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ものがある、と信じ込むのを辞めてみた

ものが存在するというのは真理ではなく信念である。そう思うことが増えた。これは私が非実在論者になったということなのだろうか。構築主義者になったということなのだろうか。分からない。私はあまり哲学に詳しくないから。[1]

ただ、原因は分かっている。私が鬱病になったからだ。鬱病になると「生きる意味が分からない」とか「自分には価値がない」とか言い出す。

今の私には、それはとても羨ましく感じる。なぜなら、彼らはまだ「意味」とか「価値」は在るもの、自分とは独立に存在するものとして無意識に信じられているからである。「ない」という表現は「ある」の否定であり、「ある」という概念を信じていない限り生まれない感性だ。「あるはずのものが感じられない」という感覚を持っているうちはまだ引き返せる。今すぐ精神科か心療内科の予約を入れてほしい。「意味」や「価値」といった社会的現実だけでなく、「存在」という物理的現実自体を疑い始めると今度こそもう後戻りできなくなる。単に哲学や物理学としてこの話題を扱う分には面白いが、精神が衰弱している状態で自分の立っている足場が薄氷だと知ってしまうのはかなり危ない。

何かモノがあると信じられないと、生きていくのは極めて難しい。見える世界は途端に骨組みを失い、宙を漂い始め、把持することができなくなる。そこに自ら仮定を置き意味を与え価値を与え健常な人間が見る世界を模倣するように適切なデータ処理をして世界を再構築するのには多大なエネルギーを要する。生物として致命的だ。

この記事では、そんな不自由で非効率的な生を生きることになってしまった人間の目には世界がどう映っているかを解説することを試みる。ゆえに今自分に見えている世界を解体されたくない方はブラウザバックすることをお勧めする。当記事が原因で統合失調症になった場合に筆者は責任を取らない。


社会的現実の解体

今の私には、机の上に見えるコップが存在しないように見えている。読者の皆様には、最終的にそのようになっていただく。ただ、いきなり目の前にあるコップの実在を疑いなさいと言われても無理な話だと思うので、一旦より浅いレイヤーで現実を解体するトレーニングを行ってみよう。

例1: お金

紙幣について考えてみる。第一に、一万円札そのものはお金ではない。お札という紙に、「これは他のものと交換できる」という共同体内の「信用」が上乗せされて初めてお金として機能する。ここで「紙」の部分が物理的現実にあたり、「信用」の部分が社会的現実にあたる。

なので、「紙」という物理的現実がそのままでもお金がお金でなくなることはあり得る。実際、一次大戦後のドイツや一昔前のジンバブエのインフレではそれが起こった。紙幣は紙幣のままでも、人々が「この紙は他のものと交換する能力がない」と考え始めれば、途端にお金という現実は消滅する。

……日本人のあなたがこうした例を身近に感じられないなら、「日本人の大半が突然日本円という概念を理解しなくなった世界」を想像してみるのも良いだろう。

あなたはおにぎりが食べたいと思う。コンビニで「100円」と書かれたシールが貼られたおにぎりを見つけ、レジに持っていく。そしてあなたは100円硬貨を出す。すると店員は言う。

「これは何ですか?」

「これは100円です」あなたは言う。「この100円でこのおにぎりをください」。店員はこう答える。

「なぜその円盤とこのおにぎりが交換できるのですか?」

あなたは説明を試みる。「その100円があれば、あなたは別のものを買うことができる」「そのような価値がある」と。しかし店員は答える。

「私の周りに、その円盤と他のものを交換してくれる人なんていません」「おにぎりが欲しいなら、おにぎりと同じ価値のある他のものを持って来てください」「この円盤にそのような価値があるとは思いません──」

──この思考実験において、100円玉という物理的現実には何も起きていない。100円玉が欠けていたわけでも、表面の数字が溶けていたわけでもない。異変が起きたのは「100円玉には100円の価値がある」という社会的現実のみである。「100円玉には100円の価値がある」というのをトートロジーに感じるなら、それはあなたが「日本円」という幻想を疑いようのない真実として思考の前提にしている証拠である。

