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「宗教2世」だった私が、本当のしあわせをつかむまで

私は、元「宗教2世」だ。

あくまで「元」であることを強調しておく。
現役ではないので、誤解されないようお願いしたい。

「あの世界」から完全に離れて、すでに25年が経つ。

私の両親は、とある新興宗教の信者だった。
しかも、それぞれ異なる宗教に入信していた。

……なんて、漫画みたいでしょ?
いや。漫画でもこんなとんでもない設定、聞いたことないか。

いまとなっては笑い話だ。
こんなふうに笑って話せるのは、父も母も、もうこの世にはいないから。

私をこの世に生んでくれた親には、心から感謝している。
両親がいなくなってしまったことはもちろん淋しい。その喪失感は半端なく、心身ともに正常運転できるようになるまでには相当の時間を要した。

だがどこかで、安堵している自分もいた。

私の手足に重くのしかかっていた見えない枷は、すべて外された。
これでやっと自由に、本当にやりたかったことができる!

そして私は、2023年からnoteをメインに執筆活動を開始。
Amazonが提供する電子書籍サービスのKindleで『アスペルガーな私のやらかし人生』という作品を出版し、個人作家としてデビューを果たした。

そして、ついに……
この「禁断のテーマ」に、触れるときがきた。

葬り去ってしまいたい過去のはずなのに、どうしてわざわざ、あの暗黒の四半世紀を穿り返すようなことをしようというのか。正気か、私。

何度も何度も、自問自答した。

書かずにいられるのであれば、書きたくはない。
なのにどうして、書かずにはいられないんだろう。

いつか書きたい。
いや、書かねばならない。

そんな使命感のようなものが、私を駆り立てる。

きっと、私がもの書きとして生きていくうえで、これは避けては通れない道なのだ。

***

私は、7人家族だった。
両親と私と、妹が4人いた。

母は寝込んでばかりで、朝はまず起きてこない。
朝食の用意をしてもらった記憶が、ほとんどないのだ。
正月だけはお雑煮をつくってくれて、学校行事で必要になったときにはお弁当をつくってくれるけど、普段はまったく何もしない人。

頭や首や肩や腰や、いつもどこかしらが痛いと言って、薬を飲んでずっと横になっていた。顔色も悪かった。
毎日のようにマッサージもさせられた。

母が宗教にハマり出したのは、私が中学1年生のころ。
寝込んでばかりいた母が、ちゃんと起きて、いそいそとどこかへ出かけるようになった。

なんだか様子が変だな、とは思っていた。
しばらくして、母から衝撃的な告白が。

「胃が痛くてがんセンターに行ったら、末期の胃がんで余命半年と言われたの。半信半疑だったけど、藁にもすがる思いで信仰を始めてみたら、握りこぶし大くらいの血の塊を吐いたのよ。気になってもう一度がんセンターに行って検査してもらったら、『胃がんが消えている』って言われたの。お医者さんも『信じられない』って言ってたわ」

病院に行かず、薬を飲まずに、病気が治るのだという。

「そんな不思議な力があるんだね」

こんな突拍子もない話を、当時の私は間に受け、鵜呑みにしてしまった。
私は幼すぎた。「疑う」ということをまったく知らなかったのだ。

困ったことに、それを信じたのは私だけではなかった。
家族全員、誰ひとりとして「それはおかしい」と思うことなく、母の話を素直に受け入れてしまったのだ。

母に言われるまま、私や妹たちも入信することになった。
父はそのときすでに別の信仰をしていたのだが、母の説得により脱会し、母の勧める宗教に入信。これで我が家は一家入信となった。

「お母さんが機嫌よくやってるから、まぁいいか」

そんな想いで、なんとなく自分もやっていた。
それで家族が仲良くいられるなら、それでもいいかと思っていた。
だけど、その考えがよくなかった。

***

23歳のころ、単身で大阪へ。
信仰はなんとなく続けていた。
母の機嫌を損ねないようにと。

月に数回は集会に出席する必要があったのだが、その日にバイトがありどうしても都合がつけられないときがあった。
母に事情を説明しても「祈ればなんとかなる」と言うばかり。シフトを変更してもらえないか、ダメもとで店長に交渉してみた結果、見事にバイトをクビになった。当然か。


