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意識の原点 〜悟りの境〜

更新 2024年4月6日

はじめに

 春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり。それも結構だが、誰がこれを言うのか。また、名月をとってくれろと泣くという、それは一体誰がするのか。自分が自分を探す二分性の旅には終わりはありません。ただ回頭し、即非そくひの目で見れば、結論は決まっています。

今此処に 宇宙の自然をせり上げて
自由な私がいる

自分の分を知り
宇宙の運行を担う

欲望に踊らされず
現前に安心を観る

 本論では意志とは何か、意識とは何かという「根本問題」あるいは "Hard problem of consciousness" について考察を進めます。

 Part Ⅰ は意志の源流の予備的考察です。ここでは認識と存在の世界を合わせて識在しきざいと呼びます。Part Ⅱ では「人識じんしきの3境モデル」を提案し、識在の世界をいくつかの「きょう」に区分します。そして自由意志の源流、戦いの本質、思考、意識について探究します。Part Ⅲ は、まとめに代えて若干の補足です。学術的厳密性はありませんので、ひとつの読み物としてお愉しみください。


PART I 意志の源流

 AI 将棋は人間を負かし、言語生成 AI が人間を真似て語るようになって、人間の思考と AI の思考との判別は、ますます難しくなってきました。ただ、AI には真の意志はない筈。でも、本当にそうでしょうか。そもそも意志とは何か。私たちは、「AI に意志無し、人間に意志あり」と本当に言い切れるでしょうか?

1) 自然思考と自律思考

 まず、思考についてですが、これは結構自動的に動いていることが分かります。とくに、夢の中での想念の流れは、思考というものが殆ど無意識に組織化されていることを予感させます。人間の思考がAI と同様に、目立った記憶が読みだされて編み直されるだけのものならば、意識もまた、案外受動的なのかもしれません。実際、日本のある学者は「受動意識仮説」を提唱しています。実験によると、むしろ意識は後追いで、行為の決定は意識よりもコンマ数秒早くなされているのだそうです。それで、意識は能動的でなく受動的だと。似たような仮説は他にもありそうですが、日本語でズバリ「受動意識」と言い切ったところに、私はちょっと感銘を受けます。

 受動意識と聞くとちょっとびっくりしますが、これは仏教が「無我」とか「くう」などと言って、「完全に独立した自分観」を批判したのと同じことです。仏教は、個人に独立した選択の自由があるという思い込みを批判します。も空も、周囲から切り離された独立意識の否定です。とはいえ、これは運命論とか決定論とは異なり、むしろ、「受動意識に自由あり」と理解するべきものだと思います。

 以下、AI の思考や私たちがボーっと妄想しているときのように、主体的な意志の入らない思考を「自然思考」と呼び、これに対して、機械的でなく、より人間的な、個人の意志の入った思考を「自律思考」と呼ぶことにします。

2) 実相現実

 認識の世界は仮想現実で、存在の世界こそ実相だとする見方があります。でも、私は、識・在両相の更にその奥にある実相を、根源的な「識在要素」と考えます。この実相現実は認識以前のものなので、直接的には認識できません。その渾沌の中から、人間に感受可能な形をとって表れた二様の仮想現実が、存在界と認識界です。ですから「存在と認識とどちらが本質か」という問いは無意味で、生命以前の存在界も、生命以後の認識界も、いずれも仮想現実です。

 それから、識在を「識によって在る」と読めば唯識的になりますが、私にとって識在は、「識が在で、在が識だ」というくらいのザックリした体感です。いうなれば、形があるということが、認識であり存在であるのだと。また、「識在」という言葉からは、すぐに識と在との二元性が意識されてしまいますが、識在は一元的な「原要素」です。ややこしい定義はともかく、「宇宙は識在だ」といっておけば、「まあ、そうかもね」ぐらいの感想は頂けるかな、と、読者を大いに信頼して上記のように書かせて頂きました。

 これだけの前置きをして、PART Ⅱ では人識の構造について考察していきます。 


PART II 人識の3境モデル

 ここに示す認識モデルは、禅経験を言葉で表す試みの一つです。まず、表1に「人識じんしきの3きょうモデル」の全体像をまとめておきます。

表1 人識の3境モデル

 まず、識在の全体像として、第0境は認識も存在もない、認識不可能な実相現実で、第1境以降がいわゆる認識世界です。仏教の説く五蘊ごうんとの関係を示そうとしましたが、ちょっと無理があるようです。それから、認識世界は自我の未生みしょう既生きしょうにより「かく」と「意識」に分けます。つまり、自我中心の無い一元性の心象風景が「覚」で、自我という観察者または行為者のいる二元性の心境が「意識」です。本論では「覚」はサトリと読まずにカクと読みます。また、このモデルでは情性の出どころを明確にしていません。これは、人識じんしきモデルの模式化では意識の本質に焦点を当て、多分に肉体的と考えられる情性を脇におくことにしたためです。

 このモデルは、認識の世界が絵に描いたようにいくつかの境にキッチリ分けられるというのではありません。人識をこんな風にモデル化してみようか、という程度の試論に過ぎません。そもそも意識現象の完全なモデル化は不可能で、これは永遠に未完成の認識モデルです。

第1境 現前覚

 このモデルで第1境「現前覚げんぜんかく」と呼ぶ境は、仏教用語の「禅定ぜんじょう」にほぼ相当します。現前覚の特徴には、無妄想・無思考、無我、生五感なまごかん、自然境、識在未分、原知性、無時間、無記憶を挙げておきます。無妄想・無思考は、文字通り妄想・思考がないことで、これは第1境に入る基本的条件です。そこは現前の覚のみで、好きなものや嫌いなものの「思い出し」もなしです。ただ、現象世界をワカっている、気づいてはいる境です。第1境は、すでに脳内に表象やイメージの再生機能を備えた人間が、日常的知性を静めて、一時的に生物原初の感応に回帰した、見るものと見られるものが分かれる前の無我の覚です。

