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人間関係をストレスなく築いていくために心がけていること

 世界中で猛威を振るっている例のウイルスのせいで、日常生活が「自粛」で支配されている。普段通りの平穏な生活が送れていたら、今頃南コーカサス三国のどこかででのんびりとした生活を送っているはずだった。


この自粛で一番嫌なのは、世界の図書館を自分の足で冒険するという俺にとって一番ワクワクすることを妨げられ、ひたすら引きこもっていなければならないことだ。俺は完全なアウトドア派の人間なので、この隠居生活にあとどれくらい耐えないといけないのかわからないのは結構辛い。


週末になると必ずどちらか一日は外に出て何も考えず景色をぼうと眺めたり、癒しが欲しいなと思ったら波の音を聴くために海を目指したり、温泉に入りながらリフレッシュしたりと何かしか俺なりの娯楽を満喫できていた。


それが今は全て制限されているので、とにかく時間が有り余っている。朝起きてから夜床に着くまで何も予定がない日が一日二日じゃなくて、もう何週間も。さすがにこれはやばい。


人によっては「暇でいいよな」って思うかもしれないが、退屈を忌み嫌う俺からすると暇が続く生活は「生きている」というよりはむしろただ「存在している」だけにすぎない。


「なんとかこの退屈さから抜け出して、今の生活をもっと楽しめる方法を探さないとな」と自分なりにあれこれと考えていた。


 そんなある時、自分の部屋の本棚に目を向けると、まだ読破できていない本が山積みになっていることに気がついた。しかもそれは大学院で勉強しているフランス文学に関する本もいくつか含まれていた。


昔から本を読む習慣がなく、自分から本を買ったことなんてつい最近の話である。しかも買ったとしても、本はいくら時間が経っても姿を変えることはないので「いつでも読めるし今日読まなくてもいいや」と思って本棚に眠らせたままにしてしまう。


さすがにこのまま置いておくだけでは何の意味もないし、それぞれの本の味を脳で味わわないのはあまりにもったいないので、少しずつ読み始めることにした。そこで今日はフランス人のエチエンヌ・ド・ラ・ボエシという人の『自発的隷従論』という作品を読んで得られたことを綴っていこうかなと思う。


ラ・ボエシは16世紀に活躍した人文主義者である。人文主義者とは古代のギリシャ・ローマの文芸や神話、聖書関連の研究を元に神や人間の本質を追求した知識人のことである。


このように書くと、すごく難しそうに聞こえるかもしれないけど、「人間とはどんな生き物か、何を考えているのか」を考察した人、ぐらいの認識でまったく問題ないし、ここでは神話や聖書の話は一切出てこない。


また、作品の名前からして拒否反応を示したくなるかもしれないけど、ラ・ボエシが言っていることはすごくシンプルで現代社会にもすごく通じるところがあるので、決してそんな異次元の話ではない。


 最初に『自発的隷従論』という本は、支配する側(圧政者)と支配される/従う側(被圧政者/被支配者)との関係の本質的な構造を明らかにしたものである。そしてタイトルの意味は、例えばとある組織や団体の安定を保つのは支配者の権力や暴力によるものではなく、従っている人たちが自分の意思で隷従を受け入れ従うことによって成り立っている、というのである。


ラ・ボエシの主張を会社に例えるなら、社長と従業員の関係である。会社が維持できているのは、社長が権力を振りかざすことのではなくて、従業員が社長の言うことなすことすべてに従順であることによるのである。


会社の例を使ってもう一歩踏み込むと、社長を支えているのは従業員だけでなく、部長、課長、係長、主任などの中間層の存在を忘れてはいけない。ラ・ボエシはこの中間層の人たちを「小圧政者」と名付けている。


ラ・ボエシの言葉を借りれば小圧政者の正体は次の通りである。


「圧政者の周りにいるのは(小圧政者のこと)、ひたすら媚びを売って、気を引こうとする連中で、圧政者の言いつけを守るばかりではなく、圧政者の望み通りにものを考えないといけないし、圧政者の意向を事前にくみとらなければいけない。また、従うだけではなくて圧政者に気に入られる必要がある。そのために、自分の意志を捨てて、自分の性質を強引にでも変えて、自分を犠牲にし、自分を押し殺さないといけない」


