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究極の真理があると思うのを辞めた話

2021年4月1日、エイプリルフールのタイムラインはいつも通り賑わっていた。私は「Twitterは初めから全部fake」などと斜に構えていたが、実際はもっと深刻な問題に直面していた。世界に本当のことが見つからなかったのだ。


その「正しい」はどういう意味ですか?

私は一応物理学をやっている。物理学は「正しい」という言葉を濫用する。「この式は正しい」「この仮定は正しい」「この結論は正しい」……これらはいずれも微妙に異なる意味で使われている。その意味は文脈に依っても変わりうる。

だから考えてしまう。物理をやる者として求めるべき「正しさ」とは何か。物理学者が目指している「宇宙の真理」とは何であるのか。「究極の真理」は存在するのか。

もっとも分かりやすい「正しさ」とは、「論理的な正しさ」だろう。

・「今は夜である。だから太陽は出ていない」
 これは「夜である」ことの定義から、正しい。

・「人はいずれ死ぬ。私は人である。だから私はいずれ死ぬ」
 これは典型的な三段論法であり、正しい。

・「質量を持つ物質は地球に引かれる。だから地球に引かれない物質に質量はない」
 後者は前者の対偶となっており、正しい。

ここで注目してほしいのは、論理には必ず定義と仮定が存在することである。「夜」「人」「私」「質量」「物質」「地球」などの言葉が何を指しているのか、これが定義である。そして「今は夜である」「人はいずれ死ぬ」「私は人である」「質量を持つ物質は地球に引かれる」などの主張、これらが仮定である。

論理は仮定が「正しい」ことを前提として展開される。しかしこの仮定の「正しさ」自体について、論理は何も言っていない。では「仮定の正しさ」はどうすれば確かめられるだろうか? 

一番簡単な方法は、別の論理の結論に今の論理の「仮定の正しさ」を保証してもらうことである。例えば「質量を持つ物質は地球に引かれる」という仮定は「質量同士は引かれ合う」という万有引力の法則から論理的に導くことができる。

だがすぐに、これでは何も解決していないことに気づくだろう。別の論理もまた、別の仮定から始まっており、その「仮定の正しさ」は保証されていないからである。万有引力の法則の正しさについて、万有引力の法則は何も言っていない。こうして正しさの探求は無限後退に陥り、我々は永遠に「正しさ」に辿り着くことができない。

しかし皆さんは、万有引力の法則を正しいものとして小学校で習っているはずだ。現代の物理学者も、日常的な条件では万有引力の法則がが正しいことを認めるだろう。世の中では「正しい」ことになっているが、そこに論理的根拠はない。この食い違いこそ、我々が自覚すべき「正しさ」の違いである。万有引力の法則の正しさは、論理的正しさではない。別の言い方をすれば、「論理的正しさの根源」は論理的正しさ以外のところにしかない。

この「正しさの根源」をどこに求めるかは、分野によって様々だ。

例えばイスラム教徒は、聖書やクルアーンから論理的に正しく読み取った内容に従って生活しているが、その聖書やクルアーン自体の「正しさ」はアッラーが保証している。

例えば社会学者は、「人には人種・性別に関係なく等しい権利が与えられている」等の仮定を元に社会のあるべき姿を論じるが、その仮定自体の「正しさ」は「人は皆平等であって欲しい」という悲痛な願いや倫理観に基づいている。

例えば科学者は、様々な原理や法則を前提に数学を使って論理的に議論を進めるが、その原理や法則自体の「正しさ」は「反証可能性があるにもかかわらず未だ反証されていないこと」を元に暫定的に信じられているだけである。

実際、20世紀には万有引力の法則(ニュートン重力)を反証する観測結果が表れ始めたため、今では一般相対性理論が代わりに重力を説明する理論になっている。一般相対論によれば質量のない光であっても近くの質量に影響されて曲がるとされているため、さきの主張は誤りということになる。このように、論理が正しくても仮定が間違っているせいで結論が間違うということは往々にして起こる。そしてもちろん、一般相対性理論にも反証される可能性は残されている。

神の言葉であること。信じたい倫理であること。反証可能性がありながら反証されていないこと。正しさの根源は実に様々であるが、誤解を恐れずに言えば、これらの「正しさの根源」に優劣はない