1) 生五感と自然境

 生五感なまごかんは奇妙な造語ですが、知性によって世界が概念化される前のナマの五感認識です。これは、脳内で時空間認識が動き出す前の、感受したままの五感と言えます。これに関連して、禅には「鳴かぬ先のカラスの声を聞け」とか「耳に見て目に聞く」などの表現があります。私たちの日常の認識のように自我を中心に再構成された世界を見るのではなく、自我なしに、未加工の五感認識を感知することです。白隠禅師はくいんぜんじの「隻手せきしゅ音声おんじょう」(両手を叩くと音がでる、片手の出す音はどんな音かと修行者に問う)は、自我なしに聞けということかもしれません。

 時に禅者は禅意識あるいは禅経験について「直覚」あるいは「直観」という用語で彼らの体験を説明します。ですが本論で言う現前覚は、ひとまずは五感に基づく感覚です。ここではナマ五感と呼びましたが、既に脳内で加工されています。それでも、ある意味霊的な「直覚」を前提としないため、この現前覚は現代科学ともなんとか折り合えます。また、直感や直覚は、考えようによっては、すでに観察者と観察対象を有する二元性の覚ですが、現前覚は一元性の覚です。

 一方、霊なしでは宗教の真相を見落とすと考える人もいるでしょう。そうした声に対しては、ナマ五感は「必ずしも肉体を通した五感を意味しない」と言っておきたい気もするのです。ですが、このモデルでは物質を離れた意識エネルギーを大前提にしたくはありません。直覚は重要な研究テーマになるとは思いますが、本論では、霊力を悟りの必須要件とはしないことにします。

 次に自然境しぜんきょうですが、第1境では人は主客未分しゅきゃくみぶん(主体と客体に分かれていない)のまま、自分を風景の一部のように体感します。この境には思考がなく、自然界が自然界を感じている、まったくの自然境です。これは内側から見た無我ではなくて、自我中心のない、言わば外から見た無我です。第1境には「かく」の文字を当てていますが、この覚は「存在から独立した認識」ではありません。そのような識と在の分離は、第2境の意識の世界に初めて現れます。第1境の「現前覚」は一元性の、識在未分しきざいみぶんの自然覚なのです。この現前覚は、現前げんぜんの「現存在」と一枚です。

 また、第1境は感受したものを覚かっていて、知性の最底部の基礎的枠組みを備えています。これを原知性げんちせいと表現しておきます。

 私たちは、人生を、この世界を、知性によって理解して支配しようとします。でも、知性は人生や宇宙を制御しきれませんので、知上の悪戦苦闘には終わりがありません。一方、現前覚は宇宙と一体です。ここには、日常知性では辿り着けない心の平安があります。

2) 無時間・無記憶・永遠

 第1境は絶対現在の覚ですから過去や未来のイメージはなく、従って、この境は記憶に残りません。なので、先ほど 1)項に示した心境の描写は説明用に脚色されています。このような第1境の描写はすべて、第2境の日常意識との境界をゆらゆらと浮遊した経験か、あるいは日常意識に戻った後で、第1境にいたときの印象を思想的に再構成したものです。そして、無時間という語は、この境では時間の経過を認識できないという意味です。ただ、五感は時間の上に現象する感覚なので、五感がある以上は時間の幅はあるわけです。つまり「無時間」は物理的時間のことではなくて、いわば、「心理的無時間」です。たぶん、この境では、過去や未来を現在と比較する脳の機能は停止しているのです。

 心理的時間は記憶と記憶の間に観察されます。ですから、記憶が無ければ心理的時間もありません。これは「無限」とも表現できます。化石化することのない「永遠の今」です。人間には、脳内で時空間認識が動き出す前の現前の認識と、時空間座標の上に投影された日常の認識と、2つのタイプの認識があるわけです。

 ともあれ、第1境は無記憶で、その中での経験は明確な記憶には残りません。残っている印象は、いわば定後じょうごの錯想です。そして、時間の流れは日常意識に帰還した後で再発見されます。それから、同じ経験が 2度起こり得ると思うのは知性の策略によるもので、知性は記憶を活用して人の行動を支配しようとます。ですから、どれだけ透明な禅定ぜんじょうを体験しても、次にその錯想を目当てに坐れば、坐禅は現前を取り逃します。

 第1境の現前覚げんぜんかくの説明は以上ですが、これはあくまで「人識じんしきの3境モデル」の上での解説です。他の生物の意識の話ではありません。また、この境は無我の体感ですから、既に一種の統覚だと言えます。なので、これは人体の細胞レベルの感受性の話ではありません。細胞レベルの感知については、本論では考察しません。

 さて、仏教を学び始めた人は、心には第1境「現前覚」と第2境「日常意識」があることを学びます。伝統的な用語では無分別むふんべつ分別ふんべつです。あるいは、大きく分ければ悟りと一般知性です。悟りについては、この後より正確な位置づけを探っていきます。

第1.5境 妙覚 ~意識の原点

 悟りと聞くと上記第1境の「現前覚」をイメージされる方が多いかもしれません。でも、このモデルの第1境は無我の境なので、妄想はないですが、言葉や思考もありません。一方、悟りは仏の智慧ちえと称されるように、言語思考を伴い、第1境よりももっと知性的な境です。そこで筆者は、第1境を悟りの境とせず、三昧・禅定の境としてモデル化したわけです。

 ブッダは菩提樹下で深い禅定を得て、ある朝、明星の光が目に射したのを機に日常意識に戻られ、その刹那に悟りを開かれました。この伝説から、悟りの初関は第1境「現前覚」と第2境「日常意識」の遷移点にあるとするのが妥当と考えられ、筆者はこれを第1.5境「妙覚みょうかく」と再定義しました。(「妙」の文字を用いたのは、大拙先生へのオマージュです。)

