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VTuberとサシで話してきた

クリスマスイブ、東京ビッグサイトにて。「にじさんじフェス2023」の内部企画、ライバーと一対一で会話する「視聴覚室」を体験してきた。

お相手はアンジュ・カトリーナさん。現在YouTubeの登録者数83万人の女性VTuberである。

ボロボロの小屋で時間を忘れて錬金術の研究に明け暮れている。
大人っぽい女性的な体に憧れており、実はその研究をしているとかしていないとか。

にじさんじ公式HPより引用

彼女は電話先で男性と間違えられるような低めの声をしており、私はそんな彼女の声と話し方に惹かれて三年ほどメンバーシップ登録をしている:

メンバーシップ登録画面

この度、おそらく人生で最も倍率の高い抽選に当たり、私は彼女と一対一で話す機会を得た。時間は90秒、価格は6900円。これを安いと思うか高いと思うかで読者は二分されるだろう。安いと思う人は、幻想に価値を与えることに慣れている人だと思う。一方、高いと思う人はVTuber文化に浸からずに生きてきた人か、または素朴実在論者のいずれかである。

ここではその体験およびそこで感じたことを、主に後者にあたる人々に向けて説明していこうと思う。故にVTuber文化を知っている人は冗長に感じられるだろう。寧ろ、説明のためにメタい部分にも踏み込むため、今安らかに沼に浸れているファンは直ちにブラウザバックするべきだ。単に「アンジュが一対一の場で何を話していたのか知りたい!」というモチベで全裸待機していた賢者キッズには、簡潔に会話内容だけをまとめた私のツイートを提示しておく:


背景

まずは背景の話から始めよう。「にじさんじ」とは、ANYCOLOR株式会社(通称えにから)が運営するVTuber事務所である。現在百数十人のライバー(配信者)が所属しており、各々が主にYouTubeで配信活動をしている。ANYCOLORは2022年6月に東証グロースに上場、一年後にあたる2023年6月には東証プライムに移行しており、市場に占める存在感はCOVER株式会社の運営する「ホロライブプロダクション」に並んで業界最大と言っていいだろう。

「にじさんじフェス」(以下、にじフェス)は、「にじさんじライバーによる学園祭」をコンセプトとしたリアルイベントである。近いコンセプトの企画は年に一回のペースで開催されてはいるが、感染症の影響もあり、実際にリアルの会場に集客して完全な形で実施できたのは2022年10月開催の「にじフェス2022」が最初だった。その意味で二回目の現地開催となる今回の「にじフェス2023」は、東京ビッグサイトの東全ホール(東1~東8)を使って行われた。参加するには一か月ほど前に結果の出るチケット抽選に当選する必要があり、さらに別途チケットが必要な内部企画もある。

どのような人々がにじフェスに参加しているのか? 実際に行ってみた体感でいうと、十代後半から二十代が主で、性比は若干女性の方が多く六割ほどを占めていた。にじさんじでは男女のライバーが同期でデビューしたり、男女が混ざって企画・配信が行われることが多い。結果、男女共通のファンがつきやすく、この性比を作り出していると思われる。今回のにじフェス内の企画であるライブ「SYMPHONIA」でも、前回の「FANTASIA」から一転、(性別非公開を含む)男女半々のメンバーで二公演を行っており、ANYCOLOR側の客層の捉え方をある種反映していると思われる。

にじフェス内のステージ(複数ある)ではライブ以外にも、ギャグ寄りの演劇があったり、テレビ番組のようなトーク企画があったりする。またステージ以外でも、にじさんじライバーをモチーフにしたフードが提供されていたり、協賛企業によるグッズの展示があったり、オリジナルのアーケードゲームができたりなど、複数の企画が会場各地に点在して同時進行しているといった様子だ。会場内の様子の一例として、ヴァーチャルホスト不破湊さんの等身大パネルの前にファンが集まる光景を見せておく。