確かに「一貫性があること」「仮定が少ないこと」「予測能力があること」など理論の妥当性を判断する基準はいくつかあるが、いずれも相対的なもので、結局どれを信用するか決めるのは人間である。これらの「正しさの根源」を並べ立てて、どちらがより「正しい」か、を判定する一貫性を持ったアルゴリズムは存在しないのだ。

かくして、私の脳裏には「100%信頼できる正しさ」はどこにもないという恐ろしい予感が浮かび上がった。



究極の真理とは何だったのか

100%正しい真理は存在しない。この可能性に思い至ったとき、私は失望した。こうした不確かな「正しさ」に基づいて何かを述べることが、私には苦痛だった。何にも依拠しない「究極の真理」があり、そこから全てが演繹されていないと気が済まなかった。

もちろん、「100%正しい主張」は存在する。例えば「1=1である」といった主張だ。しかし、ここには私が望まない別の問題が存在する。それは「何も言っていない」という問題である。

この不満を自覚して初めて、自分が求めていたのは「100%正しく」かつ「世界について何かを言っている」主張のことだと知った。同時に、そんな「究極の真理」は幻想であることを知った。

一時期私はこの「究極の真理」が数学の中にあると思っていた。「五次方程式に解の公式は存在しない」「可分なヒルベルト空間は可算個の基底で張れる」「単連結な3次元閉多様体は3次元球面に同相である」等々の主張は、何にも依拠しない純粋な真実だと思っていた。

だがそれは勘違いだ。数学は「仮定の正しさ」に無頓着なだけだった。そもそも数学はまず人工的な仮定を置き、単に「その仮定が正しいような数の世界では何が起こるか」について考える学問である。今の私に言わせれば、上記の数学的主張は独立して見る限り「1=1である」という主張と同様、「100%正しいが、世界について何も言っていない」。

もちろん、これは数学という学問の価値の否定では全くない。数学以外の科学は全て、自分たちが打ち立てた問題を数学の問題に置き換えることによって成り立っている。正しい演繹とその結果を数学に委託することで初めて、科学者は有益な結論を得るのである。だから広い目で見れば、数学は様々なところで「世界について何かを言っている」。

日常的には、小学校で習うような算数が最も活躍していると思われる。あなたがミカンを3つ、私がミカンを4つ持っているなら、ミカンは合計7つである。これは数学的に、ペアノ算術から和を定義した後に演繹される事実であると思われる。

別の例として物理学がある。物理学者は「ボールの位置は時間の連続関数であるとする」「量子状態はヒルベルト空間の元であるとする」「時空は擬リーマン多様体であるとする」等の仮定をする。こうして数学者が演繹した結論を物理に持ち帰って、何かを予測したり設計したりできるようになる。

しかし「物理現象に何かしらの数学が対応している」という仮定自体は数学の論理の範疇外であり、何かから演繹されるものでなく、大いに帰納的な推論である。こうして、今度は手元にある主張が「世界について何か言っているが、100%正しいかわからない」主張になってしまっていることに気づく。例えばヒルベルト空間は複素数を含む数の体系であり、虚数単位iを含む。世の中を記述をするのに虚数を使っているなんて、疑わしいじゃないか、そう思うのは当然のことであるし、この疑いを完全に晴らすことはできない。

ここからが本当に驚くべきことだが、この不確かさは、本質的にミカンの例でも変わらないのである。世界における個数の概念が自然数という数学と完璧に対応しているという主張を、我々は確かめることができない。日常生活と数字を、物理現象と数学を対応させるのはいつでも人間であり、そこには常に恣意性が含まれてしまうからだ。

以上のことから、数学が私にとっての究極の真理にには該当しないことを、私は認めざるを得なくなった。



……となればもう、正しさを保証するものなどどこにも見つからないのではあるまいか?

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私は構築主義者ではないため、この結論をそのまま受け入れるつもりはない。だが、この困難を解決する糸口が少しも見えないのも事実だ。こうして私は、新年度初日から頭を抱えることになったわけだ。

「お前は無謬の真理の存在を仮定している」という批判があるのは分かっている。だがそれが全てで、それが終わりであることはきっと貴方も分かっているはずだ。それを認めてしまったら、今度こそ私は本当に、終わってしまうかもしれないんだ。


【ゆる募】究極の真理

というわけで、私は未だ「究極の真理」に巡り合えていません。もし「世界について何かを述べている100%正しい主張」を見つけたら、ぜひ私に教えてください、待ってます!!


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