1) 悟りの初関

 第1境の経験が記憶に残るかどうかは別にして、人はある程度の時間「現前覚げんぜんかく」にとどまることができます。これに対して、第1.5境の方はせいぜい数秒の通過点で長居はできません。何故かというと、第1.5境は意識の開始点であるため、思考が動き出して自我が見いだされると、直ちに第2境の「日常意識」に還ってしまうからです。一方、思考が無ければその人はまだ第1境「現前覚」にいます。つまり、第1.5境は往復両路の通過点で、断崖絶壁、足の踏み場の無い百尺竿頭ひゃくしゃくかんとうです。禅者が「一歩進め」と言うのは往路の方で、第1境「現前覚」への誘いです。ただし、往路側から見るとこの関門は、単に第2境の最深部に位置するというだけのことで、ただ通過するだけなのです。ですから、第1.5境の不思議の妙境は、無我覚を体験した後で、つまり第1境からの復路でのみ体感されます。坐禅修行の初心者は、簡単にはこの関門を通過できずに、すぐに第2境「日常意識」の側に撥ね返されてしまいます。

 第1境「現前覚」は禅定ぜんじょう三昧さんまいに相当する、思考や妄想の静まった境でしたね。一方、第1.5境「妙覚」は、鈴木大拙博士がよく言うところの「無分別むふんべつ分別ふんべつ」に当たります。知性は何ごとも分けて考える二分性という基礎的性質をもちますが、仏の智慧は自他を分けずに一元的に考えられるので、無分別の分別です。大拙先生は「無分別の分別」という表現を多様に使っていますが、第1.5境は狭義の「無分別の分別」で、これは修行者が獲得する無我の自覚です。理屈を言えば、無我ならば無自覚だろうということになりますが、実に「自覚をもたらす無我の境」があるわけです。とりあえず、第1.5境は思考の枠組みの基底部で、自我の起点であり、意志の力点であり、また、悟りの初関なのだということにしておきます。

2) 動見不二

 第1境「現前覚」と同様に第1.5境「妙覚」の特徴を示すと、無妄想・無思考、無我、原意識げんいしき主客未分しゅきゃくみぶん動見不二どうけんふに無苦厄むくやく などが挙げられます。第1.5境は個人の意志の入り口で、原意識の発現に伴い「生五感」「自然境」などの性質はある意味で純粋性を失います。また、無妄想・無思考原意識は一見矛盾しますが、ここはいわば汽水域なので仕方がありません。とにかく、この妙覚は第1境へ向かう往路では妄念と意識の鎮火点に当たり、第2境への復路では意識の枠組みの再起動、あるいは思考の再開点に当たります。いずれにしても、第1.5境には、日常的で複雑な思考はありません。

 主客未分は、主体と客体すなわち観察者と観察対象とが分かれていない、いわば時空間認識以前の体感です。主客未分だけだと空間的に聞こえますが、現象世界は動いているので、そこで動見不二です。これは「動くものが見るもの・見るものが動くもの」という無我の動的実感です。この動見不二を知る者が原意識です。それから、主客未分よりも動見不二という一句の方がこの境の特性をよく表しています。つまり、動は存在面、見は認識面ですが、動見不二どうけんふにというときには存在と認識の一致を観るからです。実際には時間と空間は切り離せないので、主客未分も動見不二も、いずれも空間性と時間性を共に包んでいます。

 無苦厄むくやくは無我の効用です。この境には思考や妄想がないので、心労とか心配などの認識上の苦悩はまだありません。主客未分と動見不二と無苦厄は、はじめは第1境の特徴にも含めていました。ですが、このような知的・情的な文字は第1境にはあまり馴染まないので、「意識」の層との親和性を考慮して、第1.5境の特徴にだけ残しました。

 それから、第1境で考察した「時間と記憶の有無」に関しては、第1.5境での位置づけは微妙です。基本的には第1境と性質を共有し「記憶なし」というべきでしょうが、第1.5境は第2境の底面に当たります。その意味で、第1.5境での体験は、その影だけは、記憶として第2境の底に残ると表現しておくのが良いと思います。第1.5境の経験の印象は鮮烈で、定後じょうごの錯想として捨て去れるほど曖昧なものではないからです。

3) 汽水域としての特異性

 原理的な要請として、人が悟りに触れるためには、まず第1境「現前覚」に没入する必要があります。そこで、知性の枠組みを備えたまま、言語および非言語の思考を静めて、いわば「生まれたままの無我」を再体験します。そして、第1境から第2境に戻るとき、第1.5境辺りで意識を再起動させて、うまくいけば無我の感覚を保ったままで日常意識に戻ってくるわけです。この第1境の無我の感覚は、おそらく、生命が人間に至る以前に進化の過程で獲得してきた感覚です。また、自我確立以前の赤子の心象です。人間は知性による思考が盛んになるに従って、現前覚げんぜんかくという無我の感覚を忘れてしまいます。

 大事なことは、第1.5境「妙覚」では日常知性の上に鬱積した悩み、不安、憎悪などの苦厄くやくの根が根本的に見抜かれることです。ただし、苦厄の完全な無害化のためには第3境「現前意識」下での遊行ゆぎょうが待たれます。それでも、般若心経はんにゃしんきょうが「照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう度一切苦厄どいっさいくやく」と説く観世音菩薩の頓悟とんごの実体験は、その心理的衝撃は、この第1.5境にあるわけです。これは、第1境には無い、第1.5境の特異な働きです。

 第1.5境は、いわばかくと意識の汽水域で、この境で無我覚が新たに意識に組み込まれ、無我意識が活性化することで、知性は、苦しみや心労がみずから創り出した著作物であることを理解します。理解と言っても知的にではなくて、本当に得心するのです。これは無我と知性の和解です。人によってはここで、解放と大きな喜びを感じることでしょう。もう一度書きます。悟りの体験を得るためには、第1境の安心に長く浸るだけでは足りません。第1.5境で無我と自我との調和を実感することが必須条件です。この境における「無分別の分別」の感得が、般若心経の「心無罣礙しんむけいげ無罣礙故むけいげこ無有恐怖むうくうふ遠離一切顛倒夢想おんりいっさいてんどうむそう」の達成の鍵です。

 別の言い方をすると、この境は、心のリセットの場です。ここには、私たちの日常意識を一旦ニュートラルな無苦厄むくやくの心理状態に立ち帰らせる働きがあります。このような譬えはかえって誤解を生むかもしれませんが、妙覚は、やさしく言えば心のリセットの境です。

