなひどいことしないよ。一人でもちゃんと僕らの面倒を見てくれてる。だから、ハンナはきっと親より凄い人なんだよ」
「……いやいや、そもそも誘拐は犯罪だから」
 カイルが少し考えてそう返す。
「ゆ、誘拐?」
「そ。俺が遊園地でパパやママとはぐれたときに無理矢理連れて来た。これって完璧誘拐だろ。あいつは犯罪者なの」
 そこまで言って、ふと気づく。
「もしかして、おまえも誘拐されたんじゃねーの?」
「ええ!?」
「訊いても教えてくんないんだろ? 後ろめたいからじゃね」
「…………」
 否定したかったが、言葉が出なかった。リアムは自身の出生について、あまりに何も知らない。それに、その質問をしたときのハンナの悲しげな雰囲気が思い起こされ、カイルの言葉がより真実味を増す。
 ハンナは間違いなど起こさない、完璧な人間のはずである。いや、そうでなくとも、優しくて、頭が良くて、器用で――良い人のはずだ。リアムが目指すべき理想の姿なのだ。
「もし僕が、ハンナに誘拐されてたんだとしても、ハンナは良い人だよ。僕は何不自由なく生きてこられたもの」
「一度も外に出してもらったことがないくせに?」
「……っ、それは、きっと外が危ないからだよ! ハンナは僕を危険な目に遭わせたくないんだ。大事にしてくれてるから!」
「ほんとに大事なら地下室に閉じ込めたりしねーよ。外はすっげーいいところだもん。危険はもちろんあるけど、そういう経験を通して大人になるんだよ」
 リアムは耐え難い悔しさに唇を噛んだ。大好きなハンナを否定されているというのに、カイルの言っていることは正論だ。反論の余地はない。
 だが、いくら徹底的に論破されようと、心はそう簡単に納得できるものではない。リアムはこの五年間、ハンナは正しいと信じて生きてきたのである。間違いを認めれば、自分の存在そのものを否定されているような気さえする。
「…………それでも、僕はハンナが好きだよ……」
 がっくりと項垂れ、今にも泣き出しそうな声音で呟くリアムに、カイルは少々戸惑いながらも言った。
「別に、好きなのはいいんじゃねーの。問題は、俺たちの自由が奪われてるってこと! こんなところにずっといるべきじゃねーんだよ。俺には俺の帰りを待ってるパパとママがいるし、……」
 言いかけて、カイルはハッとした。もし二人でうまく逃げ出せたとしても、リアムには帰る場所がない。あるいは、実の親が彼の帰りを待っていたとしても、リアム本人が彼らの顔も名前も知らないのでは探しようがない。
 リアムにとって、ここは唯一の居場所なのだ。
 とはいえ、彼がこのままの状況でい続けるのが良いとは決して思えない。リアムは絶対にここを出るべきだ。さらに言えば、彼はハンナの支配から逃れるべきだ。
 どう言えば伝わるのか――。
「……ごめん、俺今まで自分のことばっかで、おまえの立場で考えてなかった。おまえ、行く当てがないんだよな。でもさ、どう考えても、俺らはここにいちゃいけないと思う。何なら、俺の家に来てもいい。ここだけは、あの女からだけは絶対に離れるべきだ」
 これまでにないほど真剣な顔つきで訴えるカイルの姿を目の当たりにして、リアムは胸が熱くなった。実際には、逃げた後のことなど、リアム自身でさえ考えていなかった。リアムはただただハンナに逆らいたくなかっただけなのだ。彼女に嫌われるのが、見捨てられるのが、ただ怖かっただけなのだ。それなのに、本人より先に気づいてくれた……。
 その事実が、たまらなく温かく感じた。
 けれど――
 リアムは、静かに首を振った。
「無理だよ。僕はハンナがいなきゃ生きていけないんだ」
 リアムが諦めの面持ちで嘆いた瞬間、カイルが物凄い勢いでテーブルを叩きつけて立ち上がり、思い切り怒鳴った。
「またそれかよ!! その考えが駄目だって言ってんだろ! おまえはできる奴だ。他人の言いなりにならなくたって生きていけるんだよ! もっと自分を大事にしろよ!!」
 リアムは一瞬肩を震わせて驚いたが、負けじと立ち上がって怒鳴り返す。
「だから無理なんだってば!! 僕はまだ完璧じゃない! ハンナがいなきゃ生きていけない! 僕なんかがハンナに敵うわけない!!」
「人間はみんな平等だ!!!」
 カイルは腹の底から叫んだ。
 リアムは思わず黙った。黙らされた。
 カイルは一旦、息を整えてから続ける。
「ママが言ってた。人間はみんな平等だって。どんなに頭が良くても、誰より速く走れても、他人を見下していい理由にはならないって。どんなに貧乏でも、世界で一番不器用な奴でも、駄目な人間だなんて思う必要はないって。命の重さは、みんな一緒なんだって」
 喋りながら、カイルの頬には自然と涙が伝っていた。自分でも訳がわからないが、とにかく必死だった。
 一方、黙って聴いていたリアムの瞳からも、留めきれなかった雫が溢れ出る。
――こんな僕のために、必死になってくれる人がいるなんて。こんな僕に、駄目じゃないと言ってくれる人がいるなんて。
 ハンナ。
 ハンナ。
 ハンナ――。
僕は、完璧になんかならなくていいんだって。
人間は、みんな平等なんだって。
僕たち、間違ってたんだね。
 

僕……ハンナから、逃げなきゃね。


 その日、リアムは一晩中枕を濡らした。背中に小さな温もりを感じながら。

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