そう、お金、ひいてはそれと交換する「価値」というものは、人間が後から与えた幻想なのである。その意味で、価値というのは「実在」[2]しない。

例2: 将棋の駒

次に将棋の駒を考えてみよう。「飛車」という駒が「飛車である」とはどういうことだろうか? 特徴的な五角形をしている。立てると下の方が少し厚い。そして表面に「飛車」と彫られている。裏側には「竜」と彫られている。大抵の場合木製かプラスチック製である。打つとパチンと音がする……等々、いろいろ思いつくことはあるだろう。だが、上に挙げたいずれの物理的現実も「飛車である」ことに必要ではない。

例えば、駒の代わりに「飛車」と書かれた付箋を使っても、将棋というゲームは問題なく行うことができる。石でも葉っぱでもいい。なんなら飛車と書かれている必要すらない。プレイヤーが「このおはじきはタテヨコに動くことができる」という了解を共有していれば、何も書かれていないおはじきでもかまわない。要は、飛車というのは将棋のルールを理解したプレイヤー間でのみ成立する共通幻想なのである。

人間が後から与えた意味であるという点で、飛車もまたお金と同じで社会的現実である。将棋盤という狭い社会の上を離れれば、飛車と書かれた単体の木の板があっても、「飛車」が存在することにはならない。

つまりどういうことだってばよ

お金の例では、物理的現実がそのままでも社会的現実が損なわれる様子を見た。逆に将棋の駒の例では、社会的現実が保たれていれば、物理的現実の仔細は問われないことを見た。

いずれの例も、ものがある、という主張はそのものに関係する関係者間の「協定」でしかないことを示している。「お金がある」ということも「飛車がある」ということも、期待される機能を果たすための協定として必要な仮定なのであり、そしてそれで十分なのである。

そう、社会的現実は、「ある」のではなく、「協定としてそういうことになっている」のだ。

この主張にあまり納得できない人は、安心してほしい。あなたは社会的生物である人間としてとても優秀である。他者と暗黙の了解を無意識に共有できるのは、子供の頃から受けてきた教育の賜物だ。人間の注意力資源が有限である以上、如何にこの協定に無意識に則ることができるかが生きやすさに直結する。「本当はないんだけど、あることにしているんだよね」などと考えるより、ただ「ある」と信じている方がどう考えても楽だし経済的だ。[3]

そんな健常な方にとって、私がこれから提示するもう一歩先の主張に納得するのはさらに難しいことだろう。



物理的現実の解体

ここまでの流れだと、社会的現実は「実在するわけではない」が、物理的現実は「実在する」ものだ、と聞こえるかもしれない。しかし私は「社会的現実」「物理的現実」という言葉を定義していない。そして今後定義することもない。同様に、何が実在して、何が実在しないか、という区別を行おうとすれば、「実在」を定義する必要があるが、そういったことを行うつもりも一切ない。

実在を定義してみろfake野郎

どういうことかというと、物理的現実もまた、社会的現実と同じ方法で解体できてしまうのである。解体した後で見えてくる世界においては、ある仮象が物理的現実か社会的現実かの区別はなく、どちらに分類されるかは人々がどれくらい強くその存在を信じているかの程度問題でしかなくなってしまう。

では、どうやって物理的現実を解体するのか? それには、社会的現実の解体以上に強いトレーニングもしくは天啓が必要になる。まず、一度大きなコペルニクス的転回を経る必要がある。


「もの」から「関係」への転回

さきほどのお金と飛車の例に戻ってみよう。お金は、何か他のものと交換するときに初めて機能する。何も買えない百円玉を、百円と呼ぶ理由は無い。また飛車は、将棋盤や他の駒との関係によって初めて規定される。床の上にぽつんと転がっている飛車は、「飛車である」という機能を発揮しない。

ここから得られる教訓は「ものは他のものとの関係によって初めて規定される」ということである。何物とも交換されないお金、というのはお金ではないし、将棋盤のマス目なしでは飛車の動き方は指定できない。何物とも関係しない、独立したものというのは、端的に言って、考えても仕方のない概念である。

この発想が、「ものはない」世界への入り口になっている。自分以外に日本円を使っている人が一人も居なくなった時、財布の中の一万円札を躊躇いなく破れるという自信がある人は、この入り口に立てている。だが門をくぐるにはさらに一歩踏み出さねばならない。