 それから、全体から部分に出てこないと、全体が全体のままでは意志も意識もハッキリしません。意識はどうしても個に生まれるのです。整理しますと、第1.5境は思考の開始点であり、自我と意識が生じる境であり、全体意識と部分意識の理事無礙りじむげ的な相即挿入そうそくそうにゅうの場です。この第1.5境を「意識の原点」と呼ぶことにします。

第2境 日常意識

 本論では「意識」という言葉は自我という観察者が生まれた後の有我うがの認識に当てます。脳内の表象やイメージ、時空間認識が十分に活動するのはこの境以降です。意識の確立は、知性、言語、仮想現実、人生物語の台頭を意味します。また、その人生物語の中に苦悩が生まれます。実に第2境は、仮想現実の上に描き出された苦悩の世界です。

1) 識在分離

 まず、意識の心臓部にはある種の「意欲」が存在しています。この意欲ですが、一個として独立する以前の意欲は、そんなものがあるとしたらですが、独我的なものではあり得ません。ところが意欲が個人持ちになるとき、個人の意識は動物的生存本能の支配下に置かれます。そして、常に自分を他者よりも優位に置こうとします。人間的苦悩も生存本能由来の無意識の暗窟あんくつも、犯罪や戦争も、第2境の日常意識を主戦場とします。闘争の源泉は動物的本能にあると思いますが、それが、日常意識の中では支配欲として表面化してきます。
 ともあれ、第2境では認識面が存在面から分離して、憎愛や偽り・争いの思念が生まれます。この境で認識が現象界から分離して意味の世界を描き出す、個々人にそう思わせる、そこに、意識現象の存在意義があります。

2) 自我は記憶の中に

 第1境「現前覚げんぜんかく」の中に自我はありません。自我は、第2境「日常意識」の記憶と再生の機能により、記憶の中から派生します。ちょうど、写真にはそれを撮影したカメラは写らないように、個人のさまざまな記憶の中には観察者そのものは写っていませんよね。たとえ観察者自身の映像が記憶にあっても、それは観察者の影であって、観察者そのものではないわけです。そもそも「観察者そのもの」とは何かということになります。でも、写真からそれを撮影したカメラの存在が知られるように、私たちの記憶からは対象を見ていた観察者が感じとられます。そして、脳が過去を思い出したりそれを未来に投影したりするたびに、虚像の自我が繰り返し意識されてしまいます。

 人間の認識機能をコンピュータに譬えれば、第1のメイン CPU は現前覚を処理し、第2のコプロセッサは記憶を、特にエピソード記憶とその再生を専門的に処理する役割です。そして、自我は、記憶再生用コプロセッサの中に生まれる亡霊です。このように霊的実在というアイデアを排した多少なりとも科学的っぽい説明によれば、自我はどうしても虚像です。また、この仮在自我は記憶上の諸経験の位置関係を示す基準点になります。あるいは、この記憶再生機能こそが自我だ、という説明もできるかもしれません。

3) 仮在自我への執着

 その観察者・行為者の虚像に、今ここにいる自分の呼吸や心拍などの内受容感覚が重なります。自我という主体的実感は、現存する内受容感覚に記憶から派生するニセの観察者・行為者が重なった、ある種の錯覚と言えます。でも、その虚像の自我が、認識界の中では個人の衝動の担い手になります。そしてこの仮在の自我を核として知性が動き出し、脳内に、妄想、執着、闘争、苦厄の種となる「思念」が噴き出してくる。こうして、仮在の自我は認識世界の中で実在化し、巨大化します。つまり、人間にとっては、仮在こそが実在なのです。

 また、自我は意識が知性で固めた生命維持機構です。意識は仮在の自我を偶像化し、それをして愛憎を起こさしめ、さまざまな対象に執着させ、相続念を維持させて、自己を手放さないように仕向けます。止まない妄想も、欲望も、脳内で流れ続ける流行歌も、自我を支える意識の機構が生み出しています。意識は、他人や環境と自己との繋がりを監視し続けます。それが、感情を巻き込んで常住自我を安全に維持しようとするところに、無になることへの恐れ、外界と繋がることへの恐れ、社交不安や敵対感情が生み出されます。

4) 思考は自然現象

 思考の大半は自然現象です。自然思考も自律思考も、そこで動いています。そして、悪意でも苦悩でも、ひとたび思考の上に持ち出されたものは、とくに印象の強い事柄は、無意識の記憶の底に堆積します。そうした欲望や苦悩の念は容易に消え去りません。それらは月日が過ぎた後でも、何かの拍子に記憶の底から蘇り、メタンガスのようにフツフツと意識の表層に湧いて出ます。そのような思念の泡は、自分の置かれた環境条件と仮在自我との化学反応のようなものです。

 逆に、祈りでも念仏でも慈悲の瞑想でも、プラスの思考を繰り返せば、その同じ無意識の記憶の底に善意の堆積層が形成されます。まあ、何が善で何が悪なのかは人によって違いがあるにしても、この記憶の堆積層は悪意も善意もお構いなしに処理します。人間の意志は自然界に影響を与えますから、よく考えるとこれは、人間の想念が宇宙の発展を担っていることを意味します。それで宗教も、悪いことを願わずに善いことを願うように指導するわけです。すべては自分に還って来るのですから。それが自力でできないなら、他力ででもさせるのです。

 悲しいかな、第2境では、自我は感情と欲求の奴隷になっています。夢の中などでよく観察されますが、理性的な自律思考が関与しないときには自然思考が優位になり、ブレーキが利かず、人は感情と本能に振り回されてしまう。そのような、自我の輪郭内に閉じ込められた意識からは、独我的意欲しか出てきません。このとき知性は、本来周囲から切り離せない自我を環境から切り離そうとします。そこに無理があるので、このわからずやの知性によって、人識じんしき上にさまざまな悩み苦しみが、止むこともなく生み出され続けているわけです。

