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本「ある家族の会話」の現代のリアル。


有名すぎる本

この本ときたらイタリアを代表する作家の本としてあまりに有名で、
イタリアと縁があるほとんどの人は聞いたことのあるのではと思う。   物語は、1920年代から50年代までのイタリア。ユダヤ人迫害の近代イタリア史とでも呼べそうな時代背景だ。                   

ちょっと、どう考えても暗い。

それゆえにというか、ためらって長々と家の本棚にしまったままにしていたのだけど、老義母が一人で住むトリノへ、夫と共にオランダから帰るたびに読み進めて、なんと言ってもトリノはこの本の舞台中の舞台、読むしかない。結局何年か前にようやく読み終わった。

何冊もの本を同時に読んだり、あっという間に適当に本を読む私にしては長~い長~い、読書時間を必要とした本だった。             

言ってみれば、適当に流せる本ではなかった。

そしてコロナの時代が始まり、、、この本はまたわたしの頭に蘇って来た。

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いちおう(荒)あら筋


これはイタリアを代表する作家、ナタリア・ギンズブルグの自伝的小説。 ファシズム国家の中の、ユダヤ系イタリア人の家族の話である。社会主義に理解のある知識階級であった彼女のユダヤ人家族は、活動を始めた兄弟が一人捕まっては解放される。ある兄弟は逃亡、またもう一人の兄弟が捕まってパスポートを取られたり。そして一人の兄弟は国外へ逃げたりと、予断なく戦争が続く中で家族は常に危険に晒されている。父親さえ捕まった時にはこの話はどうなるんだろうと思ったけれど、飄々としてる父親は、逮捕に喜ぶ。これで、おそらく知識階級であった意味を果たしたという感じ? 母親は父親が戻ってくると、「また退屈な日々が戻る」的なことを言う。

お父さんとお母さんとの日常交わされる言い争いなどを中心にその時の社会情勢、家族の行方が語られるのだ。

ちなみにこれを翻訳したのが、イタリア文学界では大御所の須賀敦子さん。一つ一つの言葉が研ぎ澄まされていて、丁寧、端正な文章。

これを今他の人が訳したらどんなものになるんだろうと、つい考えてしまった。でも他の須賀さんの本を読んでる私からすると、これは彼女がするべき仕事だったんだろうと思う。彼女のような文体こそがこの本にふさわしい。

ここで知る彼女の、お父さんはまるで日本の昭和の小説家のような雰囲気。要するにこだわりがすごくて、短気で、怒鳴り散らすというイメージ。わたしのイタリア系ユダヤ人のイメージは、このお父さんで決まりである。

とにもかくにも、この本の魅力は彼女の家族を知ることで、イタリア系ユダヤ人の世界を知れる。

ギンズブルグの家族が付き合っていた、この時代にイタリアで活躍した知識人や有名なコミュニストたちが、どんどん登場してくるのもイタリア歴史好きにはたまらないと思う。

それにしても作家は、自分の家族を客観的に語ることにより、このイタリアのファシズムの社会を批判するわけでもなく淡々と描き出し記録に残したのはすごいことだと思う。国家権力とは、ファシズムとはどういうものなのか、わたし達は知ることになる。反ファシストになると言うことの意味も。

けれど、どんな暗澹たる悲劇的な日々の中でも日常はあり、生きて行く上の人々の笑い、苦しみは変わらないのだと、この本を読んでるとよくわかる。

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このコロナ時代とのリンク


このコロナ時代の始まった頃、COVID-19が中国から来たということで、アジア人差別やアジア人への攻撃も各国で起きた。オランダでも友人(日本人)が、道を歩いていて頭を叩かれた。そうなるだろうな、と予想していたわたしは、やはりと思った。

また長年のアメリカの黒人差別主義の結果、また横暴な警察官が一人の黒人を殺し、世界を巻き込んだBlack lives matterが起きた。一体いつになったら、警官達の黒人殺しをやめさせることができるのだろうか?

ウイルス感染を恐れる、あるいは自由が制限され閉鎖空間にいる人々のストレスが高まって、移民、難民、外国人への攻撃、人種差別が強まったのかもしれない?