その一歩とは「まずものがあり、それが関係している」という立場から、「まず関係しており、そこにものを仮想する」という立場への転換である[4]。

注意すべきことに、この一歩を踏み出した先に床はない。引き返すなら今のうちである。なぜなら扉の先は、存在を第一とするのではなく、関係を第一とする世界だからである。そこでは「床がある」のではなく、「踏み込むと、反発される」のである。「床」は、この「操作と応答」の関係という第一データから二次的に「仮想」されるものでしかなくなる。

いま「床がなければ、踏み込むことも反発されることもないだろう」とか、「ものがなければ、関係するもクソもないだろう」とか思った読者は、まだ一歩を踏み出せていない。ここが「ものはない」世界を理解する上で乗り越えるべき最大のハードルであり、同時に社会で健全に生きるためには乗り越えてはならないハードルなのである。

このハードルを越えるのは難しい。見方によっては不可能である。というのも、我々が使用する言語は全て「まずものがある」ことを土台にして構築されている。だから、「関係する」という言葉を使おうと思ったら「何と何が関係するのか」の「何」の部分に当てはまるものが先に想定されていなければならない。ゆえに自己言及的な問題が発生する。「関係第一」の世界を説明するのに「もの第一」の道具を使わざるを得ないのだ。これは言語一般におけるゲーデルの不完全性定理のようなもので、もしそれが成り立っているなら、この説明の試みは不可能であることになる。だから、できることなら、私はこれを「言語の外で」説明したくて仕方がない。「関係第一」の世界に住み始めて以降、私はずっとこのもどかしさに悩まされている。

ともかく、そうした矛盾を孕んでいる以上、「まず関係しており、」のように、主語や目的語なしに動詞を使うといった違和感は発生せざるを得ないのである。読者はこの事情を頭の片隅に置いて、なるべく言葉の外を想像するようにして以降の文章を読み進めてほしい。


なぜ我々は「ものがある」と思うのか

「ものはない」という世界観を説明する前に、まずなぜ我々は「ものがある」と感じるのかを考察しておこう。

生物は基本的に効率厨である。なぜなら相対的に効率の悪い生物は徐々に滅びるからである。その結果生き残ったのが我々であるため、我々は必然的に効率厨である。そして、「もの」の概念を習得することは、世界を把握し生き残る上でとても効率が良い。

例えば机にコップがあり、あなたがそれを見ているとしよう。あなたは机の反対側に回り、反対側からコップを見ることもできる。このときあなたは初めに見たものと後で見たものがどちらも「コップである」と思うだろう。

これは当たり前のことだろうか? 否、きわめて非自明な主張である。これが当たり前に思えるのは、我々の思考がそう思えるように効率化されており、また同時に、我々の言語がその効率的思考を効率的に表現できるように構築されているからである。

冷静に考えてほしい。正面から見ているときと反対側から見ているときで、あなたの目に映っている景色は全く同じではない。これは反対側から見る場合に限らない。上からだろうが斜めからだろうがちょっと横から見る場合だろうが、視点を変える前と後で景色は異なっている。[5]

しかし、この認識のまま生活を営むことは極めて困難である。目の前にコップがあっても、別の角度から見た瞬間「コップではない新たな何か」見えるようでは、水を飲むことはできないだろう。一歩歩く度に周囲が全くの別世界に感じるようでは、家を出ることも家に帰ることも叶わないだろう。我々は生きていけない。一瞬にして脳は処理落ちを起こし、あるいは熱暴走して溶けて死んでしまうだろう。

それでも我々が生きていけているのは、氾濫する情報から、活動する上で必要な情報のみを抜き出し、それ以外の情報を意識の外に廃棄しているからである。

こう聞いて、もし今あなたが「情報がたくさんあり、そのうち必要なものだけをピックアップしている」という印象を持ったのなら、それは再び「もの」の概念に捕らわれている。状況はもっとダイナミックである。情報は様々に組み替えることができ、どの情報の並べ方ももとの並べ方と行き来できる限りは等価であるが、だからといって変換前に「もの」と思われた概念が変換後には滅茶苦茶に散らばっていないとも限らない。

「もの」はそれらの組み換えのうち、特定の情報の並べ方をした場合にのみ意味を持つ二次的な概念である。我々は常にこの情報の並べ替えをリアルタイムで無意識に選んでいるから、「もの」が常に意味のある概念として一次的な概念に感じられているだけである。