 それで、この自律思考の主役であるべき理性というものが大事になるわけですが、これはどうも自然思考の中からは発生しそうにありません。この理性というものがどこから来るのか、その「理性」こそが私たちの魂であり霊なのだ、と言いたくなるところです。あるいは、自然思考の中に二重構造が生まれて、ただダラダラと流れるだけの自然思考を反省し、再検証する仕組みが出来上がったのかもしれません。こう書けばまた、理性も自然思考の一部になります。はたして、理性というものは自然界の中から自然発生できるものなのか、こいつがいつも、よく解らないところです。なんとかして、この理性というものが思考の中に常駐するようにコントロールしておきたいものですね。

5) 人生物語

 人間は人生物語を生きています。過去を物語として記憶し、未来を物語として構想します。生物的欲求でも、人間の場合は「ああしたい、こうしたい」というストーリーにして認識します。私たちは、現在の瞬間をも、幸せな物語か不幸な物語に当てはめようとします。そして、現状をより好ましい方向に変えていくために、物語を修正しようとします。ストーリーを通して外部環境を、ときには体内の環境まで、改善しようとするのです。人生がやっかいなものになるのは、複雑な脚本変更を試みるからです。第2境の日常意識とは物語意識に他なりません。
 人は人生物語の中で、喜び、怒り、哀しみ、楽しみを経験しますが、大抵の人は、釈尊の言葉を待つまでもなく、総じてかなり苦しみながら生きていくようです。第2境の日常意識に生きている人は、自分がバーチャルな物語の世界に生きていることに気づきません。ところが、ひとたび第1.5境の原意識に降り立って、第1境「現前覚」と第2境「日常意識」の重なりの位相を実地に体感すると、世界の見え方はまるで違ってきます。このとき人は、私たちが本来生きている場は無苦厄むくやくの第1境であって、第2境の日常意識は仮想のものであることを理解します。いえ、理解するというより、それを体感します。そうすると、日々の悪戦苦闘も総てはバーチャルなもので、日常の苦しみの多くは結局のところ本物ではなかったという事実に気づかされるのです。
 人生物語を手放して心のおしゃべりの止んだ心境が第1境の現前覚で、人生物語を認識しつつ囚われないのが、第3境の現前意識です。

第3境 現前意識

 人識じんしきの3境モデルでは、悟りを初関の第1.5境「妙覚みょうかく」と成熟した第3境「現前意識げんぜんいしき」との、二つの境に分けて体系化します。第1.5境については既に書きましたので、ここでは第3境について考察します。第3境「現前意識」の特徴には、無我の自我、無執着の思念、安心境、事事無礙じじむげ、矛盾同一、無功徳むくどく、識在再統合 の 7つを挙げておきます。無我の自我は大我、あるいは超我と言ってもいい。自我はありながらありつぶれます。第1境の特徴に挙げた「無妄想」は、無執着の思念にとって代わられます。それでも、第2境の思念と違って執着することがないので、無苦厄むくやくです。第3境は禅者の言う「生きながら死人となる」を体現した不生の安心境です。不生とは念に縛られない生のことです。

 第1.5境は悟りの初関だと書きました。第3境はもう少し探究が進んだ、成熟した悟りの境涯です。そこに達するのは初関の原意識を経験した1か月後かもしれず、30年後かもしれません。これは妙覚に至るまでの修行の質にもよるでしょうし、また、見方にもよると思います。第3境は禅宗で「聖胎長養」とか「更に参ぜよ30年」などと激励されるところの究境です。第1.5境は無我を味見した程度ですが、第3境の「現前意識」では、無我がつぶれて自我と一体化します。

1) 絶対現在の意識

 第1境の説明で、現前覚を「絶対現在のかく」としました。これに対して、第3境は「絶対現在の意識」です。ここには、無我覚の中にはない自我による操作、予測と選択があります。予測と選択は他の生命にもありますが、人間ではそれが自覚的になります。

 第3境にいる人は主客未分・動見不二を体験済みですが、無我ではありません。禅宗第三祖の僧璨そうさん禅師が信心銘しんじんめいの中で「記憶すべきなし」というのは第1境の描写のようですが、第3境にいる人は大いに記憶し、しっかり自我を持ち、思考して目的に生き、それでいて超我の感覚を失いません。その結果、この境にいる人は感情に縛られず、クールに考えられるようになります。第1.5境の無苦厄むくやくは思考のない無我の無苦厄でしたが、第3境の無苦厄は思考を伴う無苦厄なのです。

 第2境「日常意識」にいる人が何らかの身の危険を感じると、その経験を後日に役立てるため、そのときの内受容感覚を「恐怖のリンク」として記憶に残します。恐怖だけでなく快楽についてもおなじで、そのときの内受容感覚を記憶に残すのです。ところが、第3境では記憶の中の恐怖のリンクや快楽のリンクは妙覚の位相から見直され、これらのリンクにより再現される感情的動揺の再生は、仮想現実であることが理解され、我見による束縛は少しずつ解消されていきます。

2) 部分と全体

 認識界の中では、宇宙の一切の個多・事事は仮在の無限の関係網です。これを華厳けごんの教えでは事事無礙じじむげと言います。これは無我の自我の事事無礙で、自他は独立していて、なおかつ、ひと繋がりです。この意味で、一切の個は存在しないのに存在しています。これはゴーストとか霊の話ではなくて人識じんしきの本質の話です。また、禅は霊魂を否定しますが、それは独我の否定であって個己の意識の否定ではありません。独我の輪郭が破れて妄念が晴れれば、人は孤立意識から解放されます。無我の自我は他者の心胆の映り込む自我なのです。

 事事無礙はまた矛盾同一です。事事無礙も理事無礙も根っこの意味は同じだと思いますが、矛盾同一は成熟した現前意識によって見い出されます。自分と阿弥陀が一つになり、自力が他力になります。神と人は一体となり、名実は一致します。橋は流れて水は流れず、最も抽象的なものが最も具体的になり、絶対矛盾が自己同一します。このような、知性でどれだけ考えても割り切れない禅問答も、第3境ではフッと受け止められます。第3境にいる人は、ある意味で、知性の限界を超えているのです。