25歳のころ。
ある友人との出会いが、私の運命を大きく変えることになった。

話の流れで、親が宗教をやっていることを彼に話すと、
「なんでそれをもっと早く言わんねん!」と怒られた。
その後のリアクションは、これまでの他の誰とも違っていた。

「マジか……それは難儀やな」

そうつぶやき、頭ごなしに論破するのではなく、実に論理的に、優しく易しく私を諭してくれた。

「それはおかしいやろ」
「そんなこと、絶対ありえへんから」

論理的な話は大好きだ。
「なるほど……。たしかに。やっぱりそうだよね!」

自分の頭のなかに存在していた、複雑に絡みあってどうやっても解けなかった糸が、少しずつほぐれていく。

だって、よくよく考えてみて。

私も父も妹たちも、誰もその「現場」を見ていない。
病院に付き添ったわけでも、医師の診断書を見せてもらったわけでもない。
もちろん、血を吐いたところも見ていない。
つまり、母の発言には何ひとつ証拠も根拠もないのだ。

……ってことは、あれはぜんぶ芝居か。
母の作り話だった、ってことか。

そう考えれば、すべて辻褄が合うし、合点がいく。
よくよく考えればすぐにわかるそんな簡単なことに、当時は気づけなかった。なんてことだ。私は愕然とした。

「嘘をつくな」って、私には口うるさく言ってたくせに。
嘘ばっかりやん!

もしかしたら、「作り話」ではなく母の「妄想」だったのかもしれない。

母はもともと、明るく社交的でひょうきんな人だった。
しかし、情緒不安定な人でもあって、昔から躁鬱っぽい傾向があった。

発達障害のある私に手を焼いていたのは申し訳ないと思うが、毎日のようにヒステリックに怒鳴られ、手を上げられたことも数えきれないほどある。

そして、毎日のように「死にたい、早く死にたい」とこぼし、昼間から浴びるほどビールを飲むような人だった。
「これがお母さんのごはん」などとのたまいながら。

こうして、いとも簡単に私の呪縛は解かれた。

それほど洗脳されていなかったのが幸いだった。
のめり込むことはなく、真面目な信者ではなかった。
どちらかというと面倒くさかった。
それがずっとストレスになっていた。

誰かを勧誘するなんて、私にはできなかった。
誰ひとりとして入信させなかったことが、せめてもの救いだ。

不快な思いをさせた人たちには、本当に申し訳なかったと思っている。
もしもう一度、会うことができたなら、そのときにはきちんと謝りたい。


ほどなくして、訳あって仕事と住む場所を失った私は、福岡にある実家に戻った。
だが、ほんの数日で、大阪に戻ると決めた。

ここにはいられない。
ここにいたら、宗教から離れられない。

何も告げず、家族が寝ている間に私はひとり家を出た。

残してきた妹たちに対して、後ろめたさがないと言ったら嘘になる。
長女のくせに真っ先に家を出て、私だけ「そこ」からさっさと逃げた。
妹たちには、きっとそう思われているはず。

だけど、自分を守るにはこうするしかなかった。
どうしようにも、他に術がなかったのだ。

***

それから、母の宗教への傾倒はひどくエスカレートしていく。
生活費のほとんどを教団へ注ぎ込み、生活が困窮。
妹は生活費を稼ぐためにバイトに明け暮れ、無理を続けた結果、体調を崩して倒れた。そうして妹は、子どもを産めない身体になってしまった。

そういう事態に陥ってもなお、信仰でなんとかしようとしていたらしい母は、娘の面倒を見ようともしなかった。
妹は、母の実家に身を寄せ、看病をしてもらったそうだ。
このころから、母と親戚との関係も悪化していった。

バイトだけでは生活費を賄えず、入院費用や治療費もかさみ、多額の借金を抱えることになった妹は、父と母と妹2人に対して裁判を起こした。
その結果、分担して借金返済をすることになった。