ではこの情報の並べ方がどうやって得られているかというと、操作と応答の成す関係を整理することによってである。コップの具体例に戻ろう。

我々はコップを動かしたり、自分が動いたりする「操作」によって景色の変化という「応答」を経験する。ただ、単に「変化している」というだけの関係では「もの」という二次的な概念を立ち上げるには不十分である。ポイントは、たまに「同じ」ように見えることがある、あるいはそのように想像できる、ということである。コップはどの軸で360度回しても元通りになるし、どこにコップを動かしても逆に動かし直せば元通りに見える。あなたが反対側からコップを見れば確かに景色は全く異なるが、再び反対側に戻れば同じ景色が得られる[6][7]。このように、自分が動く、やコップを動かす、といった操作繰り返し行った時、以前と同じように見えるという応答が返ってくるときがある(あるいはそのように想像する)。こうした時に初めて、人はものがあるという仮象を与えるのである。

逆に、赤い折り紙を裏返して、また裏返し直した時、青色が見えたとしたら、人はたちまち混乱してしまう。マジックを疑うとか、別の紙が重なっていたのだとか、とにかく別の仮象を仮定することによって混乱を解消しようとするだろう。また、四角い柱の周りを四回曲がって一周したら初めと全く違う景色が見えたとしたら、人は自分の正気を疑うだろう。夢を見ているのだと思うだろう。このように、「望めばいつでも同じ見た目を再現できる」という信念が裏切られれば「もの」という仮象はたちまち崩れ去ってしまう。

このように、ものの概念は我々の「私がこうすれば景色はこう見えるだろう」という継続的な期待と、それが期待通りに実現されたという継続的な確認作業の連続の中に立ち現れる。この継続的な「予測-確認」作業を常設タスクとして脳内で予め回しておくことで、目に入る大半の情報を「それはそう」として無意識に追いやることができる。そうして初めて、予測と異なる、すなわち命にかかわり得る注意すべき現象に着目できるようになるのである。これが我々の「効率の良い生き方」「効率の良い注意力資源の割き方」を実現している仕組みである。

普段ナイーブに生きるうちは、この情報の組み換え・廃棄が終わった後の世界しか見えてこない。要は、「ものがあり、それを見ている」「ものがあり、それが動いている」など、我々はとにかく「まずものがあって」という前提で思考するように訓練されてしまっているのだ[8]。もちろんそれが生きていく上では十分であり、生物としては「正解」である。

だが生物として不正解の私は、この仕組みを解体してしまった。そんな私の見る世界と同じ世界を見たいという変わり者のあなたに必要なのは、そう、さきほど言及した「もの」から「関係」への転換である。この思考転回を経ると、「ものがあり、それを見ている」は「見えており、ものを仮想する」に変貌する。


「もの」は「操作に対する応答のなす関係」から「仮想」される

あなたがコップを右に回せば、目には以前と異なる情報が入ってくるわけだが、同じだけ左に回せば、確かに元と同じ情報が入ってくる。この「回す」という操作に対する景色の応答がなす「関係」が我々に一次的に与えられているのであり、「もの」はそのデータを効率的に処理するために作り出される二次的な仮象である。

コップに限らず一般に視覚においては、我々に初めに与えられるのは視神経の数だけあるピクセルのRGBデータが、一瞬前と一瞬後で成す関係である。(※ある一瞬のデータ単体だけではだめである。実際、人間は止まって物を見ているつもりでも眼球は僅かに振動しており、この振動を打ち消す特殊な装置をつける実験では被験者の視界からものが消えてしまう)。「もの」は、右を向いたらこうなった、前に一歩進んだらこうなった、手でつかんで回したらこうなった、といった行為や操作の前後で異なる視界の間の「関係」から抽出される二次的な概念なのである。

さらに、視界に限らずより一般に、「もの」は「操作に対する応答のなす関係」から「仮想」されるといえる。

・善光寺の戒壇巡りにおいて、暗闇の中で手を伸ばすという操作に対し、押し返されるという応答から、そこに壁がある、と仮想する。

・古本を売るという操作に対し、百円玉という応答が返ってきた時、そこに「百円」という価値がある、と仮想する。

・中国語の文章を紙に書いて隙間に入れるという操作をすると、暫くして向こう側から中国語の返答が書かれた紙が返ってくるという応答から、そこに中国人が居る、と仮想する。[9]

・電荷を測ると-eという値が得られ、スピンを測ると1/2という値が得られ、質量を測ると9.1×10^{-31}kgという値が得られたとき、そこに電子という素粒子があると仮想する。

