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エッセイ 時には華やかな舞台へ、思いを

 文章を書いたり、音楽を作曲したり、自身の内側にあるものを外に出して、具体的な形を与えることに喜びを見出すタイプの人が、世の中には存在します。
 例えば、私自身もその一人で、だからこそ、ここでこうやって人知れずキーボードをパチパチとやっているのですが、こういうタイプの人は往々にして、自身に注目が集まるよりも、自身の作ったものに注目が集まることを喜びます。
 いわゆるクリエイターと呼ばれる人たちは、このタイプの人が多いようで、作家や作曲家の他にも、脚本家、演出家、映画監督などが、このタイプにあてはまると思われます。
 自身の身体からは一定の隔たりがありながら、自身の分身としての一つの世界を作り上げること。そして、これを褒められることに、最高の喜びを感じる人々。
 一つの世界という事で言えば、あるいは指揮者なんかも、こちら側の住人といっていいかもしれません。

 一方で、大勢の視線を浴びる舞台に上り、自らの身体でもって世界を表現することに、替えがたい喜びを感じる人々もいます。
 目の前に現前しているこの世界と地続きのところで、この世界とは異なるもう一つの世界を、自らを媒介にして表現する人々。
 俳優や演奏家、或いはダンサーなども、それにあたることでしょう。一括りにパフォーマーとでもいっておきましょうか。

 これら演ずる人々の中でも、最近しきりに、「演技をする人々」、つまり俳優さんたちのことが気になっています。
 何か、ひときわ心を打たれた映画を見たとか、舞台を見たとか、そういうことでもないのですが、彼ら俳優という人たちの存在が、やたらと気になるのです。

 縁遠いところで活躍している人たちのことなので、全般的にあれやこれやと気になっているのですが、例えば、誰か決まったあの人の演技が気になる、ということでもなく、どちらかと言えば演技そのものと関わる漠然とした部分の方が、しきりに疑問として浮かんでくるのです。

 例えば、俳優として生きていくとはどんなものなのだろう、とか。ある時は、俳優さんの考える最高の演技とはどんなものなのだろう、とか。

 毎度毎度、昔話ばかりで恐縮なのですが、大学生の頃に受けていた講義の一つに、フランスの演劇に関しての講義がありました。
 いかにも研究者と言う印象の、少し気難しいとこのある先生の講義だったのですが、講義の内容は、毎回うんうん唸りながらも咀嚼しがいのあるものだったことを覚えています。

 その先生が、ある日、独り言にしては少し大きめの声で、ぶつぶつと、雑談を始めました。
 曰く、演技がうまいというと、こと日本ではリアルなものを指してばかり。皆、日常に近いリアルなものが、いい演技だと考えている。
 そもそも、現代的な形を具えた演劇が入って来たのは明治になってからで、その頃西欧で全盛だったリアリズムと共に入って来たものだから、演劇と言えばリアリズムという具合の風潮が、未だに定着したまんまだ。これが、現代のお茶の間にもしっかり浸透しているというのは、それはそれで面白いものだけれども、云云かんぬん。

 とても小さな声でしたが、聞かされた私にとって、それは大きな衝撃でした。私こそ、いい演技イコールリアルな演技と考えて疑わない、典型的な人間の一人だったのですから。

 それ以降、演技というものが分からなくなりました。もともと遠くにあったものが更に遠ざかっていきました。
 未だにそうです。基準がぐらぐらしたままなので、分かるはずもありません。あるのはただ、その俳優さんが好きか嫌いかくらいのもので、上手かどうかの判断はとりあえず棚上げにしています。そして、それが習慣になってから、はや二十年の時が過ぎました。

 しかし考えてみれば、俳優さんはパフォーマーにあたる訳で、それとは他のところで演出家や監督のような、いわばクリエイターにあたる役割を負った人々がいる訳です。
 演出家、監督、脚本家など、もう一つの世界を作り上げる上で、全体の管理、統制などを負っているのは、これらの人々です。
 つまり、これら監督する側の人間からオーケーが出ない限り、俳優は、役割を果たしたとは言えない訳です。
 藤原竜也が身を削りながら必死に演じたとして、蜷川幸雄からオーケーが出なければ、舞台は出来上がらないのです。おそらくそこは、双方ともに、もどかしく感じるところであったのかもしれません。

 そう考えていくと、自ずと、ある考えに至ることになります。
 いい役者とは、監督の思い描く演技を体現できる人のことであり、最高の演技とは、監督の頭の中にあるイメージそのものなのではないだろうか。

 そう考えたところで、突然、本場のキムチのことを思い出しました。
 そして、いい役者ってどんなキムチでも作れる韓国人みたいだな、とも。

 私たち日本人からすれば、本場のキムチがどんなものか、と言う疑問はとても自然な疑問のように思われるものですが、実際には色んなキムチがあり、それを時と場合によって使い分けるので、本場のキムチなんてものは実際には存在しない、ということになるそうです。

 そしてそこから言えることとして、色んなキムチをおいしく作ることが出来る人こそ、キムチ名人だ、と、そんな話を聞いたことがあります。

 韓国だとキムチになりますし、インドだとカレーということになるでしょう。その場に合わせてお好みのものをおいしく作る。この辺りが、先ほど書いた、いい役者のイメージと重なる訳です。

 役者とはキムチである、とそんな風に言い切ってしまうことはさすがにありませんが、シンプルに理解する為に、頭の中で図式化してしまっていることは、否定はしません。もちろん、おすすめもしません。

 最高の演技、理想の演技とはいかなるものか。
 問い自体が曖昧であるだけに、なかなか難しいものみたいですね。普段から演じているはずの俳優さん同士の、演技のあれこれを巡った喧嘩なんかも多い、と、ある有名な俳優さんも話していました。演技論だけが原因でもないのかもしれませんが、それぞれが理想に向かってもがいてるからこそのことだ、とは言えるかもしれません。

 役者とはキムチである。しかしまあ、言いきってみたいものです。どこか、普段経験したことのない、風変わりな快感を味わえそうな気もします。
 けったいなことを言い切ってしまうフランスの哲学者みたいでいいじゃないですか。
 ん、でも、逆ならありなのかな。キムチとは役者である。根拠はないがいける気もする。

 キムチとは役者である。おすすめはしません。

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