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留学記 #5

二ヶ月ほど前、大学が封鎖されるすこし前のケンブリッジはまだ異様とはいえなかった。マスクの着用を義務付ける臨時命令もなかったし、罰金を取られる心配もなかった。だが、減産 (ramp down)と称して勤務形態は変わり始めていた。

Google sheetsで勤務のシフトを調整して、ラボの一部屋あたり一人しかいられないようにする対策がとられた。早い者勝ちになるかと最初は思ったが、同僚はほとんど予約を入れなかった。普段は研究意欲しかない彼らが、早々に自宅勤務へと切り替えていた。

公共交通機関は利用するなと言われていたので、Blue bikeで通勤することにした。Blue bikeというのはレンタル自転車で、街中にあるスタンドで自転車をレンタルできる。返すときは、目的地近くのスタンドに返せば良い。部屋にいてはなかなか運動もできないので、良い機会だと思った。これから日常的に使うだろうと考えて、マンスリー・プランを契約した。

次の朝、「昨日レンタルしたBikeがまだ返却されていません」というメールが届いた。専用のアプリで確認すると、レンタルの時間は既に13時間を超えている。30分につき2.5ドルの超過料金を取られるので、この時点で65ドル。日本円でだいたい7000円だ。

かなり焦ったが、自転車はしっかりスタンドに返した記憶があったので、おそらくスタンドかアプリがバグったのだろうと考えた。その旨をメールすると、対応します、あなたの主張が正しければスタンドの修理と同時にアプリのレンタル表示はキャンセルされるでしょう、という返事が返ってきた。"あなたの主張が正しければ"というテキストにアメリカらしさを感じる。

それから、何度アプリをみても表示は増え続けた。結局のところ、2日間のあいだ増え続けた。そのあいだ、もしスタンドが修理されても表示が戻らなかったらどうするのだと、部屋の中を訳もなくウロウロした。それ以来、怖くてBlue Bikeは使えなくなった。

ラボ閉鎖までの最後の数日間は、歩いて通うことにした。自宅からラボまでは徒歩40分くらいだった。往復で1時間20分。確かに長い道のりだが、部屋にいてはなかなか運動できないので、良い機会だと思った。

明るいあいだは、街並みはアメリカそのものだった。グレーのスウェットを着た人々はジョギングをしていたし、上半身にびっしり刺青を入れたラテン系のおじいさんは、半裸で椅子に座りながら数独を解いていた。しかし、日が沈んで周りがみえなくなると、日本と変わらなくなる。細部が見えないと、アメリカも日本も同じだった。

高齢の大家さんのために、シフトの帰りにスーパーで頼まれた品を買って帰った。彼女は荷物が多くなると運搬が大変だから、うちにある鉄製のカートを持っていきなさいと言った。だが、それはザ・ロードの主人公みたいだから嫌だと言って断った。コロナウィルスで人通りの少なくなったポスト・アポカリプスのアメリカをカートを引いて歩けば、それは間違いなくザ・ロードなのだった。

人気の少なくなった夜の道路を歩いていると、白い車がゆっくりと後ろから近づいてきて、目の前の路肩に留まった。HIPHOPの低音が漏れ聞こえてくる。ケンブリッジで怖い思いをすることはほとんどないが、この経験だけはすでに何度かあった。こういう類の恐怖は、アメリカでは一般的なのだろうか。ゲットアウトという映画のオープニングは、この経験を見事に映像化している。映画と違って、実際は何もなかったが。

それからしばらく歩くと、今度は奇妙な軽トラックがゆっくりと自分を追い抜いていった。ボンネットについた真っ赤に光るパトランプが毒々しい。荷台には、豪華に飾り付けられた巨大な十字架が縛り付けられていた。そこからは、出来るだけ早足で歩いて帰った。家に帰るとすぐに風呂に入って寝ようとする。布団のなかでさっきの軽トラックを思い出しながら、これからどうなっていくのだろう、などと考えていた。

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