・二点間の距離を光で測るという操作に対し、その結果が振動したという応答から、そこに重力波が来たのだ、と仮想する。[10]

・二回連続してかけるという操作をすると、何もしないのと同じであったという応答から、それは「-1」という数である、と仮想する。

・殴るという操作をすると、「痛い!」という応答が返ってきた時、そこに人が居る、と仮想する。[11]

このように、自分に与えられているのは操作と応答の関係だけで、ものはその後に便宜的に与えた二次的な仮象、幻想であるように見えてきたのなら、「もの」の解体は完了である。

ではここで、あなたがものを解体できているかどうかここでテストしよう。

問題: ここに「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」がある。あなたはどちらを食べるか?









[シンキング・タイム]










答え: カレー味のうんこ

解説: 食べるという操作に対し「カレー味」がするという応答の関係が、我々に一次的に与えられるデータである。それが「うんこ」であるかどうか、というのは人が後付けで与える二次的な仮象の問題でしかない。



解体後の世界の見え方

これまで、「もの」は二次的な概念であると強調してきた。私がこれを強調するときは、いつも以下のことが念頭にある:

与えられた一つの「関係」に対して、そこから仮象される「もの」がちょうど一つ定まるわけではない。

つまり、同じ操作に対して同じ応答を返す「もの」というのは、複数考え得る[12]ということである。確かに、もし一つの操作-応答関係にたった一つのものがいつでも対応していたのなら、どちらが「一次的」とも言えず、ものより関係を重視する必要はなかっただろう。だが世の中はそうはなっていない。

例えば、180度回すという操作に対し元に戻るという応答を返すものには何があるだろうか? 数学的な図形を考えるだけでも、これは無数にある。正方形。長方形。平行四辺形。正六角形、正八角形、一般に正偶数角形は全部そうだし、円だってそうである。

さらに、90度回す操作に対しても元に戻るという応答を返すもの、に絞ってみよう。すると、正方形でない長方形や平行四辺形は除外される。正六角形や正十角形も除外される。一方八角形などの正(四の倍数)角形や円は生き残る。

さらに45度回す操作に対しても元に戻るという応答を返すもの、に絞ると、正方形は除外される一方、正八角形その他正(八の倍数)角形と円は生き残る……。

このように、様々な操作に対する様々な応答を想像することを繰り返しても、一つのものを特定できるとは限らない。

では、我々がどのようにしてこの困難を乗り越えているかというと、全てでなくともある程度の操作に対する応答が同じであれば、「同じもの」と考えることにしているのである。日常生活において、四角いものと丸いものを区別しないと困ることはありそうだが、正2^10=1024角形と円を区別しないと困ることなどない。あえて「もの第一」の表現をするなら、我々はある程度の解像度でしかものを判断しない、ということである。「関係第一」の表現にきちんと戻って言うなら、実際には我々はものを直接指定しているのではなく、操作と応答のセットを指定しているのである。


「同じさ」は人が与える意味である

ここで「ものはその性質によって決まる」「ものは性質の集まりである」と考えるのは間違いで、それでは再び「ものがあり、」思考に戻ってしまっている。この方向に進んでしまうと「性質というものがあって、それが束になっている」とか、「その性質を宿すための存在の”核”を仮定する」とか、どうしようもない話になってしまう。

ここで意識すべきことは、時と場合によって、与える操作と応答のセットは異なるということだ[13]。例えば、操作を「移動」、応答を「ピッタリ重なる」に設定したとき、そこには「合同」という等号が与えられる。このとき、大きさの等しい三角形同士は同じものである。一方、操作を「移動および拡大縮小」に設定し直すと、今度与えられる等号は「相似」である。このとき、大きさが異なっていても同じ角を持っている三角形同士は同じものである。さらに、操作を「連続変形」まで許すと、角度の異なる三角も同じになるだけでなく、四角形や円とも同じになる。数学ではこの等号を位相同型という。

このように、与える操作と応答のセットに依って、ものは決まるが、それは等号を与えることと等価であり、そしてどんな等号を与えるかは人が手で決めているのである。

次は日常的な例を考えてみよう。あなたがレストラン街で昼食を探しているとする。ある店頭で、ガラスケースにオムライスを見つけた。あなたはそれを見てオムライスが食べたいと思い、入店してオムライスを注文する。さて、あなたが初めに目にしたものは本当にオムライスだろうか? 