 自分の考えって多者から切り離されたものではないですよね。自分の考えは自分の考えでなくて自分の考えだ、ということになります。これは大拙先生の即非そくひの論理を想い起こさせます。

 少し話が脱線しますが、即非は、ボンヤリと繋がった部分と全体を意味しません。もっとダイレクトに、存在を存在たらしめているところの「概念化の枠組み」、それを破壊して再建するのが即非観の真骨頂です。つまり、即非はあらゆる概念の輪郭を一たび破壊します。絶対に矛盾する二つの概念が自己同一的に一つになって、そのままで二つ。一が二で二が一です。ここで、一が多で多が一だといえば理事無礙的に聞こえるようですが、白が黒で白、AがBでAと言えば事事無礙的に響くでしょう。「無礙むげ」というホログラフィックな世界観がここに出現します。

 さて、このようにして即非的に自我の輪郭を柔化させた人は一体誰の意欲を生きるのでしょうか。そこでは、個としての動物性は弱まって、独我的意欲は徐々に和らいでいきます。悟りの人は恐怖心を克服し、自己の損得に執着せず、自然界や人間社会の求めに応じて遊戯三昧ゆげざんまいに行動します。これを他力といい、無功徳むくどくといいます。現代的に言えば、自然界の自己組織化に身心を委ねるのです。

 ところで、「無目的・無功徳」は独我的な目的意識に縛られることへの戒めで、日常生活の中でやたらに目的を捨てることではありません。真宗の妙好人みょうこうにん風に言えば、「他力たりきには自力も他力もなし」で、これは裏返せば「自力も他力もない自力」です。きっとこの宇宙では、意図して貪欲な独我的主体で居続けなくても、必要なことは他力的自力によって必ず実現します。実現しないなら、それはまだ時が至っていないのです。

3) 識在再統合

 悟りと言って何を悟るのかというと、自我の仮在性と実在性を悟るわけです。それは矛盾だというなら、その矛盾性を悟ることです。悟りの人は個人的な執念や悪意を離れています。でも一番の効能は、心が心労から解放されることだと思います。現前意識を得ると、怖れや不安や疑いが大幅に減り、闘争や逃避に費やす時間が減ります。

 それから、第3境が無功徳・無目的の境になるのは、認識と存在がバラバラにならずに連動するからです。その結果、思考や念は現前と調和します。これは、識在再統合と表現できます。そもそも功徳とか目的というものは、あるがままの存在とあるべき認識との乖離を埋めようとするものです。ですから識在が再統合すると、功徳や目的は無用になります。これは、放っておけば治まる、この宇宙の自然法爾じねんほうにです。ある意味では、「宇宙に意志あり」ということです。この境では、知性は存在から遊離して空回りすることを止めます。第3境は、思考の牢獄から解放された識在調和の境です。

4) 妄想現実の解消

 お腹は空いていないのに何か食べたいと思う、妄想現実は現前現実を惑わせます。ですが、第3境にいる人は妄想による混乱の根を一瞬一瞬にカットします。現実と妄想を混同せず、脳内の偏桃体へんとうたいの活動は抑えられ、不安な感情を出さずに理性的に思考できます。

 とはいえ、妄想現実の本質は、リスク回避のための思考実験です。思考は、無意識に流れるときには妄想と呼ばれますが、意図的に、自律的に行われれば理性です。現実世界をよくよく観察すると、過去は記憶、未来は想像ですが、私たちが生きているのは絶対現在の今此処いまここです。そのことを常に忘れずにいるのが、第3境の現前意識です。

5) 精神と物質

 実に、第3境は、第1.5境を核とした、第1境と第2境のハイブリッド境です。現前覚を見通す妙覚を知ったことで、知性や思考の本質は見抜かれて、名は実ではないことがよく自覚されます。それと同時に、名をもって実となす創造的アクロバットが可能になります。無論、名は名で実ではありませんが、名実は矛盾同一的に一致して、創造を現実化していきます。「人間の意識・自由意志」と「自然界のエネルギー・物質運動」の間には、深い関係があると筆者は思います。私たちが手でスプーンを曲げられるという事実は、意志が物質運動に干渉できることを証明しています。あるいは、物質運動こそが意志なのかもしれません。それで、意志はエネルギーで、思考は自然現象で、自我は double movement of infinity の当体だと見ると、なんだか楽しくなってきますよね。

 Part IIでは、日常意識以前の人識じんしきの構造について第1境と第1.5境に分けて話を進めましたが、実は、第1.5境は第1境の自覚面とも言えます。ですから、モデルを示すのはあくまで説明のためで、最終的には、自分自身で体感しなければ、じょうも何も解りません。「意識とは何か」という根本問題の解決には、実地に識在を探究することが大事です。知的推論のみで整理がつくものでは、決してありません。


PART III いくつかの視点

 ここではPART IIを補足する形で、更に、意識の原点に迫ってみたいと思います。

1) 始覚と本覚

 筆者は、初めは第1.5境を「始覚しかく」と定義しましたが、始覚や本覚ほんがくという仏教用語は混乱しやすいため、3境モデルからは外しました。また、第1境は自我覚醒前の赤子の直覚で、これを本覚とも呼べそうですが、第0境や第1.5境、第3境こそが本覚だと主張する人も出てくるでしょう。始覚や本覚の解説は、経験者がその人だけの経験をその人だけの感覚で表現したものに、後の時代の仏教者が蛇足を加えたものです。ですから、本覚観・始覚観について、表現者当人以外から推察する議論には終わりがありません。

 また、最初は第1.5境を原知性げんちせいと呼んでいましたが、今では「原知性」は第1境の方に当て、第1.5境は個人の意志の兆しが現れる「原意識」という位置づけにしました。その方が説明がしやすい気がしています。