その後、両親は離婚。
私はそれを、父からの事後報告を受けて知った。
「お父さんとお母さん、離婚したばい」
深刻そうな雰囲気などなく、父はサラッとそう言った。

離婚すれば、生活保護を受けられる。
そのほうが、借金も返済しやすくなるし生活も楽になるから。
という考えからだった。

ずっと後になって知ったことだが、「娘が5人とも自立したら再婚しよう」とふたりで約束していたらしい。

待ち望んでいた、うれしい報告もあった。
「みんな、宗教やめたばい」

しかし、その直後の言葉に耳を疑った。
「お父さんは、前の宗教に戻ったよ」
「はぁ!?」

父の話によれば、実妹が亡くなり、その遺骨を引き取るために、やむなく再入信したのだという。
父の妹は父と同じ宗教の信者だった。それが原因で離婚に至り、二人の娘がいるが縁を切られたという。娘さんたちは、母親の遺骨を引き取ることを頑として拒否したらしい。「宗教にはかかわりたくない」と。だから父が代わりに遺骨を引き取り、宗教にも入り直した……そんな話だった。

お父さん、あんたは大バカだよ。
実妹を大事に思う気持ちはわかるけど、やりかたが間違ってるよ。

それに引き換え、娘さんたちは偉いなと思った。
きっと、つらい決断だったろうと思う。だけど、自分たちの意思を決して曲げなかった。
私たち姉妹も、それくらい本気でやらなきゃいけなかったのに。

***

それから数年が経ち、私はIT業界へ転職し仕事に励んでいた。

私は父とだけ、たまに連絡を取り合っていた。
ある日、携帯電話に父からのメールが届いていた。
その件名が目に飛び込んできて、私は凍りつく。

「お母さんが自殺」

それだけ書いてあって、衝撃と狼狽とで、私はパニックになった。

いま、いったいどういう状況なのか?
無事なのか、どうなのか?

さすがにいくら父でも、本当に緊急事態であればメールで連絡をよこすはずがないだろう。

心を落ち着けてから父に電話して事情を聞き、未遂で済んだと知って安心した。
翌月、母を見舞うために帰省。15年ぶりの再会を果たした。

「お母さん、こんなになっちゃった」

母のその言葉が、悲しかった。
首に巻かれたコルセットがとても痛々しく、小柄な母がさらにちいさく見えた。

「お母さん、『自殺なんかしたら絶対許さない』って、私にそう言ってたよね? なんでそんなことしたの?」
と聞くと、母が力なく答える。
「だって、苦しいんだもん」

頚椎ヘルニアや大腸がんといった大病を次々に患い、その影響もあってか、うつ症状がひどくなり入退院を繰り返していた母。後に、うつ病ではなく統合失調症だったことが判明する。

病院側の計らいで、規定よりかなり長めの面会時間を許可してくれた。
15年分の、積もりに積もった想いを、ふたりで話した。

それが、母と会った最後になった。


それから4か月後の、春の日の朝。
私は出張で東京にいた。

宿泊していた蒲田のビジネスホテルを出て、新宿に向かう電車をホームで待っていたそのとき、携帯電話のバイブレーションが鳴った。

知らない番号からの着信だった。
「092」で始まる番号……ってことは福岡?
だけど身に覚えがない。

いったん無視して電車に乗った。
ほどなくして、ふたたび携帯電話が鳴った。今度はメールだ。
四女からだった。

「ウソ……」

思わず大きな声が漏れた。
他の乗客の視線が、私に集まる。

その画面に映されていた文字に、私は固まった。

「お母さんが今朝 亡くなった」

亡くなった?
お母さんが?
今朝?

えっ、いったいどういうこと!?

一瞬にして、頭が混乱する。

まさか……自ら命を絶ったとかじゃないよね!?
「二度とそんなことしないでね」って……お母さん、私と約束したよね!?