とにかくこの状況は、マイノリティの私たちにとっては、コロナより危ないものに感じた。

昔、イスラエル人に、「できたら国籍はいくつもあったほうが得よ」と言われたことや、戦争の時のファシズムの社会、ユダヤ人の置かれた状況と現在のコロナ時代がリンクしてしまった。どこにいるかによって、そのユダヤ人の運命もかなり違ったし、何人かの外国の官僚により、他の国へ逃れることができた人もいた。

この本の中で国籍を持っていても、国家権力に取られる時はとられてしまう、という話は心にドーンと響いた。いくつもあったほうがそれはそれは得なのだろうけど、、、。

また、ボーダレス、グローバリズム、ダイバーシティ、そんな言葉が少し前まで身近にあり、二重国籍を容認する国も増えて来て、世の中はもっともっと自由に開き出してるような雰囲気があったのに、ウイルスで国境閉鎖、、、。

とりあえず、ボーダレスとかグローバリズムという言葉は、思っていた以上に軽いものであったというのが明確になった。

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マイノリティとして生きる。


日本だと、マイノリティの王道は障害者になっているのだろうか? 他にも、ゲイ、トラスジェンダーの人たち、女装趣味の人も?        

難民、戦争の国から逃げてきてる人々の話は日本人同士ではあんまり話に出ないかな?

そして移民。住んでる国で外国人であるということもマイノリティの要素に入る。もちろん国によっては、女性であるということだけでマイノリティであるとも言える。

私も夫も、そういう意味ではオランダで、マイノリティだ。わたしは人種的には白人ではないのでより加算されてる。

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国籍、パスポート、ビザの危うさを知る。


そしてこの本の中でも語られたように、戦争の時代はパスポートは何度でも剥奪されるのである。これはユダヤ人だけではない。色々な国で、動乱の時はとりわけ、国籍は剥奪される可能性が常にある。無国籍にもなりうる。(まぁ、人によっては無国籍を選ぶ人もいて、それはまた他の本で。)

そういうことに気づいてからこの戦争の頃の古い物語はより、リアルを持って2020年の私に迫ってきた気がする。

また仮に親に何かあっても早々日本へは帰れないと今回のことで、より考えを新たにした。国境てなんだろう

「病気になったり死んだりしないように」と高齢な日本の母には言い含めた。

ちなみに、イタリアの義母は86歳、このコロナの中一人暮らし中である。頑張ってくれている。

緊急時、政局が変わると、マイノリティで他の国にいる場合は、こうなるんだなと勉強になった。したくない勉強であったけど。

わたしはそれでも、何かあったら日本へ行ける。(迎えに出てくれる人さえいれば)こちらへもとりあえず帰ってこれるだろう、今のところ。

でも、中国の滞在ビザ、日本の滞在ビザを持っていても自分が生活するその国へ戻れない友人、知人が今回のコロナ時代で出てきた。

病気の家族がいてもそうやすやすと帰れない。国によって、国籍によって、私たちは簡単に住んでいた場所へ戻れないということになるというのが誰にも明確になった。       

自分の本当に大切なものは、昔は旅行には持って行きたくないと思っていたけど、緊急時を考えるとそういう考えも甘いともわかった。

また、ビザなしでノマド生活や多角拠点で生活する人が出てきていたこの世の中。

ネットだけで仕事ができる人にとっては、世界中のどこにいても実際生活もできるし稼いだりもできる。あるいは国によっては(エストニアとか)ネットでビジネスのためのE - residencyも作ってくれるところもある。

このパンデミックが始まって、そういうノマド人たちはどこへ流れ着いたかというと、彼らの帰れる場所へ。

自分のパスポートを持ってる国しか受け入れ国はなく、そうです、みんな自国へ戻っていった。

私も少し憧れていただけに、残念ではあるけど、やはり結果はそういうことになってる。

ビザさえあればと思った人もいるだろう。どちらにしても、自国を離れて他の地に住むという意味では、大差ないのかも? 

よくいる、いろいろなところで生きていくというノマド的生活をしようとしてる若い人たち、あるいは移住を考えてる人も是非この本を一度手にとって考えてほしい。

どの時代でいても、マイノリティであるということは、ハンディになる。それを知っていながら生活をするのと、そうでないのでは違いは出る。21世紀なのに、なかなかダイバーシティ的には物事は進まないらしい。

そしてどこにいても、日常はある。今回、空港でどこへ自分が辿り着くかわからなくなった人たちも、ご飯を食べないといけないし、シャワーを浴びたり、眠らなければいけない。誰かとチャットだけでなく、言葉でも会話したいだろう。刑務所や、収容所に入れられない限り、やはり私たちには日常があり、そして言葉を紡ぐことができる。その自由が、やはり大切なんだと思うこのごろである。


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All Images©️keko B (Quattro Ogen), in Torino



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