「視聴覚室」は、上述した様々な企画のうちの一つである。事前の抽選に当選した参加者が、特定のにじさんじライバーと一対一で会話し、記念写真が撮れる体験型アトラクションだ。企画の性質上、抽選倍率はにじフェス内で最高だろう。三か月前、これに当選した知らせを受け取った私は、事実を受け入れて落ち着くまでに丸一日を要した。

視聴覚室の詳細

視聴覚室のブースは会場の小さな一角、15m×30mほどの広さを占める。入り口から続く長辺方向の通路を隔てて左右に四つの小部屋がコンテナのように並んでいる。計八個の小部屋それぞれには、その時間の視聴覚室を担当するライバー八人が「配置」されている。視聴覚室当選者はブースの外で自分が当選したライバーに続く列に並ばされ、順番が来た人からブース内に入る。さらに小部屋の横で一人分待機してから、カーテンをくぐって体験を開始することになる。

列の途中で渡された説明書きによると、会話できるのは30秒。その後写真撮影に移り、例示された十二個のポーズから一つを選んでツーショットを撮る。終了後退出し、脇に控えていたスタッフに撮れたチェキを渡され、解散となる。

概要は以上だが、VTuberの文化の感覚を知らない人にとってはまだ分からないことが多いだろう。そうした人たちのために、最低限の理解を共有すべくメタいQ&Aを並べておく。(VTuberのファンは読み飛ばすこと。)


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Q. 「中の人」に会えるの?
A. いいえ。

Q. 「中の人」が見れるの?
A. いいえ。スクリーンにライバーの姿が映されています。 

Q. 握手はできるの?
A. いいえ。

Q. サインはもらえるの?
A. いいえ。

Q. すぐ裏に「中の人」が居るの? 
A. 不明。建付け的にすぐ裏には居ない気がしましたが、現地のどこかには居るようです。

Q. 向こうにこちらの姿は見えているの?
A. はい。 私の被っていた帽子などに言及してくれました。

Q. 声は直接届いているの?
A. いいえ。こちらはマイクを持って話し、向こうの声はスピーカー越しでした。

Q. リモートで通話してるのと何が違うの?
A. そこが正にポイントです。後の節で詳しく述べますが、簡潔に述べるなら「あなたがこの機会にどのような『意味』を与えるか」に依ります。 

(Q&Aは以上。質問があれば随時追加していきます。)

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以下ではまず、私のありのままの体験を記し、続いてこの機会を現象学的に反省し、構築主義的立場から解釈し、ニーチェの超人的に意味を与えていく。

体験記

17時40分ごろ。私は視聴覚室のブースを訪れた。八列ある列から目当ての列を探していると、「どなたの視聴覚室ですか?」とスタッフに問われた。「アンジュ・カトリーナさんです」と答えると、「アンジュさんはこっちですね」と入り口向かって右の列に誘導された。しばらくしてスタッフに注意書きの紙と整理番号を渡された。番号は12。単純な通し番号だろう。各ライバーの視聴覚室の担当時間は一時間で、入れ替えの時間も含めて一人二分と考えれば、真ん中よりちょっと早い程度だろうか。

待機の間、会場内の他の企画の音が聞こえていた。並び初めのころはガーデンステージから。七次元生徒会のOP曲ED曲のお披露目とのことで、本当はスクリーンを見て聞きたかった。しばらくしてステージはおしまいになり、にじさんじライバーが出す歌CDのクロスフェードやMVが流れ始めた。知らない曲もあったが、ノリでノってみるなどして緊張をほぐしていた。

列が動き始め、前に進んでいると、スタッフがおちょくるように話しかけてくる。「30秒ってあっという間ですからね」「あっあっって言ってるうちに終わりますよ」「今のうちに話すこと考えておいてね」などと。私は腕時計を凝視し、秒針が半周する間に自分の話したいことを言い終わるかどうか、その練習を何度もしていた。これまでの人生、ここまで「嬉しい緊張」は初めてだった。

