【随筆】嘘をつくかもしれません
可能性という言葉はあっても不可能性という言葉はない。もしかしたらあるのかもしれないが、一般的には使わない。というのも不可能性とは可能性と同じだからだ。
コインの裏と表、ルーレットの黒と赤、勝ちと負け、2つに1つの概念には表現も1つで足りてしまう。
明日の降水確率は20%です。というのは、非降水確率が80%ということである。
確率というのは基本的にこれまでのデータから算出されるものであり、それは未来を予測するために使われる。確率とは予測であって予言ではない。従って降水確率が10%だったとして雨が降った場合、それは外れたのではなく当たったのだ。
ところで嘘とはなんだろう。嘘というのは事実とは異なることを言うことだ。何かを隠したり、何かを企んで嘘をつく。仮病を使って休んだり、断る文句として忙しいと言ったり、人は日常的に嘘をつくことでコミュニケーションを円滑にしている。
しかし、「事実」と異なることを告げるのが嘘であるならば、未来に対して噓をつくことはできるのだろうか。
「20xx年、隕石が地球に落ちて人類は滅亡します。」
というようなよくある予言に対して、そんなものは嘘である。というのは、実は証明しようがないのだ。なぜなら未来の事実に対して確認しようがない。
一方で、
「20xx年、隕石が地球に落ちて人類は滅亡するかもしれません。」
こういう場合、予言ではない。濁すことで確率のように見せている。これは未来に対して予測しているけれど、確かなことは何も言っていない。
だから予言は予言の段階では基本的に嘘ではないが、嘘になり得ることがある。そこで嘘を良くないと思う倫理観を持ってしまう僕らはそれをなんとか事実にしようとしたり、それをさらに嘘で取り繕うようになってしまう。
と、いうことで未来に対して噓をつくことはできないけれど、予言を避けて予測のふりはできる。めんどくさい誘いを断るときに正直に「めんどくさいので」と言うことは出来るし、出来る人はそれはそれで誠実であり素直な人だ。しかし、それで断れないから嘘を付く、予言をしてしまう。「別の予定がある」と言ってしまうと嘘になるが「別の予定が入りそう」と言えば嘘にならない。この予測のような物言いは、現実離れしていると冗談になるが、現実に近ければ予言のようになる。「明日隕石が来るかもしれないので」は冗談だが、「明日雨が降るかもしなれないので」は予言のようである。
現実に近い予測のような物言いが、嘘をつかずに過ごす方法なのかもしれない。
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