バンコクにて

40歳をいくつか過ぎたというのに、まったく世界を見ていないことに気付いた私は、友人のS君を誘って、タイに行くことにした。

22時過ぎに家を出て、忘れ物を思い出し一度引き返し、また駅に向かった。雨が降り、雷が鳴っていたが、傘はバックパックの底にあるので、濡れて歩いた。

品川に出て、京急で羽田国際で降りた。空港のカウンターでチェックインを済ませ、食事エリアをざっと見たが、高い。過ぎたコンビニに戻り、牛丼を買い、ベンチで食べた。周囲にはすでに日本人ではない人々が多い。

入国審査では、ポケットの中身を引きずり出され、靴を脱がされた。搭乗ゲートは遠く、長い距離を歩き、たどり着くと、あとはただ待っているだけだった。10数年ぶりの海外。英語はほぼできない。

搭乗して、座席に座る。ようやく飛び立ち、しばらくするとサンドイッチが配られ、ビールを一本頼んだ。

通路を挟んで隣の初老の男性が、座席三つを使って横になると、大きないびきを立て始めた。僕は耳栓をつめて、アイマスクをして、首枕をふくらましてセットして、目を閉じた。

目が覚めたのは4時前だった。羽田発が00:20だから、4時間も寝ていない。もうすぐスワナプーム空港に到着するアナウンスがあり、飛行機は降り立ち、入国手続きを済ませ、3階のスターバックス前へ向かった。

S君と合流し、我々はシンプリーデリシャスというカフェでコーヒーをすすった。まだ鉄道が動く時間ではなかった。

6時を過ぎると、カフェには急に客が増え、我々は鉄道の駅へ向かった。

丸いプラスチックのコインのような切符を買い、パヤタイ駅でBTSに乗り換え、ナナ駅で降りると、今晩から2泊するホテルは目の前だった。荷を預け、スクンビット通りを歩き出した。

狭い歩道は、バンコク市民に朝食を供する屋台のためにさらに狭くなり、歩道はガタガタで、歩きにくかった。排気ガスと焼き鳥の匂いがただよっていた。揚げ物の油の匂いが少し吐き気をもよおした。色々な匂いが混じって、最後には生ごみのような匂いになっていった。

通勤時のためか、スクンビット通りには車があふれていた。トヨタとホンダが大半だった。バイクタクシーには長い行列ができ、大きな交差点にも信号はなかった。ドライバーたちは慣れているのか、突っ込んだ横断をしても、クラクションを鳴らされることはなかった。

我々は、ほこりっぽい空気を避け、ひとまずカレーを出しているカフェに入った。注文した豚肉のカレーは、「スパイシー」といううたい文句のわりにはパンチがなく、日本のレトルトのハヤシライスのような眠さだった。具材の、皮が分厚いグリーンピースを噛んでみても、うまいくはなかった。

S君のグリーンカレーを味見してみると、パンチの効いた辛さだった。

再びBTSに乗り込み、ナショナルスタジアム駅で降りて、MBKセンターへ。どんなものが売られているのか、見物して歩いた。S君がムエタイのショーツを値切っている間、向かい側のショップの虫の標本を見てみた。日本では見ることのない、図鑑でしか見たことのない虫だ。大きなムカデの標本もあった。この虫が死んだ後に、死骸を真っ直ぐにし、脚をきれいに揃えるのは大変だったはずだ。

昼食は、MBK7階のタイスキにした。タイの鍋料理だ。スープが不自然に甘くて、砂糖が入っているようだった。それほどうまくはなかった。

あちこちを徘徊した我々は、サラディン駅の近くで、タイ古式マッサージを体験した。足だけ30分。棒やへらを使い、容赦なく足をこねくり回され、痛さに息を呑みながら時間が過ぎ去り、歩き回って蓄積していた疲労が吹き飛んでいた。

腹が減った。スクンビット通りから少し路地に入ると、時間の流れが緩やかになった。いい雰囲気の食堂に入り、メニューを見て適当に注文した。

挽肉の炒め物はバジルとレモンによるさわやかな味付けが最高だった。タイに来て、やっとうまいものにありついた。

シンハービールを何本か飲み干し、最後に恐ろしく安いマンゴーとパパイヤを平らげると、もう満腹だった。

いったんホテルに帰り、休憩すると、夜だった。ナナプラザに行ってみた。一応は酒を供する場なのだが、建物が丸ごと、強力なある種のオーラに覆われているような、不健全で、猥雑なところだった。

ぶらぶらと建物内を歩き、2階に上り、バーの店先で呼び込みするでもなくたむろしているセクシーガールを眺めたりした。

ここはとてもいいところだ、ということがわかった。ガイドブックで、日本人向けと紹介されていたバーに入り、何杯かビールを飲むと、ナナプラザが好きになっていた。

帰り道、マクドナルドの店頭で合掌しているドナルドにうなずくと、夜は更けていき、スクンビット通りを行き交う人々は昼とはまったく違っていた。際どいボディコンに、頭髪を複雑に編み込んだ黒人のセクシーガールに、すれ違い様、そっと手を握られた。彼女の手のひらは、さらりと湿っていた。

部屋に帰った。洗面台の蛇口をひねっても水が出なかった。フロントに、これを英語で伝えるのは大変だ。洗面台の下をのぞき込むと、元栓らしいものがある。しゃがみこんで回すと、風呂と洗面台の蛇口から、勢いよく水が出た。顔を洗い、歯を磨き、再びしゃがんで元栓を閉じると、ベッドに入った。

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