質問しておいて意地悪かもしれないが、あるものが、あるもの「である」か否か、という質問は、「ものはない」の立場からはナンセンスである。それは時と場合によるからだ。店頭のガラスケースにおいて「オムライスである」こととは、目を向けるという操作に対し、黄色く包まれたものに赤い液体がかかっているように見えるという応答が返ってくること、である。それ以上は必要ではない。一方、注文した後に届いた料理が「オムライスである」ことには、視覚的な情報に加え、食べるという操作に対して卵とケチャップの味がする、という応答が返ってくる、という「操作-応答」関係のセットも含まれている。レストランのテーブルにおいて、オムライスの食品サンプルはこれを満たさないという点で、オムライスではない。

お昼に食べるものを選ぶという段階において、店頭の展示品と注文で運ばれてきた料理はともに「オムライスである」という点で「同じ」であった。一方、実際に食べるとなると後者はオムライスであるが前者はオムライスではないという点で「異なる」。このように、何と何が同じであるか、の「等号」は、考える時と場合によって異なる。我々はその都度適切な「等号」を与え直しているのである。オムライスという「もの」は、その等号が与えられる毎に立ち現れる二次的な概念である。

別の例で、地球平面主義について考えてみよう。普段生活しているとき、地球が平面/球体であると仮定することで得られる利益/損害はほとんどない。実際、フラットアーサーもそうでない人も、普段は同じような生活を送っている(何ならフラットアーサーの方がちょっと幸せそうである)。日常生活においては「地球=平面」という仮定と「地球=球体」という仮定はどちらも妥当である。だが、ロケットを飛ばすとなると事情が変わる。イーロン・マスクがフラットアーサーだった場合、Space Xの事業は悉く失敗していただろう。宇宙開発においては、地球=平面という仮定と地球=球体という仮定は全く違った結果をもたらす。「この等号をとりあえず与えておけばOK」な場合と、そうでない場合があり、その場合ごとに立ち現れる「もの」は異なってくるのである。

また別の例で、ファスト映画について考えてみよう。ファスト映画の動画を見て満足する人と、ファスト映画はカスだと思う人の違いは何だろうか? それは、各人が与える「等号」の違いである。ファスト映画を摂取する人にとっては映画=ストーリーという等号が成り立っているため、早口でストーリーをまくしたててもらうのと劇場に行って実際に見るのとで「同じ」応答が得られたと感じるのである。一方ファスト映画はカスだと思う人は、映画=ストーリーという等号を与えておらず、劇場に行き、暗く静かな空間で大きな画面と深い音響の下、時間をかけて見るという操作の結果得られる感情という応答こそが映画だと思っている。要は、人がどのような「等号」を与えるかは、人によっても異なるのである。

このように、時と場合や人によって与える等号が異なるということは、それだけ「もの」の概念が相対的であるということである。極端な言い方をすれば、世の中は全て「異なって」おり、その中に「同じさ」の等号を与えることによって始めて「もの」が現れるのだ。つまり、「同じさ」は、人が与える意味である。初めからからものがあって、それらが同じだったり違ったりするのではなく、特定の操作に対する応答が同じだったときに、そこに「同じもの」が初めて与えられるのである。


エピローグ

地面が時々揺れるのは、地中に大きなドジョウが居て、暴れているからではないか。夜中に子供が居なくなるのは、天狗という妖怪が居て、彼らが子供をさらっているからではないか。異教徒が攻めてくるのは、天に神が居て、我々に試練を与えているからではないか……。人間の歴史は、混沌とした世界で得られる操作-応答の関係から、その操作-応答をちょうど説明できるような「もの」を仮定し検証することの繰り返しだった。

これらの「もの」は、あくまで「仮定」である。ほかの操作に対して期待通りの応答が返ってこなければ、その「もの」を棄却して、その両方を説明できる新たな「もの」を与え直すことになる。人間はこの手の試行錯誤に対し常に開かれており、適宜修正をすることで自分の脳を鍛え、環境に順応していくのである。

