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冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙について | 短歌の感想

歌人・穂村弘の代表作で、こんな短歌がある。

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

穂村弘『シンジケート』沖積舎、1990


出会った瞬間、理由もわからないままお気に入りの歌になった。

自分の中でそのまま「なんかいいな」状態にしておいたが、最近ふと疑問が湧いた。あれ、なにがいいと思ったんだろう。考えてみることにする。

🥚

まず、浮かぶのはこんなイメージだ。

若い男性が、小さな冷蔵庫を開ける。暗い部屋に一筋の光がーー冷蔵庫から漏れる頼りない薄い光が差す。彼はなにかを取りだそうと冷蔵庫にかがみ込んで、はっとする。空っぽの卵置き場に、涙が落ちていった。

……歌に詠み込まれていない細かいところは、私がなんとなく思い浮かべただけ。そして、自分で思い浮かべたこのイメージに、ぐっと興味を惹かれはじめる。

ドラマチックかと言われればそうでもないし、日常のよくあるワンシーンでもない。なにかが引っかかって、頭の片隅を占有しはじめる。

もう一度、短歌を口ずさんでみよう。


ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は


「冷蔵庫の」がちょっと印象的に聞こえるのは、字余りの効果だろうか。

冷蔵庫を開けるのは、食べ物を出すときかしまうときのどちらかだ。それは言いかえれば、食べようとするときか食べ終わったあとのどちらかということ。いずれにせよ、食べるという行為が伴う。

「おれ」は食べるために、生き抜くために冷蔵庫を開けるのだ。生き物としての、生命維持に対して合理的な側面がそうさせる。

しかし、人間とは不思議なもので、必ずしも生命維持に有利とは言えないような機能も具わっている。

悲しくて辛くて自ら命を絶ってしまうことがある生きものなんて、人間くらいのものではないだろうか。

生命維持に合理的な生きものとしての自分が、「卵置き場に落ちる涙」をふとした瞬間認める。

その瞬間、無意識に目を背けていた「人間としての自分の悲しみ」に初めて気がつく。「ほんとうにおれのもんかよ」という驚きが漏れる。

……そういう歌と読めるのかもしれないと思った。

生きものとして、人はいのちある限り生きていかなければいけない。しかしときには感情(人間的な部分)がその足を引っぱる。

「生きたい体」と「苦しむ心」の間で引き裂かれるような辛さが、どんな人生にもあるんじゃないかと思うのだ。この歌はそんな「生きることの辛さ」をよく表していると思う。

「ほんとうにおれのもんかよ」とひらがなであるところも良い。「本当に俺のもんかよ」とするより、なんというか短い時間で自分の中からぽんと出てきた素直な言葉のように聞こえる。

涙を認識してから「本当に俺のもんかよ」までが5秒なら、「ほんとうにおれのもんかよ」までは1秒、いや流れている途中かもしれない。そんな気がしてくる。「冷蔵庫の卵置き場」というぱっと見いかめしい文字列との対比も効いている。

倒置法を使い、涙にフォーカスして終わるところも好きだ。人間の人間的側面がきらりと光る。

涙を認め、人間としての自分の苦しみに気がついた「おれ」。人間らしく、悲しみも喜びも抱きながら、明日からまた生きていけるのではないだろうか。

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