自分の順番を終えた参加者が次々とブースから出てくる。ある者は笑顔で、ある者は泣を流しながら。ある者は呆然とし、ある者は友人にハグで迎えられた。

自分の番まであと三人というところで、町田ちまさんの「名前のない感情」がガーデンステージ側から聞こえてきた。おそらくMVをスクリーンで流しているのだろう。私はノリにノった。周りの緊張している人からは多少変人に見られたと思う。だが私は自分が「ゾーン」にはいることを優先した。健常者エミュレータを発動するには助走が要る。自分の内なる鬱病をこんな素敵な機会に表に出す訳にはいかない。二時間半並んだフードのドリンクで抗鬱剤を流し込んでから四時間が経った頃だった。

ブースの中に案内された。中のスタッフに「荷物置く場所ありますか?」と尋ねる。写真を撮るときには手ぶらでいたかったからだ。スタッフの女性は「中に荷物を置くところがありますよ」と優しく答えてくれた。感謝を述べ、小部屋の脇で待機する。しばらくして、対岸の別のライバーの部屋から「バイバーイ、ありがとね~」という声が漏れ出てきた。北小路ヒスイさんの声だった。男性がカーテンから出てきて、写真を受け取り、ブースを去っていった。気づけば私の目の前の順番の男性はもう小部屋に入っており、壁越しにアンジュ・カトリーナさんの声が伝わってくる。私はなるべく耳に入れないように努めた。

自分の番が来た。注意書きの紙と整理番号をスタッフに渡すとき、「入ったらもうすぐですか?」と聞く。少しも時間を無駄にしたくなかった。「そうですね」と答える傍ら、落ちてしまった整理券を二人で拾った。案内され、カーテンの中に入る。

入って左手に、教室の中に立つような風貌でアンジュが立っていた。

「コン↑ニチ↓ハ〜」

私は関西っぽいイントネーションで挨拶した。戌亥とこさんから学んだ挨拶だ。

「あ! コン↑ニチ↓ハ〜」

戌亥が言った通り、アンジュは同じイントネーションで挨拶を返してくれた。四年間聞き慣れた、しかし普段より少し反響した、それでも紛れもないアンジュ・カトリーナの声だった。

「今日だけ服着てきました、そひかです」

アンジュのリスナーは度々服を着ていないことにされがちである。

「 あっ、えらあい!」

子供を宥めるような声色。ボケを拾ってくれたアンジュに感謝しながら、スタッフにマイクを受け取った。

「今日は感謝を伝えに来たよ」
「お、なんですか?」
「 アンちゃんシン・ウルトラマン見たでしょ?」

静寂。早口すぎて聞こえなかったか、あるいは意図が伝わらなかったか。少し前に見たと言っていたので、あまり覚えていなかったのかもしれない。

「 まぁあの、滝くんみたいに私物理の研究してて」
「へ〜そうなんだ!」
「 ただそれが厳しい道のりで、周り天才ばかりで、メンタルガン萎えなんですよね」 

私の冗談めかした声色を察してか、アンジュはケラケラと笑ってくれた。

「でもそんなときも、四年間ずっと、アンジュの溢れんばかりの自己肯定感に命を繋ぎ止められていたんです。だから……ありがとう!」

アンジュ・カトリーナは自己肯定感の権化だった。少なくとも私にはそう映った。どんなことがあっても「まぁ私かわいいしな」で乗り越えてきた力強さの持ち主だ。彼女が話しているのを聞いているだけで、私は自分の自己肯定感が充電されていくような錯覚を覚えることがしばしばあった。それは人一人の命をこの世に繋ぎ止めるには十分だった。私はこの感謝を伝えるためだけにこの日まで生きてきた。

「えそんなに? いや自分めっちゃかわいいよ!」

ここで小さなすれ違いが生じる。アンジュは「自分」を二人称で用いたが、私は最初一人称だと思ったのだ。

「 いやーもう、これからも「アンジュかわいい!」で生きていってください!」

そう伝えたかったのは本当だった。

「えーありがとう、でもめっちゃおしゃれじゃん。絶対モテるわ〜」
「 え! あっ……!」

ここで私は彼女が私のことを褒めてくれていることに気づいた。

「 じゃ、モテちゃおっかな〜」

上がる口角を伏せながらちょけるしかなかった。

「 絶対モテる、なんか羨ましいわ〜」
「へへ」

一瞬の沈黙。話すことは話し終わったはず……。
しまった、と思った。30秒以内で話を収める練習をしていたが、時間が余る可能性を想定していなかった! そう思うわずか一秒の間に、アンジュは助け舟を出してくれた。

