「光って光って光って死にたい」 『玉城ティナは夢想する』を水族館で思い出した話
たった10分のショートムービー
目立つものと、目立たないものに
平等の幸せを。
これでトントンではなくて、同じくらい溢れんばかりの幸せと願わずにはいられない。
玉城ティナが玉城ティナを演じていて、
玉城ティナに憧れるA子を演じている。
3月23日の日記
今日は雨の降る中、水族館に行ってきた。家族連れだったり、カップルが沢山いる中、水族館で1人は少し寂しかった。
でもそんなのは些細なことで、
そう!私はラッコに会いにきたんだったと思いだした。
実は日本で飼育されているラッコはもう3匹しかいない。馴染み深い生き物だけど、簡単には会えなくなる日ももしかしたら近いのかもしれない…
その水族館でもラッコはまるでアイドルのようで
1匹のラッコに大勢が群がり、一斉にスマホのカメラを向ける様はなんだか不恰好だと、私自身も大勢の中の1人だということを忘れて呑気に思ったりした。
ただ、どの水槽にいるどの魚だって、その1匹しかいないことには変わらないのに、絶滅危惧種とか、日本に何匹しかいないという肩書きが、当事者の知らない場所で大きくなっていくことに、違和感を感じずにはいられなかった(私も日本に3匹しかいないと聞いて電車を乗り継いで会いにきたことを忘れて)
ラッコが呑気にお腹をかく姿をみながら、唐突にこの言葉が私の頭の中を反芻した。
さっき見た大水槽にいたイワシは輝いていた。確かに光っていた。だけどみんなが注目を向けたのは、ショーが終わり脱力した姿のラッコだった。
『玉城ティナは夢想する』は写真集出版のときに山戸結希監督によって作られた。この映像を作る際、山戸監督は玉城さんに「ティナちゃんに憧れる女の子たちはどんな気持ちなんだろうね 」と投げかけ、その山戸監督の言葉を聞いた瞬間、玉城さんは嗚咽しながら泣き始めたと言う。
彼女自身が、枕を濡らす少女だったのでは無いだろうか?と想像する。でも彼女は女優で、モデルで、みられることから逃げられない。
多くのクリエイター達の、多くの想いや願いによって作られた作品だろう。だからこそ、多くの人の心をじっと掴んで離さない。
だけど、その緻密さがその完成度の高さがある種の惨さを浮き彫りにしているように感じた。
これは私の持論だけど、羨望や喝采はときに、
暴言や暴力と同じくらいの威力を振るうような気がする。
ラッコは何を考えているのだろう。あの様子を見るに何も考えてなさそうな気もする。イワシだって誰かにみられたいなんて1ミリも思っていないかもしれない。
光って、光って、光って、死にたいなんてあまりにも刹那的だ。星にならずとも誰かにみてもらう方法なんて沢山あるのに。きっとその子たちにこの言葉は届かない。彼女たちは光りたくて、ただ光りたくて、ただ星になりたいのだから。自分の心の奥底にある気持ちに配慮する余裕なんてきっと無い。
でも、もしも遠い夜に瞬く星に憧れている誰かがいるのなら、それを気付ける大人でありたいと思った。誰にも願われてなくても、私はその子に気付ける人でありたい。
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