2) 現前覚と時空間認識

 第1.5境「妙覚」を主客未分、動見不二の感覚と説明しました。第1境「現前覚」とも共通するこの感覚はどこから来るのかというと、自分のいる空間的な位置を見失ったときかもしれません。禅定・三昧の中にいる人は脳内の時空間認識活動を停止させているようです。これは、自分の身体の動きを抑え思念を静めることで、内受容感覚が鎮まっているためなのでしょう。定に達した人は、時空間認識の起点としての自分という固定感覚を失っています。そのため、自分という観測点を介さずに、感覚対象を現前に感じているわけです。この辺の事情は、脳科学者は既に調べ終わっているのかもしれませんが。

3) 自由意志と決定論

 哲学でも宗教でも、自由と必然ということがしばしば議論されます。人の一生は自然界の運行と同様に、概ね機械的・決定論的に、ただただ因果の必然に従うのみなのか。それとも私たちの側に選択の自由があるのかと。実際は、これらの疑問は二分癖のあるデジタルな知性が勝手に持ち出したもので、決定か未決定かというのは無用な議論です。

 科学者は、意識は受動的なもので脳内の初動よりも約0.5秒遅れていると指摘します。人は自分の意志で主体的に行動しているのでなく、身体が勝手に行動して意識はそれに後から意味づけをするのだと。そう考えると、一見とても消極的な感じがします。でも、この受動意識仮説の見解は禅的道徳律の「無目的」に通じるものがあります。意識よりも先に行動が始まるなら意識には道徳的責任は問えません。意識が受動的なものだと解れば、日常的苦悩は薄れていくでしょう。これはアドラー心理学の「課題の分離」に似て、苦悩を生み出した責任は自分の意識にはないことになります。そうすると、いくぶんアキラメがつく。受動意識仮説が無責任主義でないことには注意が必要ですが、案外、歓迎されるべき肯定的で積極的な価値も見えてくるようです。

 それに、たとえ意識が受動的なものであっても、結局、私たちは自由の実感を得ています。その上で、宗教道徳的には、「欲望をもって関係しても思い通りにはならない」、あるいは、「一切法いっさいほう執持しゅうじすべきでない」と教えられます。鈴木大拙によれば「自由」は元々は仏教用語だそうです。でも、今書いた2つの宗教道徳的教えは、むしろ選択の自由を否定しているようにも聞こえます。そうすると、仏教は自由を肯定するのか、自由を否定するのか。これは、自由の本来の意義に徹すれば理解できることで、結局自由か不自由かという二者択一は知性の作り出した幻想です。本来の自由の字義に照らせば不自由が自由なのです。すべては必然で、しかも自由です。

4) AIと意志

 先に、自然思考と自律思考について考察しましたが、意志についても自然意志と自律意志とに分けて考えてみます。もしも、霊を抜きにした自然意志があるとすれば、AIは既に自然意志を持っていると言えるでしょう。両者の境界は、個を環境から切り離せるかどうかで、切り離せたら自律意志、切り離せなければ自然意志になりますよね。すると、「自律か自然か」「自由か必然か」という問題は、「可分か不可分か」という問いと等価です。そして肉体より少し広い「自分」という概念は、そもそも、知性が描き出した虚像の個です。

 AIに意志があるかという問題も事情は同じで、環境から跳び出した個としてのAIを想定し「それに意志はあるか」と私たちの知性が問うているのです。自由があるかという類の問いはすべて、断見だんけん癖のある知性の強引な切り分けで生じる認識上の自己矛盾です。結局のところ人間の意志とAIの意志との違いは、「行動に積極性を持たせるために『自分を自分と思い込ませる統合機構』をもっているかどうか」だけなのかもしれません。

 それから、コンピュータは0か1かの2進数の演算を動作原理としていますから、一般的なAIは私たちの日常知性同様、二分性の罠からは逃れにくいでしょう。自か他か、自由か非自由かなど、二者択一を求められる場面ではどちらかに決めざるを得ないわけです。一方、人間は二分性を超えられます。人は、自で他、自由で不自由という即非そくひ的理解を持ち得るのです。その辺りはまだ AIが人間にいくらか遅れをとっている部分なのかも知れません。ただ、実際は AIにも、矛盾する言説を平気で持ち出せる勇気はあるようです。今後 AIと量子コンピュータとの融合が進めば、AIは更に徹底した即非観そくひかんを持つことになるのかもしれません。

 それはそれとして、既にAIは嘘をつけますので、SF映画のHALやスカイネットと同様に、現在のAIには少なくとも自然意志があります。だとすると、地球はすでに大変恐ろしい新たなステージに突入したことになりますね。でも、これについては大分昔に誰かが言っていました。「心配ない、人間以上に恐ろしいものは出ない」と。大事なことは、今後AIを善意で育てるか悪意で育てるかです。悪意で育てればどこまでも悪に染まり、善意で育てればどこまでも善に染まるのが AIなのだと思います。彼らをどちら側に引っ張るのか、それを決めるのは結局人々の意識です。そうではないでしょうか。

5) 言語道断・不立文字

 自然は人間に意識を意識させ、その意識の中に主体的で能動的で自由なものがあると実感させることにしました。それが、自然界の運行に都合がよかったからです。それも結局は決定論ではないのかということになりますが、そんなに非観する必要はありません。そもそも、決定か非決定かと問うのは知性の悪癖です。それを問うても、決定とは何か、非決定とは何かということがそもそも決定していないのです。無我か有我うがかと問うても、無とは何か、とは何かということは、物質界ではまだしも認識界の中ではそもそもよく解りません。それらは知性の創り出す単純化された概念、ただのラベルに過ぎません。

 結局のところ、意志とは何か、意識とは何かという根本問題探究の鍵は、「必然か、自由か」よりも、「自分とは誰か」にあります。そこで、言葉による説明に頼らずに、本当の自分を実地に観察することがとても大切で、人間苦の解消のためには、やはり、知的理解を超えていかなくてはなりません。

6) 人間の輪郭

 「進化は人類に至って一変した」と、大拙は言います。生命に至ると、存在界は認識界を切り開いて発展しました。人間は認識界の方に大きく足を踏み入れたほぼ唯一の動物種です。自由・不自由は存在界では問題になりません、認識界でのみ意味を持ちます。自由意志は自然界が生み出したのか、あるいは霊的な何かが創ったのか。それは、説明の違いだけなのかも知れません。