「 ぱぺもつけてくれて!」
「 あ、そう!」

にじパペットという、手のひら大のグッズのことだ。入室直前にアンジュのにじパペットを胸ポケットに入れていたので、胸を張ってそれを見せた。アンジュ含むリゼ・ヘルエスタ、戌亥とこの三人組「さんばか」三周年を記念して作られたアイドル衣装のパペットで、私が研究室に通うのをずっと見守ってきてくれた思い入れのある三人形のうちの一人だった。

「嬉しい〜」
「えへへ」
「それじゃ写真撮ろうか!」
「はい! 「前後」のやつで……」

一覧で提示されていたポーズの七番目に、「前後でポーズ」というものがあり、私はそれを指定した。……ただし注文付きで。

「……ずんち( ◜ω◝و(وでお願いします!」
「 え? ずんちって」
「 あの7番のやつで」
「 えっと……私まだずんちがどんなんかわかってない (汗)」

ずんちとは、アンジュがよく配信でテンションが上がったときに踊りながら自分でつけている効果音のことだ。流石に不親切な表現だった。踊ってる時のポーズをしてほしい、と直接言うべきだったと反省する。

「 あっえっと、じゃあ私とおんなじ感じで (汗)」

私は( ◜ω◝و(وのポーズをした。正面にアンジュが居るので、その彼女と一緒に写真に納まろうとして私は直感的に背中を向けた。だがそれは間違いだった。私もまた正面からカメラで捉えられており、アンジュと同じ画面に映し出されているので、私は正面に向いたままでよかったのだ。理解して体の向きを戻して間もなく、アンジュが言った。

「 はい、チーズ」

するとカウントダウンの自動音声が「3……2……」と流れた。

「あ、まだだったわ」
「 あっ」

いつものアンジュのポンっぽいところが見れて嬉しかった。私以外の回でも同じ間違いをしてそうだな、と思って勝手に愛おしさを感じる。

「 ありがとうございました〜」
「ありがとう! いや絶対モテるわ〜」

アンジュは再び私を褒めてくれた。お世辞でも嬉しかった。自己肯定感が削られているという私の話を受けて、私を励まそうとしてくれているという可能性に思い至り、心臓がきゅうっとなるのを感じた。彼女は、アンジュ・カトリーナは……確かにメンヘラ製造機かもしれない。

「 嬉しい!」
「 Twitterで見たよ! 呟いてくれてて」
「 え!」
「 エゴサで見た!」

どのツイートのことだろう。視聴覚室に当選した時のツイートか。視聴覚室に向けてアンジュの推しネイルをしたツイートか。配信の後に毎回している普段の感想ツイートのことか。様々に浮かんだが、これ以上聞くのは野暮だと思って自制した。

「 そうなんだ!」
「 ありがとね〜」

この辺りでスタッフの「時間でーす」というアナウンスがあった。私はマイクをスタッフに返し、鞄を持った。

「 帽子もおしゃれ〜!」

浅くなった私の心の器を満たすには十分すぎる言葉だった。

「ありがとう! バイバ〜イ!」
「 バイバ〜イ」

清々しい気持ちで私は小部屋を後にした。最後の「バイバ~イ」の柔らかい声が、今でも耳に残っている。


構築主義的実在としてのVTuber

さて、この一連の体験の間に私は何を見て、何を聞き、何を感じていたのだろうか? そこには何があり、何がなかったのか? アンジュ・カトリーナは……そこに〝居た〟のか? 現象学的立場から反省していこう。

モノがある。という主張には、実は二つの捉え方がある。一つは「まずモノがあり、それが見えている」という立場。こちらの方が一般的だろう。だがもう一つ捉え方がある。それは「まず見えており、そこにモノを仮想する」という立場だ。前者の考え方ではモノの存在を一次的な真実とみなす一方、後者の考え方ではモノの存在は二次的に与えらえる仮象である。

