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敢え無き今日も【エッセイ】

その日、駅前にやたらと露出が際立つキョンシーが2体出現していた。私の街はお世辞にも治安が優れているとは言えず、路地裏では公道からあぶれた若者たちがマリファナを嗜んでいる、そんな噂が伝播するようなところだ。実に情けない。
私は彼女らを見るに、「いよいよこの世の終りが近づいているな」などと考えていたのだが、そこでようやっと今日がハロウィンデーであったことを思い出す。それらは蘇ったエグめ売春婦ではなかったのだ。悪かったね。

「公道からあぶれた」旨の言葉を使ってしまったが、自身だって当てはまらないわけではない。
奇を衒うことで認められたいのか、単に協調を避けていたいのかは不明だが、もれなく私もメインロードから距離をおいてしまっている人種だ。ぞくにいう、「逆張り」である。(筆者はこれを「さかばり」と読む)

有象無象から逸脱した自分に耽っては、マイノリティである快感を謳歌する日々。鈍臭く、そして取り立てて勉強もできるわけでもない私が唯一手に入れられる役職。
逸脱を演じ続けることでしか自身を認知することができない弱さは理解のうちに置いているが、やはり、他の人間と同じような服を身に着けたりだとか、一様に聴いている曲を聞いたりだとか、そんな人生の何が楽しいのかはわからない。そうして、ますます弱い人間になっていく。

そういえば、少しばかり前に恋が終わった。美人だった。
ごめんね、あのときしっかり話せなくてごめんね、浮き立つ思いは幽体離脱のようで、その期間過ぐる今はもういよいよ亡骸になってしまうのではなかろうかというビターな思慮が深い。

芯を食った根拠はないものの、全ては突然だなと思うことが多い。
私は世界の「衝動」だ。

この雄大に流れるように、ゆったりとそして果てしなく流動していく世界で、私は単なる衝動。現象でしかない。

決して歓迎されていたわけではなく、はからずもこのグロテスクな現世に舞い降りてしまった堕天使。なんというカルマだろうか・・・
そのように書けば格好がつくのだが、言ってしまえばセックスが産んだゴミである。立派な立派なゴミである。
中学を卒業した私のキチガイマミーは高校に行くことはなかった。どこで知り合ったかも知る由がない男との間に私が発生した。コウノトリも気の毒なものである、マジで。

重い話になるのであまり多く書くつもりはないが、生まれてすぐ、捨てられた。というか、預けられた。
まだ成人もしていないキチガイマミーは無論、私を養う力はない。父親もいないようであれば、悪魔を押し付ける矛先は自然とその両親に向く。(その後、彼女は無事にセックスワーカーになったとさ!)

ただ、嬉しいことに、祖父母は私に放任の自由を与えてくれた。ほったらかしといえば、そうなのかもしれないが、教育ママゴン全盛期、時代の吹き荒れる嵐を避けて通っていた私は、間違いなく誰よりも満たされていた。

思えば、幼少期からすでにサカバリストだった。(キミたちにとってのギャクバリストだろ?あぁ!知っているさ!!!)
なんとなく、醇正の己を避けていたかった。そうして捻くれたガキになり、教師からは嫌われる可愛げのない「不出来なお子様」。

ただ、躾に関しては人一倍気難しかった、そんな気がしてやまない。
どうしてその点だけ昭和脳だったのかは今となっては解明するスベは失われてしまっている。無論、祖父母の影響なのだが。あと毎日コーヒーを飲まないと落ち着かないのも影響である。祖父が愛したアイスコーヒー、私も愛してしまうとはなあ。知っての通り出費がバカにならない、カンベンしてよ。

私の御婆様は、クソガキがマジでめちゃめちゃ嫌いだった、飲食店で騒ぐタイプの。
そうして一人の悪魔は、人様の前で騒がないよう、躾がある程度完成されるまでは家から出させてもらえなかった。軟禁というやつだ。ギャーギャーと騒ぐガキは忌み嫌われ、地獄に落ち、地獄の先で一枚づつ両手足の爪をねじり取られ、ドラム缶にぶちこまれ、それをコンクリートで固められ、最終的に東京湾(地獄に東京湾がかまえているわけもないが。)に沈められてしまうと教わった。任侠映画の見すぎだと思う。
無論、暴力もあった。あまり気持ちの良いものではないので詳しくは覚えていないが、事件性に発展するほど酷いものではない。心配しなさんな。優しいんだな、アンタ。ちゅうしていい?

いつのまにか、朝が来ればヒゲを剃るような身体にまで年齢を重ねた。何も変わらないまま。食事のときはスマートフォンをポケットの中にしまい、いただきますって2秒間、合掌する。さながら仏教的だ。神道的でもある。

矯正され、コンパクトに収まった私の何らかの容量を埋めるように、私は逆張りをする。そうして、満たされる。満たされなければ、生きていけない。なぜなら、死ぬから。なんか伝説によると、生きるのが流行っている理由はそうでないと死ぬからしい。

整っているとは言えない家庭環境のなかで、余裕のある人間になれるはずもなく、空いているスペースに耐えられない、満たされていたい。人間として弱くなっていくと相反し、その旨の欲求は強くなっていく。
羨望とも言える感情が溢れ出す、止まらない急流。
もう逆張りだけでは足りない、何たる事か、許してくれ、求めることを。

暗雲が立ち込める。

・・・おや?

逆張りの様子が・・・!



おめでとう!逆張りは「衝動」に進化した!