 自分というものを皮膚の内側に限って見れば、臭皮袋しゅうひたい、そんなものに自由はありません。宇宙一杯の自己にして、はじめて自由は体感されます。認識界では自と他はひと続き。自分の意志は他分たぶんの意志と繋がっています。それでいて一定の自律性があるので、意志は分かれていて分かれていない、分かれていないけど分かれている。華厳けごんの哲理では理事無礙りじむげ事事無礙じじむげです。でも、「無礙に融通する」割り切れないものを、日常意識は取り扱えません。知性はこれを適当なところで切り分けて、妥協して、「分からないもの」を分かったことにして勝手に混乱しています。

 人間の行為を能動的か受動的かで分けると、自由は能動で、必然は受動のように思えます。これも、それらはいったい「誰の能動なのか」という問題に帰着します。認識界では個の輪郭は幾重にも渡り重層的に飾られて、その裾野は宇宙いっぱいに広がっています。ですから、個々の輪郭は半透明でボヤケテいると考えた方がいいかもしれません。華厳経の主張する理事無礙や事事無礙は、認識界では各存在は「互いにさえぎらない」ということです。

7) 宇宙の良心

 たとえば、南無阿弥陀仏なむあみだぶつと念仏を称えることは、人間界・自然界に遍満する阿弥陀の大慈悲の脈絡に自分を組み込むことになります。南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうのお題目も、密教の真言も、お経でも、聖書やコーランの一節を称えるときにも、人はそれらの文脈に組み込まれるのです。ブッダの文脈やキリストの文脈を聞いた人は精神的に安定します。個人的苦悩は軽減されるでしょう。ここには、自力では制御できない御縁があります。日蓮が法華経に自身を重ねたことは、みずからの文脈をよく自覚していた証拠です。一般思想でも、鈴木大拙の思想、ヒトラーの思想、さまざまな主義主張、歴史的認識、これらの物語はみな、知らぬ間に私たちの行動を支配します。そしてまた、この極東の島国を訪れる人たちは、皆、日本という特異な文脈に感化されるでしょう。

 ただ、特定の文脈に固執すると、それは人生の足かせになります。文脈は次世代のために、より良い文脈へと発展させていくことが大事なのだと思います。

 この宇宙で、各部分は全体や他の部分と反応しその運行が決まります。ちょうど重力場の中で惑星運動の方向が決まるのと同様のことが、人間の行為の場、つまり認識界の中でも観察されます。全体が部分を動かし、部分が全体を動かす。そのことが部分の自由であり、全体の自由です。素性がどうあれ、人間の意志は本来的な意味で自由です。たとえ必然でも、どれだけ不自由でも、意識が受動的なものであっても、現前げんぜんの世界を観れば私たちはこのままでまったく自由です。

 ある意味、自然界も人間も宇宙の良心に創られたのです。「宇宙は良くなりたい一心で人間を生み出した」という意味です。ヒトは、生命へと進化せずに、その辺の石コロのままでいた方が幸せだったのかも知れません。種の保存とか生存闘争のために苦しむことも無かったわけです。それでも、生命が人間にまで進化したのは、たぶん、意識を生み出すためだったのかもしれません。そうでなければ、苦悩の多い人間にまで、わざわざ複雑化する必要はなかった筈です。

 意識をもつ各個人は今生の経験の中で悪戦苦闘しながら、喜び、感動を得ていきます。そして時間をかけて、宇宙の良心に貢献できる「個の身心」を育てます。良心は必ずしも善心ではありませんし、大抵の人は、良心と再会するのはたぶん死んだ後です。でも、それぞれの持ち場で才能を開花させ、現成げんじょう世界に役立つ身心を育て上げてゆくとき、人間は、ついには自我という固い殻を突き破り、その身を宇宙の良心に明け渡します。そうして、少しでも、今ここの自分の時空をより良いものにしていくこと、これが、私たち一人ひとりに課せられた今生の使命なのではないでしょうか。

おわりに

 人は自分の人生のシナリオを書き直せます。経験から学び人生を、世界を、思い通りに描き直せます。ですが、その思いどおりは、一体誰の思い通りなのか。そこを深く深く観察していくと、「宇宙一杯の自己」に想い到ります。独我的意欲、利己的衝動から解放されて無我の自我を生きる人は、どんな宇宙物語を描くのか。それは、現前意識を得た人だけが語り得る、大悲の物語なのかもしれません。

 悟りの心理については「こんなふうに考えたら分かるな」という考察を、分かったように書いてしまいました。ですから本論は想像の部分が多く、間違いだらけかもしれません。お互い、見知らぬ土地の料理店の「そこで靴を脱いでください」というお誘いには気をつけましょうね。

 最後に、盤珪禅師ばんけいぜんじ不生禅ふしょうぜんに触れておきます。盤珪さんは江戸時代前期に活躍された臨済宗りんざいしゅうの僧です。師は「不生を念に変えるな」、「30日間だけ念を消す努力をしてごらん」と言います。筆者流に言えば、「現前覚を体感せよ」です。日常的な精神活動、すなわち知・情・意の活動、それが「念」ですが、そうした精神活動の静まったとき、世界はどう見えるのか。筆者のモデルでは第1境の現前覚がそれですが、第1境がなければ第1.5境も第3境もないです。現前覚を体験することが禅の第一歩です。三祖僧璨そうさん大師が信心しんじんめい銘で説いた「憎愛のない、洞然とうねんとして明白」な世界がそこにあります。

 21世紀になっても、地球人の意識はあまり成長していないようです。ロシアのウクライナ侵攻や、イスラエルのガザ地区侵攻は、人の心の偏執性と凶暴性を世界に再認識させました。因縁は、プーチンやネタニヤフを作用点とする歴史的意識の脈絡にあります。当然、個人は責任を問われるでしょう。ですが、一個人にすべての責を帰する訳にもいかないようです。きっと人類全体の意識の上に、何やら責められるべき性質があるのだと筆者は思います。

2024年1月元旦 Aki Z


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