後者の立場では、世界の情景はこうなる。鞄があり、それを持っているのではなく、握ると重さを感じ、そこに鞄が仮想される。床があり、そこに立っているのではなく、立っていると下から力を感じ、そこに床が仮想される。このように、順序は素朴な直感と逆になるのである。

いきなり何の話をしているんだ? と思うかもしれない。だが仮想現実の話をする以上は踏まえておくべき世界の見方――世界観――である。「モノ」とは、作用とそれに対する応答というデータから、効率よく情報を整理し次に起こることを予測するために作り出される、便利な幻想のことなのだ。

さらに進んで、以上の話における「モノ」を「ヒト」に置き換えて考えてみよう。

あなたはどういうとき「そこに人がいる」と思うだろうか。ヒトの形が見えるときか。触ると人肌の温かさを感じるときか。声が聞こえるときか。話しかけたら応答が返ってくるときか。殴ってみたら痛いと声を上げたときか。テレビに映っている人は? 電話先の声は? 配信者のワイプは……?

状況に依る。それが無難な答えだろう。ヒト型が見えたけど実はマネキンだったり、子供の声が聞こえたと思ったら猫の鳴き声だったり、語り掛けたら答えてくれるChatGPTだったり、といったことは往々にしてある。それでも我々が腰を抜かさず生きていけるのは、予測に反した出来事に遭遇した際に「そこに〇〇があった」という仮説を新しい仮説に更新することで平穏を取り戻す能力があるからである。予測が裏切られたという出来事に対し我々は常に開かれており、それに応じて仮説を更新することによって、我々は常に世界を認識し直している。こうしたバックグラウンドの処理を無意識のうちに済ませているからこそ、本当に命に関わる危険などに注意を割くことができるのであり、同時に、こうしたバックグラウンドの処理は無意識に済まされてしまうからこそ、「まずものがあって」「まず人がいて」という考え方が初めからある当然の事実のように錯覚してしまうのである。

VTuberというコンテンツを享受する人間としない人間の差は、この仮説をVTuberに対し更新しているかしていないかの違いにある。VTuber文化を享受する人間は、「顔のようなものが見えて」「喋っているように口が動いて」「瞬きして」「肌のぬくもりは感じないけど」「コメントするとたまに答えてくれる」。そうした作用・応答のデータを受けて、「VTuber」という新しい仮象を「仮定」し、彼らを「居るもの」とみなす。一方、享受しない人間は、これまでに身に着けた「人間」という仮象の範囲で物事を理解しようとするため、「中には人がいて」「そいつは誰々で」という順番で認識しようとし、結果VTuberという仮象を与えることはない。

ここで注意しておくが、これはどちら側が良いとか悪いとかいう話ではない。新しい仮象を設定して理解をしようとする作用と、既知の仮象の枠で理解しようとする作用はどちらも健全な認知作用だ。どちらも必要な要素だし、どちらの作用がどれくらい働くかは人と対象と時と場合に依る。

そして人によって与える仮象が異なったとき、どちらの仮象がどらくらい優れているか、という判断を下す一義的なアルゴリズムは存在しない。言い換えると、ある「作用-応答」のデータを説明できる仮象が複数ある場合、どちらが「正しい」仮象かは一般的には決められない、ということだ。

例えば「神という者が居てそいつが宇宙を始めた」という説明と「ビッグバンというものが起きてそこから宇宙が始まった」という説明は、初めにまず何があったか、という問いに対して設定した仮象が異なる。ではどちらの説明が優れているか? 科学的教育を受けた人々なら、後者の方が優れているというだろう。だがそれは一面的な判断にすぎない。確かに後者は「宇宙が膨張している」という観測結果から演繹された仮説だが、ビッグバンで何が起きたかについては今も合意が得られていない。科学は仮説から始まりそこから演繹によって様々な主張を編み出すが、始まりの仮説自体の「正しさ」はやはり真理ではなく信念である。どちらの説明も論理を逆に辿っていけば、何からも説明されない、人間が手で置いた仮定に必ずぶち当たる。その意味ではどちらも対等であり、等しく幻想である。

