稲田七浪物語――とあるモラとの出会いと別れ――⑭
前回はこちら。
14.「演出家」先生・稲田
・取らぬ狸の皮算用
かなり多くの人が、口にこそしていないだけで、実現できるかもわからない可能性に少しだけ期待してその先のあれこれを考えてみた経験を持っているのではないだろうか。私だってそうだ。もしこれに受かったら……とか、色々。
稲田もそうだが、彼の場合は、良く言えば常識に縛られず、悪く言えばあまりにも非現実的な皮算用が多かった。当人は言っていなかったが、恐らくは誰かに見出されるのを待っていたというのもそうだし、これから書く場面についてもだ。
前回書いた通り、なんやかんやで荒れたものの望んだとおりブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』を演出できることになったNNだったが、やはりバカはバカ。独裁者になってでも、嫌われてでも、何がなんでも演出したいのならば、脇を固めておかなくてはいけないのに、彼は性欲に負け、多分だが稲田やその他先輩たちが若い後輩とイイ思いをしていることを羨んで、「俺だってちょっとくらいいいだろう」とでも思ったのだろう、稽古の中で好みの後輩にセクハラを行っていた。そのことが露見すると、一応話し合いなど色々あったが、兎に角その年NNはサークルを去った(でも後で戻ってくるし、それを受け入れる先生がたにも正直呆れる)。そこで白羽の矢が立ったのが、長年サークルの守り神(の仮面をかぶって自分探しと相手探しをしていたのが実情ではあるが)として活動してきた稲田である。ノウハウはあるし、そういう意味では完璧だ。
しかし、私の気は晴れなかった。稲田としては、これで折角私が望んだとおり彼との芝居が出来るというのに、私が喜ばないことに不満があったみたいだが、もう私は三年生だった。時間が経っていたし、私が望んだのは、一緒に芝居をするために双方とも積極的かつ主導的に動いて、戯曲探しから人集めまで本当に協力して夢を実現させることであり、不名誉な理由で消えた男の後釜に彼が座って棚ぼたをせしめている姿を見ることではない。楽して贖罪が済むと思ったら大間違いだぞ!と思ったし、一応稲田も、私がこういう形態を望んでいる訳ではないことは理解していたから、ある夜の帰り道、二人で交差点前で話をした。その時の彼の論法は、以下のようなものだ。
まず、今は危機の時だし、自分は手を差し伸べなければいけない。公務員試験の勉強については、なんとか両立してみせる。自分にはその能力がないとは思わない。ソラリスとの芝居も、この公演をこなせばやりやすくなるはずだ……と、こんな具合で、恐らく浮かない顔をしていたであろう私を説得した。多分だが、稲田はこの時、私が彼との結婚が危うくなるのではないかと心配しているという心配をしていたのだと思う。結論を言えば完全に誤りなのだが、まあここは、世の慣習というやつを重んじて、稲田が年齢的に結婚を意識する頃だったから仕方ないと擁護しておこう。意識しているんなら、手堅く就職しておくべきだが……。率直に言って、私は元々結婚など意識していなかったからこそ、稲田のようなフラフラしていた男と三年近くも交際できたのである。結婚したい女の誰が、あの宙ぶらりんの状態だった稲田と付き合うだろうか?現在稲田にはロシア人の妻がいて、後々にそのことを知った経緯も書くけれども、ロシアの放送局に勤めている時に彼女と出会ったようだから(その後帰国しているが、今なんの仕事をしているかは知らない)、流石に無職で結婚はしていない。私の考えだが、結婚とは生活だ。恋愛じゃない。私は恋愛に非日常性を求めるが、結婚とは日常そのもの。相容れるはずがない……という思考回路の私はそもそも結婚向きではないのだが、稲田は向き不向きは別にして、兎に角結婚したい男だった上に、当然相手(私)も結婚したいものと思い込んでいた節がある。一度聞いてみてほしかったが、あまり私の意向を気にしたことのない男だったので、まあ仕方ない。