状態が良くなって退院したばかりだと聞いていたのに。
いったい、何があったのか。
母と対面するまで、不安で怖くて仕方なかった。

荷物を取りに大阪へ戻り、それから福岡へ向かった。

母は、奥の部屋に横たわっていた。
4か月前に会ったときと、同じ服を着て。
自殺じゃなかった、よかった……。
それがわかっただけで、私はうれしかった。

葬儀が終わり、みんなで遺品整理をした。
教団からもらった品物が、そこかしこに残っていたことが引っかかった。いまだに大事に使っていたなんて。本当に完全に抜けていたのだろうか、という疑問が残る。

常に持ち歩いていた手帳やメモ帳も、ご丁寧にポーチの中にきれいにまとめて残してあった。
やっぱりまだ、未練があったのだろうか。

それからしばらくの間、私は死んでるように生きていた。
人生で初めて味わう、大きな大きな喪失感。
母を思い出しては、涙が出てくる。毎日それの繰り返し。

お母さんのことが、私はこんなに大好きだったんだ。
母がこの世からいなくなって、初めてわかったことだった。

***

父がやっていた宗教では、信者の子どもは自動的に信者として扱われることになるらしい。
それを知ったのは、つい最近のことだ。

私は生まれた時点で、自動的に「宗教2世」になったというわけだ。とんでもなく迷惑な話だ。望んだわけでもないのに。

私の自宅マンションのポストに、その教団の機関紙を勝手に入れられたことがある。
私に無断で私の情報を流したという事実にたまらなく腹が立ったし、恐ろしくもあった。

父に電話して怒鳴りつけると、淡々と
「自分で言えばいいやないか」などとぬかす。
そんなことできるか!!!

この件で、警察や弁護士に相談もした。
だけど、「親子関係のことだから」といってまともに取り合ってはくれない。

そこで、住んでいるマンションの大家さんに協力をお願いし、いますぐ止めるよう父に電話をかけてもらった。
私は傍で聞いていたけど、それはそれは○クザさんばりにコワい話しぶりだった。父もかなりビビっていたようだった。

それが効いたのか、ほどなくして機関紙はストップした。

このままでは、正常な親子関係ではいられない。
その意思表示をするために、除籍もした。

***

父も高齢になり、70歳を過ぎたころ、膀胱にがんが見つかった。
手術をして、予後は良好だった。しかし、数年後に転移した。

父から届いたショートメール。
手術費用を工面してほしいと懇願するメールだった。
「これが最後の手術だから」「手術を受けてちゃんと治して、仕事をして返すから」と。

70歳を過ぎても電気工事士として現役で働き続けていた父だったが、病気をしてからは仕事がままならなくなり、収入が激減したという。
切羽詰まっている状況が、手に取るようにわかった。
助けてあげられるのなら、助けてあげたい。
だけど……それはできない。

これは、最後の賭けだ。
これで宗教をやめてくれたら……その一心だった。

私は心を鬼にして返信した。

「あそこの教団に流してるお金があるなら、それを手術費用に充てればいいじゃない。お父さんがあそこをやめない限り、支援することはできません」

「死ぬまで続けるの?」
文字どおり、父は死ぬまで続けた。
娘より、自分の命より、宗教をとったのだ。

やめさせることができなかった。
それが悔しい。
だがもう、私にはどうしようもない。

***

ある日の夜、四女から突然のショートメール。

「お父さん、もう最期のお別れが近づいてきよる」
「今日か明日くらいに来れたりする?」

すぐに四女に電話して、状況を聞く。
電話を切った後、軽くパニックになりながら荷物をまとめた。

翌日、新幹線で博多に向かう途中、妹からのメール。

「お父さん呼吸してない」

「お父さんに、私が着くまでもう少しがんばってって伝えて!!!」
そう返した。

お願い、もう少し。もう少しだけ……。
まだちゃんと話もできていないのに。
こんなふうに終わるなんて、いやだ。

それから20分ほど経ち、再び妹から。

「もう息引き取った」

私の願いは、届かなかった。
父が、そう望んだのかもしれない。
私には来てほしくなかったのかな。

私の気持ちは、ぷつんと切れた。
もう急ぐ理由もなくなった。
父はもうこの世にはいないのに、なのに私はなぜ、いったいどこに向かおうとしているのだろう。

私は体調を崩し、2か月ほど前から休職中だった。
少しずつ状態が上向きになってきていた矢先の出来事。
心身が万全でない状態で、この数日間は非常にキツかった。

***

末期がんで、緩和ケア病棟に入院したばかりだったという父。
病院に到着し、スタッフの方に案内されて、父のいる病室へと向かう。

「こちらです」

ベッドに横たわっている父が見える。

「お父さん……!」

5年ぶりの再会が、こんなカタチになるなんて。
あのときは、あんなに元気だったのに。こんなのウソでしょ。

「ごめん、お父さん、ごめん……ごめんね……」

間に合わなかったから「ごめん」?
助けてあげられなかったから「ごめん」?

