見出し画像

【随筆】0次的幸福論

議事録

幸福とは何かと言えば、「幸せだと感じること」だ。本当にそうだと思った。けれども、そうでは無いと言われた。その人は天邪鬼で、何かと対立的な理屈を組んで反論したがる。その人が言うには「薬物依存はどうなのか。彼らは幸せか。」と。主題が逸れたことは分かったが、どうも討論という形でしかコミュニケーションを取れないらしいので、従ってみる。「薬物依存は幸せでは無い。けれども、薬物を使用して快楽に浸っているその刹那は一時の幸福の中にいると言える。」そういう当たり前の話をして、話は終わる。あなたの勝ちでいいから、会話というコミュニケーションを取ってくれと思った。



幸福論

幸せだと感じること以外に「幸せ」を定義する術があるのだとすれば、それは〇〇的幸せとか〇〇的幸福とかそう言った限定的なモノになるのだと思う。幸せというのは主体が幸せを感じることに他ならないのだ。薬物依存は幸せでは無い、という話は二律背反では無いのだ。
薬物依存云々の話について触れる前に、自身の考えを明確にしておくと、僕はやはり「幸せだと感じること」が幸福の定義であり、言葉や概念としての本質的な意義であると考える。だからこそ、薬物による幸福感はあくまでも幸せなものなのだ。
けれども、俯瞰的に見たときに薬物依存の状況に陥っている人を幸せだと評価することは出来ない。それはむしろ”不幸な人”のように捉えることになるのである。そもそも「依存」という言葉に対して幸せだというイメージを結びつけることが難しいのだろうと思う。つまり、「幸せな人」=「薬物依存者」というのは客観的な視点では成り立たないこととなる。客観的というのはつまり、何かしらの水準を設けて比較検討することだ。「薬物依存」=「不幸な人」というスキームは既に文化的な影響下での幸福の評価と言える。


0次的幸福

しかしなぜ、薬物に依存するのだろうか。おそらく、不幸な状況にある人間が一瞬でも幸福を味わおうとするのだと思う。幸せを感じられない人が幸せを求めて依存するのだろう。

幸せだと感じることを幸せと言うのだろうけれども、その幸せの状況を具体的な文脈で限定的なものにしようとするその〇〇的幸福に関して考えること、それは余裕がある人にしか出来ない思考である。そして状況を内包する幸福論に置いて、つまり〇〇的幸福について一つ言えることとしては、余裕があるというのは耐えられない不幸にないという点で0次的幸福と言えるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?