そうして、私は、神になった。

突拍子なくおとずれる「衝動」は、文明人としてのそれではなく、付近の人間を愉快・不愉快のどちらかにさせる全方位範囲攻撃だ。人間はそれぞれに物事を意味づけながら認知し、行動しているものの、認知のしようがないそれらの行為は、もはや人間が扱える範疇を超過した。そこが、神域だった。サンクチュアリでもあった。サンクチュアリって言いたいだけでもあった。

荒々しく巻き上がる嵐の砂漠。向かいにある小綺麗な舞台。
彼らが装着している防塵ゴーグルに対比し、私がかけてしまったのは「色眼鏡」だった。

捻くれたお子様を部分的に冷凍保存し、それを軸としてしまっている、その自認がディープだ。私の胸部を裂いてみてほしい、コールドスリープした悪魔が目を閉じているはずだ。
なにはともあれ、偏見まみれの色眼鏡により視界が良好となった私は、暴走機関車と呼ばれるべき物体となった。「衝動」の麻薬的快感は逆張りの依存のそれを遥かに凌駕しており、年々頻度が増していった。ランペイジ。


ひとりの女性がいた。先輩だった。
正確に言えばひとりではないのだが、覗いた先にある悲しいほど遠い過去は眼鏡を持ってしても、明瞭にうつることはない。
どこかの文章でつづった、その人だ。

その旨の関係だった。
私のことを好いてくれているということは、私が繕う世界ももれなく好いていると思っていた。そうではなかった。

好きではない、と言われた。
以前のような先輩と後輩の関係に戻りたい、と言われた。
別れたい、と言われた。

全ては突然だった。

きょう考えれば、もはやそれは単なる事実、必然、無是非、不可避。

そう、

「明白な天命 ー Manifesto Destiny ー 」

彼女の、その、か細くも固く鋭利な言葉は私の耳に入るやいなや、体内を駆け回り、そこにある全ての臓物をもうぐちょぐちょのぐちゃぐちゃのぎちょぎちょのけちょんけちょんに破滅に陥らせては、もう片方の耳からすっと抜け出し、静かに遠い空へと去っていった。

私は、完膚なきまでに振られたのである。

エグい量の涙が流れた。あまりにも流れたものだから、干からびかけているアラル海の生態系の消滅を食い止めることに成功し、私はプーチンから表彰された。ちなみに国民からは売国奴と蔑まれた。

許容のできないたくさんの行為は、彼女の心を著しく毀損してしまっていたのである。私はそれに気づくのが遅すぎた。幾つかの兆候は見ることができたのだろうが、あまりにも盲目で、かつ難聴だった。
つらいだけで、立派な恋だった。



休日である。
私は早朝からカジュアルなジャケットを羽織り、近所の神社に出向いた。(私はキモすぎるので冬服がスーツしかない。)
未だ完全に日が昇りきっておらず、鮮度の低い青白き空気が世界を支配していた。まるで靄のように薄くぼんやりと、かつ漠然としている不安とも言えない感情が反映されている。腕に浮かぶ静脈が普段よりグロテスクに照らされていた。


合掌。


2秒間の、合掌。


目を閉じる。


静かだ。私はそう思った。


神であるはずの自分は、沈黙を続けようと抗う。

だが、それが良かった。

不意に意識が明晰夢を超過し、幽体離脱の域に突入する。
スマートフォンという、第二の自己集中意識を覗き始める。

私の中でたくさんの過去が舞い上がっては、心拍数を加速させる。
そこには、彼女の過去もある。
だしぬけに世界でいちばん美しい女性の顔がちらつけば、白昼夢となってすぐに消えていく。
冷たいコーヒーの味を思い出す。同時に、誰かの口で語られたであろう言葉を反芻する。そこには、嬉しかったものやしんどかったもの、当時の私では理解できなかったもの。まじまじだが、声色はすべて同じだった。
そして、それらの過去および言葉たちは、すべからく、もう戻らないものでもあった。
私には、それらを何よりも大切にしたかった。
それらすべてが、感情だった。


ふたたび、自分に還ってきた。


私は、私でしかなかった。


仮装。それは、公道を歩む者にとって身近なものなのかもしれない。
私が繕っていた世界はじつにチンケなものであり、ピエロの仮装をしているようなものだったのだな、などと考えてしまった。
その二体のキョンシーに私は、間違いなく説き伏せられていた。

ブラックをいやいや飲んでくれていた過去を葬ろうと、喫茶店に入る。

レモンスカッシュを注文。

そういえば、ハロウィンデーの語源となった「サウィン」は、「夏の終わり」を意味するらしい。
この夏に学んだことといえば、私はほかの誰よりも弱い人間だったということと、レモンスカッシュは苦いということだ。カップの底に沈殿した輪切りのレモンから渋みが溶け出し、下に行けば行くほど苦味が強くなる。それはそんなに美味しいものではなかった。


そうであることによって、事実として満たされていたわけ所以。いきなりキッパリを生まれ変わるのは本当に難しく息苦しい。
抑えようと踏ん張るそれは、圧迫に耐えきれず溢れ出てしまうこともいささかだ。実に敢えの無いものだと思う。今日だってそうだった。
だとしても、生きるのが流行っている間、私は死骸にはならないだろう。
そう、それは、啓蒙が来るからだ。


未だ口に残り続けるこの苦さが、啓蒙する。

すっきりとした苦さが、啓蒙する。

えぐみのある苦さが、啓蒙する。

敢え無き今日も、啓蒙し続ける。

見えない目的地に対して、啓蒙をしてくれるのだ。


ぜんぶがぜんぶ、苦い言葉。
また、苦い過去。

私が愛したその味だから、私が愛せなかった味たちを生かしてくれる。
そのときだけは決して突然ではなく、ゆっくりとビターに染まる。

孤独な夜、私は「苦さ」で満たされた。


すべての報われなかった感情に愛を込めて。


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