自己分析と心の琴線

子どもの小学校へ、展覧会を観に行った。

どの学年も私たちが子どもだった頃よりずっと個性的で素敵な作品ばかりだったけれど、とりわけ気に入ったのは体育館の舞台裏を使った"光の道"。
暗幕で覆った舞台裏に、色とりどりの光の花が輝いていた。

案内が少し足りなかったこともあって、その場所を観にくる人がいなかったせいか、しばらく独りきりで小さなイルミネーションを独り占め出来た。
自宅近くの商業施設はイルミネーションで眩し過ぎ、私はあまり好きではないのだけれど、それとは違った小さくて優しい瞬きは、子供たちの純粋さと未来への希望を表しているようで、いっとき癒された。


それともう一つは、"心の風景"という作品。
嬉しい、楽しい、悲しみ、怒り、色々なテーマをそれぞれが選んで、色も形もフリーで描いた抽象画のような作品で、その表現力に圧倒された。

心の風景なんて大人でもなかなか表現が難しいと思うのだけれど、こんなに難しいテーマを子どもが扱うとこんなに素直に、大人がテクニックに走りそうな表現を超えるようなものが描けるのか、と。
自分の心象風景を素直に絵で表現することは、いずれ自己分析や自分を客観的に見る必要が出た時に生きてくるはず、と子どもたちの可能性を感じた。


先日、とあるメディアの女性向けサイトの、来年度のコンセプトとフォーカスポイントを聞いたのだけれど、相変わらずどの世代でも自分探しや自己の表現ということに悩み迷っているということがフォーカスされていて、大人たち大丈夫?!と正直危機感を覚えた。

"自分探し"なんて、外に求めていたらいつまで経っても見つからないのではないか?
今の自分を客観的に見て、自分の中の多面性と向き合わない限り、自分自身が自分で分からないという迷路からは抜け出せないと思う。

きちんと自分のことが見えたなら、きっと就職活動がうまく行かなかったとしても、片思いが実らなくても、『ああ、自分とは合わなかっただけなんだ』と冷静に考えられる。
どんなキャリアを積むのか、子どもを産むか産まないか、悩みながらも自分なりに後悔のない選択が出来る。

もちろん、入りたかった企業に入れないのは多少がっかりもするし、好きな人に選んで貰えなければ泣きたくなる気持ちは良く分かる。
選択しなかったその道の先を、知りたかったなという気持ちもなくは無い。
けれど、自分の軸にブレがなければ選択したことに対して後悔はしなくなる筈だと思う。

自分のことが良く見えてくると、自然と選択肢が狭まってきて、好きなものも限定的になる。
心の琴線に触れないものは、選ばなくなる。
人のことも、簡単に好きになったりしない。
それって視野が狭くなるんじゃないの?とよく聞かれるけれど、それは逆だと私は思う。

琴線に触れるものが少なくなると、琴線に触れた音を聞き逃さなくなる。
そうして拾ったものたちは、絶対に外さない自分だけの大切なものになる。

そして、余分なものを削ぎ落としてゆくと心にスペースが生まれて、新しいものを受け入れやすくなる。
心に余裕があるというのは、そういう状態のことだと思う。
余裕があるひとが素敵に見えるのは、そのスペースで色んなものを柔らかく受け止めてくれるからだ。

いつまでも自分探しをしていたら、余裕がある素敵な大人にはなれない。
私だっていまだに答えが出ない時もあるし、余裕もまだまだ足りないけれど、自分の軸はブレていないし、琴線に触れたものは拾えている、と思う。

あとはもう少しだけ、素直になれれば。
シンプルだけど、一番難しい。



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