マザードルチェ/Necoring作

ジャンル:百合
形式:SS
制作期間:1日

________________________________

ずっと、蝉の声が聞こえている。

「ねえ、逃げちゃおうか」

8月31日。寂れた田舎の駅から徒歩5分。明日にでもガスや電気が止められそうな、オンボロアパートの2階。ギシギシと音を立てる外付けの鉄骨階段を登ってすぐの、去年から借り始めた部屋の前で彼女はうずくまっていた。
二つ年上の、そのうち通うと決めていた高校の制服からは、すらりとした裸足がのぞいていて、その白さにごくりと喉を鳴らす。重く湿り気のある黒い髪と赤く色づいた目元、血の気の失せた青い唇に、夏の暑さで茹だった頭が、驚くくらい情欲を煽られた。腹の奥底が熱を帯びて、風に煽られた彼女の髪から香る、わずかな塩素の匂いにくらりと目眩がした。

「このまま、二人で。ずっとずっと遠くまで」

いつものきれいな笑顔のまま、彼女の体が小さく震えている。
真夏の強い日差しが世界を二分するみたいに彼女を濃い影の中に呑み込んでいて、自分の前には彼女との世界を隔てる境界線があった。
越えてはならないと、警告されているかのような。
いや、きっと越えたら戻れないのだろう。
震える彼女の手を掴んで、笑いかけてしまったら。


蝉の声が聞こえている。
ずっと、頭に鳴り響いて止まない。
青い青い空が、網膜に焼き付いて、そして。

8月31日。
夏休みが、終わる。

***

ぷぎゅ、ぷぎゅ。
前を歩く彼女が歩くたびに、安っぽいプラスチックが彼女の足元で悲鳴を上げている。
裸足のまま歩き出そうとした彼女に探し与えた靴は、どれも大きさが合わなくて、仕方なく、海に行った時に買った安いサンダルを履かせることにした。
制服にサンダル。随分とチグハグな格好で、それでも彼女は楽しげに笑う。
ぽろぽろと、溢れるように歌を歌って。

「──”私は一人、On my own 彼のまぼろしを抱いてpretending he’s beside me”……」

片想いの、恋の歌。
とつとつと零れる言葉は大切に、愛しげに、それでも無慈悲に、夏のアスファルトに捨てられていく。
そういう歌だった。
密やかな、震えた声で、幸福そうな横顔で、やさしく、彼女は手放していく。

つよいひと。
強くて、聡明で、どこまでもやさしいひと。
大好きなあなたの、ほんとうのさいわいになりたかった。

「” たったひとりで、朝まで彼と歩くわAll alone, I walk with him till morning”……」

今こうして、やわらかいところを無防備に晒した彼女が、振り向きながら笑って、その白い手の平を差し出すから。
そんな歌を歌わないでとも言えずに、仕方ないなぁと笑って手を重ねた。

錆びついた線路はとうに配線になっていて、海へとつながるこの道にいるのは二人だけ。
誰にも見えない。
誰にも聞こえない。
もう、誰も自分たちを見つけられない。
彼女を捨てて、彼女に捨てられた人たちになんて、もう。


一緒に逃げて、手を繋いで笑って、それでも、なにがあったのかも、どこに逃げるのかも、彼女はなにも言わない。
汚れた学校カバンも、ぐちゃぐちゃのノートも、全部あの部屋に置いてきた。
なにも言わないけれど、それで充分だった。
差し出された彼女の手と、冗談めかした逃げようの一言。

それだけで、泡になって消えたってよかった。

_________________________________

作者の感想・あとがき
百合書こうとしました!!!終わりませんでした!!!次は余裕持ってやります!!!(これだけだと絶対百合に見えない)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?