いったい何に対しての「ごめん」だったのだろう。
だけど、止められなかった。

父に近づき、掛けられている毛布をめくってみると、信じられないくらいに痩せ細った身体。

これが、お父さん?
あんなに筋肉質でカッコいい体つきをしていたお父さんが、こんなになるの?

その手足をさする。涙があふれ出る。止まらない。

前月に新型コロナに感染し、そのせいで食事がまともにとれなくなってから一気に弱っていったらしい。
しかも、同室になった患者からうつされたのだという。

どうして。
よりによって。

コロナがなければ、もう少しだけ長く、生きられただろうに。
コロナの野郎。私はお前を許さない。

介護スタッフさんに支援していただき、私と四女で、沐浴をしてあげた。
湯灌ともいうらしい。

温かいお風呂に横たえられた、父の亡骸。
ガーゼを手に、その身体を丁寧に撫でていく。
お湯に浸かっているせいか、その身体はあたたかくて、やわらかくて。
まるでまだ生きているかのような感触を、私に与えた。

「お父さん、お風呂で寝ちゃダメだよ。起きてよ」
そんな声をかけてしまいたくなった。

この人は確かに、数時間前まで生きていたんだな。
だけどもう、その目が開かれることもないんだ。

その事実を目の前に突きつけられた。
父の身体を拭きながらそれと向き合い、私はゆっくりと受け入れようとしていた。


葬儀の日は、大型台風が九州地方に接近していた。
そのため、葬儀は予定より2時間ほど前倒しされることになった。

待つのが大嫌いで、異常なくらいにせっかちだった父。
なんとも、いかにも父らしいなと思った。
最後の別れを惜しむ時間を短縮されて、さすがに笑えなかったけど。

葬儀が始まる直前、父がいつも持ち歩いていたポーチが目に入った。
そのなかにメモを見つけた。何気なくそれを開く。
そこに書かれていた文字は、私を一瞬のうちにフリーズさせた。

5人の娘の名前と、住所が書かれてある。
おそらくこれは、教団に渡すためのメモなのだろう。
普段より綺麗めの、丁寧な父の文字。

長女である私の情報はいちばん上に書かれていて、そこに赤字でご丁寧に書かれていたのは『絶縁』の二文字。
その隣には『25年』と。

お父さんのなかで、私とはもう絶縁したことになってたの……!?
しかも25年って、どういう意味……!?

頭のなかに、いろんな考えがぐるぐると駆けめぐる。
だが、妹たちに気づかれたくないから、ここで考えているヒマはない。
私はそれを写真に収めて、メモをポーチに戻した。

天気予報では、台風の影響で荒天になると言っていたはずなのに、斎場に到着したらウソみたいな晴天。
窓から差し込む、太陽の陽射しがまぶしかった。

え、雨は?
風はいったいどこへいったの?

母のときには、しとしとと雨が降っていたっけ。
それとは真逆の展開になって、本当に、最後までお父さんらしいや。
メンタルがもう少し元気だったら、笑えてたかもしれないのに。

私はただただ、疲れきっていた。
斎場内を無邪気に走り回る元気な姪っ子が、ちょっとだけ鬱陶しかった。

***

父の葬儀が終わって、大阪に帰る前の日に、30年ぶりに高校時代の恩師と話す機会があった。

高校時代、私は不登校児だった。ある日突然、学校に行けなくなった。というより「行かなくなった」というのが正しいかもしれない。
出席日数ギリギリでなんとか卒業したのだが、そのときの担任の先生には本当にめちゃくちゃお世話になった。