要するに二文字で表現するならまさに「忖度」という、ここ数年でよく耳にする言葉である。


ここでは会社を例にとったけど(当然すべての会社が当てはまるわけではないことはいうまでもないが)、これは組織があればどこにでも存在しうる現象で、あってはならないけど、家族や親戚という組織でも起こりうる。


 ラ・ボエシはこの小圧政者の正体を説明した後、「小圧政者の哀れな生きざま」というなかなかキツめの小見出しで、続けてこんなことも言っている。


「圧政者に近づくことは、みずからの自由から遠ざかることであり、いわば、両手でしっかりと隷従を抱きしめることである」


「はたしてこれが、幸せに生きることだろうか。これを生きていると呼べるだろうか。自分では何も持たず、自分の幸福も自由も、体も命も他人に委ねるとは」


「だれにでもほほ笑みかけながら、すべての人を恐れているとは。つねに笑みを浮かべていても、心は恐れおののいているとは」


ざっとこんなことを言っており、ラ・ボエシはこの小圧政者を一番タチの悪い連中だと思っている。


 この本を読んで自分の青年期の思い出が無意識的に蘇ってきた。


小学生の時、学年が進むごとに嫌がらせや軽いイジメのターゲットが変わっていた。俺がターゲットにされたこともあってそれは1年から2年の時だった。例えば、サッカーをしている輪に俺が後から加わろうとすると、無視されたり、拒否されたり。俺が歩くと距離を置かれたり。あるいは、自分ですべきことを全て俺にやらせたり、いわゆるパシリとして使われていた。


数人のグループを1人が仕切っていて、その1人に4、5人がついてきていて、俺はリーダー格にはもちろん、4、5人の言うことを聞いたり、言われたことを守っていた。それは、嫌われたくない、イジメのターゲットにされたくない一心からだった。この感じはまさに圧政と小圧政と被支配者(=俺)の関係があったんやなって今ふと思った。


でも嫌がらせにしてもどれも直接的なものばかりだったから、間接的で陰湿な、例えばものが隠されているとか、自分の持ち物に落書きや暴言が書かれているなどは一切なかったので、そこはまだ救われたかなと思う。


3年になれば俺に対する嫌がらせはさっぱりなくなったけど、この苦い体験から嫌われることがとにかく怖かったから、他人の目を極度に気にしながら生きていた。


よくあったのが、金曜日俺が何か少し刺さるような変なことを言ってしまうと、「うわぁあのときまずいことを言ってしまったな。月曜日学校に行ったらまた嫌われて避けられるんじゃないかな」なんてことを考えすぎて、不安というプレスに押しつぶされながら週末を過ごしたことはザラにあった。結局いずれの不安も的中することはなかったから幸いやったけど。


今でも鮮明に覚えているのが、絶対に嫌われたくない人たち全員に「俺の嫌なところ、気にくわないところはないか」と訊いたこと。なんとしてでも他人の都合にあわせる、機嫌をとる、そんな生活を毎日送っていた。


今思えば、この嫌な体験を短期間のしかも幼い時にしたので、そこまで深い傷を負うことはなかったし、今でも誰とも関係を絶ったりはしていないから、不幸中の幸いやったなと。


 『自発的隷従論』を読み終えて、改めて強く思ったこと。


・自分を偽ったり、自分に嘘をつかないと続かないような、そんな薄っぺらい人間関係を気づかないようにする。


・時間とお金を費やすに値しないと思った飲み会やイベントに参加して、時間を拘束されるような無駄なことをしない。


・他人に過度な期待を寄せて「成功」を得ようとするのではなく、自分の能力や可能性を信じて「成幸」を掴み取る。


・正しいことは「正しい」、間違ったことは「間違い」と正直にものを言えるようなフラットな人間関係を築ける人を生涯大切にする。


 アルフレッド・アドラーが言っていた「すべての悩みは対人関係の悩みである」はすごくネガティブな印象を与えてしまいそうだが、反対のことも言えるんじゃないかな。


つまり、「自分一人だけでは幸福になることはできない。他人の存在があってこそ幸福は成立する」んじゃないかなと思っている。


地球に生まれてきた以上、人間で生まれてきた以上は人間関係は切っても切れないから、どうせなら自分にとってプラスのことをもたらしてくれる、そんな人を選び、関係を築くことができたら、ほとんどの悩みは解消されるんじゃないかな。


そんなことをふと考えながらこの本を本棚にしまった。










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