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識在

 〜精神と物質の統一理論〜

更新 2024年4月3日

 識在を、認識と存在の二要素に分けている限り、精神と物質の本当の関係を理解することはできないと思う。鈴木大拙は、精神と物質の架け橋として「霊性」という文字を用いたが、どのような言葉を使ってみても、言葉の世界にいる限り、二分性の罠を抜け出せはしない。認識と存在とを呼び分けている限り、精神と物質を隔てる溝は決して埋まらない。そこに留まっていては、個人の意志と物質運動の間にある神妙な関係を知り尽くすことはできない。

 識在という造語は、2009年に執筆した「砂の中の仏」で、はじめて使用した。その頃から筆者は、存在と認識を二つに見るべきではないと感じていた。認識は存在を外から眺めたものでなく、存在に内在する。たとえば、物の形はまさにその物の認識面と言える。つまり、形がある、性質を有するということが、存在であり認識なのである。だから、人間が心に描く認識世界は、本来の識在要素が自発的に発展した姿なのである。

 物体が慣性の法則に従って動くのは、その物体の指向性の現れである。運動すること、あるいは存在することが、その物質の指向性なのだ。物質の指向性は、生物にも引き継がれている。たとえば、動物の生存欲求や思考力などは、脳神経系によるイメージ処理機能が備わってはいるが、根底には物質の指向性がある。だから、動物の心の「志向性」も元をたどれば、物質の「指向性」が発展したものなのだ。この宇宙では、物質運動も、人の心の働きも、自然界の「指向性」から生まれてくる。その指向性が人間に感知可能な形で現れたものが、存在と認識だ。

 物質に意志がなければ、肉体から精神は生まれ出ないだろう。たとえば、岩が打たれて凹んだら、それは、最も原始的な意味での自然の感知力である。生物のもつ感知力は、このようなところから始まったものだろう。先に、物体の運動はその物体の指向性によるものだと書いたが、ある意味、岩が崖を転げ落ちるのは岩の意志なのだ。岩は、ただ受動的に落ちるのでなく、低きを目指して、岩の指向性に沿って落ちてゆく。要するに、物質の指向性こそが、生物の意志の源なのである。

 たとえば、人間の「意志」に起因して、手が動いて、スプーンという「物体」がねじ曲がる、その間に現れる神秘のメカニズムも解明はできないだろう。精神と物質を峻別している限り、人間の意志は物質に届きはしないのだ。精神が物質を動かし、物質が精神に映り込むためには、精神と物質の統合が必要になる。アインシュタイン博士が相対性理論で時間と空間の関係を見直したように、精神と物質の関係、認識と存在の関係も、見直しが必要なのである。

 知性には、二分性の弊害が顕著に表れる。人間が戦争に明け暮れているのは、知性の二分性を放置した必然の結果だ。対立・闘争を離れるためには、知性の二分性を離れ、宇宙の本来に還る必要がある。本来に還ってみれば、結局のところ、存在が認識で、認識が存在だ。このことは前回の投稿「意識の原点」で詳しく説明した。現前覚、そこは二分対立のない不思議の境。精神と物質を隔てる壁は初めから無い。

 ひとことで言えば、本来、存在と認識はおんなじものなのだ。知性以前に立ち返って見れば、この宇宙は、人間が感知できない「識在要素」で出来ているのだ。「識在」と書けば直ちに識と在との二元性が意識されてしまうが、これは言葉の限界であり、本来の識在は、認識と存在の源、精神と物質の源の、一元的な「原要素」なのだ。そこから、人間の日常意識の上に、認識可能な形で表れた二様の仮想現実が、存在と認識なのである。

 また、認識不能な識在要素などというと疑いを持たれるだろうが、分子も原子も初めは想像の産物で、仮説に過ぎなかった。また、量子もつれなどの量子の振る舞いを見れば、物質が認識性を有すると言っても、さほど不思議はないだろう。

 それから、存在の上に認識が生まれたのか、認識の中に存在があるのか、唯物論か唯心論か、認識と存在とどちらが先かなどは、決着のつかない無駄な議論である。なぜなら、存在も認識も仮想現実であり、実相ではなく、根本は認識以前の識在要素なのだから。そして、識在要素は「空」であり、「無」であり、また「妙」である。つまり、識在は天地創造の源である。

aki.z



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