さて、では、私が心配していたのは何だったのかということだが、今はこんなに嫌っている稲田のことでも、一つは純粋に彼の将来が心配だったのだ。結婚ありきで考えていなかったから、このままでは彼は正真正銘のポンコツ、サークルの演出をやっていた以外自慢できるポイントは皆無、彼の他責的な性格から考えるに、サークルで貢献しすぎたから俺はダメになった……と後々演劇のせいにするんじゃないか?と考えたのが一点。更に、演劇サークルなんてそのものずばりが人間関係クラッシャーみたいなもので、何かしらトラブルがあれば稲田と私はきまずくなり、稽古中にも変なことになるのではないかとか、色々な懸念事項が頭を過ぎったのも理由で、先に言うと、これは的中した。前者については、稲田自身は念願の結婚が出来た以上、思い残すことはないかも知れないので、私から見れば彼の人生が失敗でも、彼自身は俺って素晴らしい男……と思っていないとも限らないので何ともいえない。
兎も角、稲田は何がなんでもこの機会を逃したくはなかったらしいし、私も、サークルの現状を考えれば稲田がやる他ないだろうとは思っていた。何しろ、戯曲を決め直さなければならないし、昨年度は演出助手を勤めたNNが今年は全面的に演出するという前提が覆ってしまった以上、ノウハウのある人物が手掛けるのが最善だったのは事実だ――とはいえ、これも後に書くけれど、私も小規模で自分のやりたい作品を演出してみたことがあるが、結局演劇は自分だけで作るものではなく、参加者の意見や創意が様々に絡み合って出来上がるものなので、多少の構成力やセンスは必要だとは思うし、自分の劇団だったり凄い劇場と契約した演出家のようなプロが手掛けるのとは違うけれど、皆が協力し合えばそれなりのものが出来上がるというのが実感だ。だから、仮に稲田がいなかったとしても、何かしらこの年はこの年で良い作品が出来上がったに違いないのである。一人一人が危機を意識し、気を引き締めて一つの目標に向かって努力すれば、経験不足で初めて演出をやるという人間も短期間で鍛えられたと思う。だから、稲田でなければならない理由などなかったのだが、稲田は自分がやらなければ!という使命感(の裏に隠れた、また大きな顔ができるぞ!という希望)に燃えていたし、私は私で、まあ稲田の将来について私が云々するのはおかしいだろうと思って、所謂自己責任論は嫌いだが、こればっかりは稲田の自己責任なので特に反対意見を言わなかった。これで春公演が行いやすくなるというのなら、漸く終わらない苦しみからも解放されるかも知れないとも思った。モヤモヤしたまま、私はまた、春公演のトラブルの時と同様に、稲田自身に稲田のことを決めさせたのだった。
・稲田との対決
学生演出というのは決して演出家ではなく、あくまでもそのサークルのその年の公演の演出を担当するという話で、勿論経験を積めるし、自分を試す機会にもなる。実際、熱が高じてそのまま演劇留学してしまった人もいるし、そのまま演劇の道に進む人もいるし、進路に全く関係がないとも言い切れない。けれども、飽く迄も参加者の一人であるという意識を保たずに天狗になってしまう人間も必ずいて、稲田はその代表だ。何しろ、やはり演出というと立場が強いのも事実で、演出がやりたいといった戯曲が結局は候補として有力になるのも事実だ。