この仮説の設定と検証、棄却という営みの延長線上にあるのが科学である。アルケーは水であるとか言っていた時代からずいぶん経ち、今では分子、原子、はては素粒子というものがあることになっている。ただ、これらはいずれも仮定である。それはギリシャの時代から変わっていない。実験設定を色々変えるという操作に対する測定結果の応答を記録し、それら全てをよく説明する「もの」を空想する。電子を誰も見たことがないのに、なんで電子があると信じるの? という疑問がよくあるが、ここまで文章を読んでくれた方なら分かるだろう。電子というものがあるとする、という仮定の疑わしさと、コップというものがあるとする、という仮定の疑わしさは同じなのである。電子の存在を疑うその気持ちは、そのまま目の前のコップを疑う気持ちになって返ってくる。しかし、疑いながらも、我々は信じることにするのだ。とりあえず電子というものがあることにすればこれまでの実験結果を説明できるし、コップというものがあることにすれば、水を飲むことができるのだから。


参考文献

Tom Leinster (著), 斎藤 恭司 (監修), 土岡 俊介 (翻訳),「ベーシック圏論 普遍性からの速習コース」, 2017, 丸善出版
西郷 甲矢人 , 田口 茂, 「〈現実〉とは何か」, 2019, 筑摩選書
田口 茂, 「現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ」, 2014, 筑摩選書 
益田裕介, 「メタ認知を鍛える。最新の脳科学的見地から、俯瞰的にものを考えるコツを探る。構成主義的情動理論 リサ・フェルドマン・バレットhttps://youtu.be/ng9zKoOQlVU?si=KQXAkrsl1nuHOFft

脚注

[1] 筆者はおそらく非実在論者であり、わりと構築主義者で、かなり相対主義者で、あまり独我論者でなく、なかなか悲観主義者で、たまに反出生主義者である。

[2] ここでは「実在」という言葉は定義されていない。「『実在』しない」とはあくまで「みんなが"ある"と思っているものはそんなに確かなものじゃないよ」くらいの意味で使っている。

[3] 逆に、普段から「社会には常識なるものがあるらしくて……」「空気というものがあって、それを読まなければならなくて……」「こういう場面では、こうすることが良いとされていて……」といちいち考えてしまう社会不適合者は、社会において「ある」とされるものを「僕の知らない不可思議な協定」のように感じている点で、私の主張に納得しやすくなっていると思われる。

[4] カルロ・ロヴェッリ「世界は「関係」でできている」を立ち読みしたが、この点に関しては私と共通の認識を持っているようだった。https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AF%E3%80%8C%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B-%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%8F%E3%82%82%E9%81%8E%E6%BF%80%E3%81%AA%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%AB%96-%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%AA/dp/4140818816

[5] 私は「物の通時的同一性」について語っているのではない。「物の通時的同一性」を考えている時点で「存在」の概念を前提にしてしまっている。私はそれ以前の話をしているのである。

[6] 数学屋さん、物理屋さんはここで群の公理を思い浮かべたであろう。それは正しい。あなた方向けに説明するなら、単なる集合/クラスではだめで、何か構造があって初めて面白い/意味のある理論が現れるのだ、ということをここで言っている。

[7] 「360度」「右」「左」「反対」など、空間にまつわる単語がここで出てきてしまうのは、これまた言語の限界である。可能なら私は空間に一切言及せずに「操作-応答」の関係から「もの」が立ち現れることを説明したい。というのも、空間はものと相補的な概念で、どっちが先でどっちが後とか、どっちが実在でどっちが仮想とかいう話にはならない。実際には両者はセットで現れている。

[8] ニューラルネットワークの概念を知っている読者向けに説明すると、ある程度の時間幅に渡る視覚データを上流側にインプットすると、下流側には「こういう空間にこういうものが配置されている」という理解がアウトプットされるように我々の脳はトレーニングされている、ということである。

[9] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B

[10] https://ja.wikipedia.org/wiki/LIGO

[11] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%80%A7%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E9%9A%9C%E5%AE%B3

[12] 逆に一つもないこともあり得る。ミクロの世界では、三次元空間の中に粒子があり、それが動いている、という描像では実験設定という操作に対する観測結果の応答を絶対に説明できない。そこで代わりに、「ある」のは無限次元ヒルベルト空間中の「状態」であり、それが時間発展していると考えることによって始めて、確率的な測定結果を説明できるようになる。

[13] マルクス・ガブリエルが「なぜ世界は存在しないのか」の中で述べていた「意味の場」はこのことなのかもしれない。

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