別の例として、地球は球体であるという説明と大地は平面であるという説明の対比がある。科学的な教育を受けた者であればやはり後者の説明を選ぶだろうが、それもやはり一面的な判断にすぎない。地面に人が立ち歩いて生活しているというデータに対して、そこには平面があるという仮象を設定することは球体を仮定するより直感的である。校庭に白線を引くときに地球の丸みを考慮する者はいないし、コリオリ力を考慮してキャッチボールする者もいない。ものは二次的な仮象であるという立場では、平面と球体どちらの仮象が正しいかという絶対的判断が下されることはなく、各々が時と場合によって便利だったり納得したり安心したりする方をノリで選んでいるだけだと考える。

同様に、今「赤髪の人型がアンジュ・カトリーナと名乗り、語りかけに対して応答してくれる」というデータが与えられており、「そこに居るのは何か」ということが問われている。ここで「人間」という仮象を与える方が「現実的」で、「VTuber」という仮象を与える方が「仮想的」だ、というのは、やはりある一面からの判断に過ぎない。構築主義的な立場からすれば、どちらも等しく幻想なのである。重要なのは、どのような幻想を現実として選び、そこに意味を与えるかだ。ここに人の個性が現れると私は思うし、自ら進んで新しい「意味」を与える人を、ニーチェは「超人」と呼んだのだと思う。

さて、初めの問いに戻ろう。私は何を見て、何を感じていたのか。そこにアンジュ・カトリーナは居たのか?

以上の説明を踏まえれば、答えは単純である。

視聴覚室では、アンジュの姿が映されていて、動いている。たまに変な動きするけど。でも話すと答えてくれる。いつも聴いている声がする。そして私の姿について言及してくれている。

そこに私は、「アンジュ・カトリーナがいる」という仮象を設定し、意味を与えることにした。

ただそれだけのことだ。


エピローグという名の自分語り

2022年1月に開催されるはずだったにライブ「FANTASIA」は、感染症の影響で、上演のわずか2日前に中止が宣告された。当時私は鬱病の再発で精神的などん底にあり、家には両側をハングスマンノットで結んだ綿ロープが飾られていた。頭は動かず、手も動かなくなり、1年だけ何とかやり過ごした修士課程を今すぐにでも退学したいと思うようになった。教授に諭されとりあえずの休学という形をとったが、今では記憶に全く残らないような無色透明な半年を過ごした。

復学を検討していた頃、10月頭のにじフェス2022にて、中止になった「FANTASIA」の振り替え公演が決定した。一度チケットを勝ち取っていた私は優先的にチケットを頂くことができ、10月まで生きねばならなくなった。ライブ当日、私は戌亥とこさんの揺れるしっぽを見つめて涙を流すことしかできなかった。鬱ですり減った私の心の受け皿は、その素晴らしい公演をすべて受け取るには浅すぎた。終わった後は唖然とするばかりで、ただ自分が2022年9月30日まで生き延びたという事実だけが残った。

そんな当時の私の心情を代弁してくれた人がいる。にじフェス2022のドキュメンタリーに登場する観客の男性だ。

粘って粘って 頑張って 今日まで 生きてきました。

戌亥とこモデルのTシャツの男性

推しVTuberに私が与えた意味は、いつしか私が人生に与える意味になっていた。Nornisのライブのために、2023年3月まで生きなければならない。にじさんじ甲子園のために、2023年8月まで生きなければならない。2023年12月、にじフェス2023で、アンジュに会うまで生きなければならない……。

そうして私は今日もこの世に命を繋ぎ止められている。

アンジュと話した日の帰り道。新宿新南口のサイゼリヤに向かいながら。私はアンジュに存在を肯定されたという事実をかみしめていた。たとえお世辞であっても。あのとき私の心に注ぎ足された自己肯定感は本物だから。

そして思う。


推しに肯定された生を自ら捨ててしまえるほど、私は愚かになりたくない。






京都の自宅に帰ったら、綿ロープは捨てよう。


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