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【観るセラピー】異人たち | All of Us Strangers レビュー

作品紹介

あらすじ

“夜になると人の気配が遠のく、ロンドンのタワーマンションに一人暮らす脚本家アダムは、偶然同じマンションの謎めいた住人、ハリーの訪問で、ありふれた日常に変化が訪れる。ハリーとの関係が深まるにつれて、アダムは遠い子供の頃の世界に引き戻され、30年前に死別した両親が、そのままの姿で目の前に現れる。想像もしなかった再会に固く閉ざしていた心が解きほぐされていくのを感じるのだったが、その先には思いもしない世界が広がっていた…”

https://www.searchlightpictures.jp/movies/allofusstrangers

原作は山田太一著「異人たちとの夏」
1988年公開の大林宣彦監督作「異人たちとの夏」の舞台を1988年の東京から現代のロンドンに移したリメイク作
監督はイギリス人監督Andrew Haigh(アンドリュー・ヘイ)、主演はアイルランド人俳優Andrew Scott(アンドリュー・スコット)、Paul Mescal(ポール・メスカル)
映画批評サイトRotten Tomatoesでは91%とかなりの高評価となっている作品

日本ではオッペンハイマーという話題作の陰でひっそりと公開されたが、オッペンハイマーと同じく、イギリス、アイルランドの監督、俳優の才能が光る作品で、特に今作でゴールデングローブ賞主演男優賞にもノミネートされた(受賞は同じアイルランド出身のキリアン・マーフィー)主演アンドリュー・スコットの演技がとても素晴らしく、死別した両親との対話の中で時折溢れてしまう主人公の孤独感、喪失感を抑えた演技で、繊細に表現している。

監督は「WEEKEND ウィークエンド」や「さざなみ」などの作品でも高い評価を得ているアンドリュー・ヘイ。自身が同性愛者ということもあり、とてもパーソナルな映画となっている。主人公の複雑な感情の機微を丁寧な描写で描いている。

「オッペンハイマー」や「デューン」といういわゆるブロックバスターも素晴らしいが、登場人物が4人しか出てこない中で、ミニマムな演技、シネマトグラフィー、脚本などで感情が揺さぶられるという良質なシネマ作品。
正直テーマも重く明るい作品ではないが、観終わった後、なんだかセラピーを受けたような感覚に陥る不思議な映画。

おすすめ度:4.5 (5点満点)
こんな人におすすめ:泣きたい人、ミニシアター系の映画が好きな人、プロットツイストが好きな人

以下ネタバレ含みます 鑑賞後用レビュー


孤独感

主人公アダムは同性愛者であることを自覚しながら、その事実を両親に打ち明けられないまま、12歳の時に両親と死別して以来、孤独感に苛まれている。
私自身は同性愛者ではなく、両親を早くに亡くしたわけでもないが、彼が漠然と感じている孤独感というものに、なぜだか自分のことのように共感、感情移入してしまう。アダムが母親に自分が同性愛者だと打ち明けるシーンでは、「同性愛者だと孤独ではないの?」と問われるが「もうそういう時代じゃないよ」と答えるアダムの表情は、言葉とは裏腹に複雑なものだ。テクノロジーが進歩し、いつでもどこでも人々と繋がる事ができるようになった現代だが、この孤独感に苛まれる人が増えていおり、孤独死も近年問題になっている。私自身も、日々スマートフォンを見つめてはため息をつき、漠然とした孤独感を感じる時が頻繁にある。程度の差こそあれ、孤独感というものを全く感じたことが無いという人はおそらく一人もいないのでは無いのではないだろうか。私的な考えだが、これは家族・友人がいるいないには関係なく、人間は本質的には孤独であるため、例え置かれている状況はそれぞれ異なっても、この孤独感というこのユニバーサルな感情に共感してしまうのでは無いかと感じた。

世代間の断絶・和解

昨年のアカデミー賞作品賞受賞作「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」でも描かれた世代間の断絶・和解というのが本作のテーマの一つになっていると感じる。
主人公アダムが同性愛者であることを死別した両親に打ち明ける中でこの世代間の断絶が描かれる。
ここ30数年の社会の変化というのは目まぐるしく、その中で親と子の間で考えや感覚のズレが歴史上最大規模で広がっていると思う。ベビーブーム世代の親はなんの悪気もなく(この悪気がないというのが結構タチが悪い…)「彼女は?彼氏は?」「結婚は?」「子供は?」と何の疑いもなく、子供達が自分たちと同じ人生を辿るものという前提で話をしてくる。それに対し、子世代はその想像力が欠如した質問に憤る。—なぜ同性愛者である可能性を想像しない?なぜ全ての人が結婚をしたがっていると決めつける?なぜ全ての人が子供を欲していると決めつける?またはなぜ不妊で苦しんでいる可能性を想像できない?—
そしてこの憤りが親世代を「老害」と侮蔑してしまうことに繋がってしまっているのではないかと感じる。アダムも両親に対し、カミングアウトする中でこのフラストレーションを感じるし、ハリーも同性愛者であるせいで家族とは疎遠になってしまっている。この世代間の断絶で難しいのは、子世代が「どうせ言ったって分からない」という失望を親世代に抱いてしまっているせいで、対話のスタートラインにすら立つのが難しいということだ。アダムも父親との対話の中で、同様の失望を打ち明ける。
ほとんどの人は前述したような憤りを抱えながら、それを言葉に出すことはないのではないだろうか。「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」ではマルチバース、本作では亡くなった親との対話という超自然的現象の力を借りて、両世代が対話し、和解へと至るが、現実世界ではあり得ないことで、いかにこの世代間の和解というのが難しい問題かというのを改めて感じさせられてしまう。

心の傷は癒えないが…

アダムがハリーに対し、両親との別れについて話すシーンで、「年をとるにつれ、両親を失ったという恐怖はしこりのように固くなり、胸に残っている」と打ち明ける。また、アダムの父親が、アダムがいじめにより苦しんでいたことを知りながらも助けようとしなかったことを謝るシーンで、「もう昔のことだよ」というアダムの言葉とは裏腹に一瞬で子供時代の感情が溢れてしまう。
人はそれぞれ多かれ少なかれ、幼少期〜青年期〜成人へと育つ過程で心の傷を負っていくものだと思う。時間の経過とともに、または大人になり、忙しくなるにつれ、考える時間・機会が減ることで、傷は癒えた、克服したと思いがちだが、何かのきっかけで一瞬で甦ってくる。ダイナーにて両親と別れるシーンで、「大して誇れることもないよ」言うアダムに対し、「難しい時代に色々乗り越えて、ここにいるじゃないか、それは誇るべきことだ」という言葉はなんだか自分も慰められたような気持ちになり、自身の傷と向き合っていくアダムの姿を通して、何だか自分自身もセラピーを受けているような感覚に陥った。

エンディングの解釈

ラストシーンで”The Power of Love”の曲がかかる中(本作では曲中の”Keep the vampires from your door”という歌詞が印象的に使われている)、アダムとハリーは抱き合いながら、星の光と一体化する。私的にはこのエンディング、また、ロンドンという大都市部にありながら、ハリーとアダム以外の住人がいないという現実にはありそうにないマンションの設定、アダムが死者以外と交流するシーンが無いため、アダム自身ももうすでに、生者の世界にはおらず、死後の世界、または生と死の狭間のところ(“Vampire”がいる現実世界ではない精神世界のような場所)で、やっと安らかになれたのだという印象を受けた。

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