演出が代わる以上、再び戯曲から決め直すことになったが、稲田は稲田で自分が興味を持った戯曲を選んできた。私は複雑だった。NNのやりたい戯曲で色々あった時に、私は自分の希望を稲田に話していて、稲田は応援してくれていた。今考えればおかしな話だが、演出案を一緒に絵に描いたりまでしていたのだ(何度も言うことになるが、戯曲を決める時点で演出の内容にまで拘るのはおかしいので、サークル関係者皆が病んでいたのかも知れない)。ところが、今度は、ノウハウもあり、ある意味人望もあり、大先輩には違いない稲田がこれという戯曲を引っ提げて、また戯曲決めに現れて、私のやってみたい戯曲など誰も見向きしなくなる。その年、現実問題としては、新入生が異常に大量に入ってきたこともあり、大人数が必要な戯曲にしかできないという巡りあわせだったので、負け戦は確定だったのだが、それでも私が提案した戯曲はやってみたいと考えていたものであり、選ばれないことを分かったうえでアピールするのは苦痛ではあったけれど作品について少しでも考えてみて欲しかったから、提案を取り下げないことにした。稲田が選んだ、翻訳が出たばかりという『ワルプルギスの夜、或いは総督の足音』はタイミングもよく、顧問の先生も後押ししていたし、出版社から直接安く買い付けて人数分を配るという稲田の行動も素晴らしく、傍から見ていれば有能な演出そのものだった。決して大天才でもなんでもいない稲田ではあったが、その陰で苦しんでいる自分の姿が、ケン・ラッセルの『マーラー』のアルマと重なって見えた。求められるのは、いつでも、彼を支えることだけ。戯曲は彼が選んだ作品に決まり、次は役決めの日程を残していたが、ここにも地獄が待ち受けていた。
まず、戯曲が稲田の希望通りに決まったことで、他の作品を希望していた私は当然喜ぶ訳ではない。子供ではないから、正々堂々選び合った結果としての祝福は示したけれど、もう私のやりたい戯曲を上演する機会はないのだな、と悲しい気持ちに浸っていた。私にだって、私の興味、私の趣味というものがある。落ち込んだり不満を自分の中で整理したり、そのくらい自由にさせてほしかったのだが、稲田は、私が悲しみに浸ることさえも許さなかった。「せっかく俺と芝居がやれるのに、違う戯曲をやりたがって、あまり嬉しそうじゃない……」というようなことを、稲田ががっかりしたように呟いたのが直後だったかどうか忘れたけれど、私をどこまで舐めていたのか、考えるだけで腸が煮えくり返る。自分という男の従属物としての「女」として以外の役割を全て剥奪して、何も考えなくなった私が、彼のやることなすこと全てを笑顔で受け入れるのがお望みだったのだろうけれども、私は生きた人間で、自分自身の意思や希望、興味、欲望、色々なものを持っている。私にだって承認欲求、自己顕示欲もある。しかし、彼にそういう個人としての私の姿は見えておらず、何か抽象的で理想的な「恋人」以外の何ものかには思えなかったらしい。モラハラ系の人は大抵、相手に自分の望む役割を押し付ける傾向があるから、それも無関係ではないのだろう。心も体も俺に捧げて欲しい、俺のためだけに存在していてほしい、というエゴに自分自身で気づこうとしない罪深さたるや、恐ろしいものである。
しかし、結果は結果。受け入れなくてはならない。腹を括って戯曲を読み込み、私がやりたいのはどの役だろう?と、一応役者をやる前提で戯曲を読み進めた。
・ワルプルギスの夜、或いは総督の足音
稲田への不服は別として、この戯曲自体は大変面白いもので、これを上演出来たのは良いことではあったと思う(が、よくある、結果的に良いものが生まれたから、それまでの苦しみもぜーんぶチャラ!という雑な論法に屈する気はない。良い小説や映画がそこから生まれたからといって、二つの大戦はなかったほうが良いに決まっている)。
例えば、モスクワのユーゴ・ザーパド劇場では立派なレパートリーになっていて、留学中見に行ったが、流石に本場というのもあるかも知れないが、エネルギッシュでもあり退廃的でもあり、これは本当にすごかった。逆に、自分の経験がなければこの芝居をわざわざ選んで観に行かなかったかも知れないから、そういう意味では必要な体験だったかも知れない。モスクワに行く人がいれば、コロナの収束次第ではあるが、いつか……いつか、鑑賞してみてほしい。
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