30年前、「あなたは作家になりなさい!」と誰よりも強く勧めてくれたのが、この先生だった。まさに、私の恩師だ。

先生は、私の家族が信仰をしていることを知っている。
集会に出席するために、たびたび学校を休んでいたから。

あのころの話を、いろいろ聞かせてくれた先生。

「僕ね、一度だけ、怒ったことがあるの。あなたのお母さんを」
「えっ……そうなんですか!?」

「『熱があるから休みます』ってお母さんから連絡もらって、気になって様子を見に行ったのよ。そしたら、あなたがベッドで熱にうなされてて。おでこに触れたらめちゃくちゃ高熱で。僕が声をかけたら『大丈夫です。明日は行きます』って、生気のない青白い顔して言うのよ」
「そんなことありましたっけ? 私、まったく覚えてないです」
身に覚えのない話に、私は心底驚いた。
先生は、何度か私の家に足を運んでくれたが、その話はまったく記憶になかったから。

「そりゃそうだよ。あなた、熱にうなされててフラフラだったんだから」
先生は続ける。

「とても腹が立ってね。我慢ができなくなって、それでお母さんを怒ったんだよ。『僕が病院に連れて行きます!』って、喉から出かかった。だけど、お母さんには信仰があって、お母さんなりに考えがあってそうしてるわけだから、赤の他人の僕が勝手なことできないじゃない。どうしてあげることもできなくて、あなたが本当にかわいそうでね……」

私のことを、そこまで真剣に考えていてくれたなんて。

「17歳とか18歳って、まだ子どもだもんね。親元にいて、親の言うとおりにしないと生きていけないじゃない。自分でどうこうしたくても、まだその力がないから」

「だけど、大人になって自立して、自分の意思でお母さんたちから離れて、やっと解放されたんだね。妹さんたちとのことは仕方ないよ。あなたのことを知らないから。だけど、あなたはそれでよかったんだよ。じゃないと、みんなダメになってたよ」

先生のおっしゃるとおりだ。
妹たちには悪いが、本当に実家を出てよかったと思う。
そうでなければ、私はまともに生きてこれなかったと思う。

「僕はね、あなたはそこまで真剣に信仰してるとは思ってなかったよ。自分なりに何か考えがあってやってるんだろうなって」
「私、そんなふうに見えてました?」
「うん、そんな感じがしてた」

あぁ、わかってくれる人がいた。ここにちゃんと。

「僕ね、あなたは作家になると思ってた。いまからでも、書いてみたら? 自分のこととか、お母さんたちとのこととか。日記みたいな感じでもいいから、何か書いてみたらいいんじゃない?」

そうだ、書こう。
両親がこの世に存在しなくなったいま、もう誰にも遠慮することはないのだから。
それから半年ほどが経ったころ、私は執筆活動を開始した。

***

結局、私たち家族は宗教に振り回され、崩壊した。
父と母は、宗教で己の身を滅ぼし、命を縮める結果になった。

この世に神様なんかいない。
本当に神様がいるのなら、こんな世界を創るはずがないから。

私たち家族をこんな目に遭わせた宗教を憎んでいる。
だけど、父と母のことは憎んではいない。

嫌いになんか、なれるわけがないんだ。
好きだからこそ、許せないんだ。

父と母がいなければ、私はこの世に存在しなかった。
発達障害があって手のかかる私を、ここまで育ててくれた。感謝しかない。
そしていま、しあわせを噛みしめて生きている。

だけど、もし生まれ変われるとしたら、来世では宗教とは無縁の人生を送りたい。
家族みんな仲良く、健康で、しあわせに暮らしたい。

もし神様とやらが存在するのなら、私のささやかな願いを、きっと聞いてくれるはずだよね?


宗教はもちろん、スピリチュアル・占い・風水・・・
私は、そういったものに頼らない人生を歩む。

科学で説明のつくものを除いて、目に見えないものを、私は一切信じないし、私には必要ない。

そうやって生きていくと決めてから、ストレスが激減し、ずいぶん楽に生きられるようになった。

自分の人生は、自分で切り拓く。
自分をしあわせにできるのは他でもない、自分自身なのだから。


最後に。

ここに書いたことはすべて、あくまで私の体験から派生した思想・持論だ。
個人の思想や特定の団体を批判するものではないことを、強く申し添えておく。

そういうものを信じている人を頭から否定するわけではない。
ただ、誤った信仰は身を滅ぼすということを理解してほしい。
自分自身だけではなく、家族も友人も、お金も時間も、大切なものを何もかも失う危険性があるのだということを。

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