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初めての精神科とミスチルとZARD|自分の歴史を音楽と振り返る⑨2007−08

2007年にZARDの坂井泉水が亡くなった。大ファンだった自分はそのニュースを現実のものと受け入れるまで時間がかかった。そんな自分、大学を6年かけて卒業したがうつ病のため就活できず、フリーターのまま過ごす日々。その頃に初めて精神科クリニックへ行くことになった。その頃の話を当時の音楽と振り返ってみる。


初めての精神科、そして初めての薬
Mr.Children「しるし」

大学1年の時から通っていた学生相談室。そこのカウンセラーに、精神科クリニックに行ってはどうかと提案された。初めて聞いた「精神科」というワード。それから連想されたのは、中で発狂している人たちがいる閉鎖病棟や、2001年の大阪府池田小学校児童殺傷事件のような事件の際の報道で耳に入った「精神科通院歴」という言葉だった。無理もない話ではあるが、当時の自分は、精神科への偏見がとても強かったのだ。だからとにかく反対した。何をされるかわからないと。

それでも、20歳で人生を閉じるつもりだったのにダラダラと生きている自分が苦しくて、とにかくどうにかしたくて、藁をも掴む思いで、Kという精神科クリニックに行くことになった。しかし、そこに2度と通うことは無かった。そのクリニックの医師がどうも説教的で、自分の言うことを「〜だからだめなんだ」といちいち否定してきたからだ。クリニックを出たら、手が震え全身が震え過呼吸になって、駅のベンチでもがいていた。今思うと、20歳の時の不登校・ひきこもり等の宿泊型教育施設での精神科医師によるトラウマが想起されたのだと思う。

カウンセラーにそのことを話し、別の精神科クリニックEに行くことになった。そこでは初めての診察の前に優しそうな方が私の話をじっくり聞いてくれた(その方が精神保健福祉士と後でわかり、私の人生が変わることになる)。医師も、他のクリニックの人と比べ、割と話しやすかった。

そこでは気分が落ち着く薬と言われて処方された。確かジェイゾロフトだったかな。これで自分もやがて多量投薬にされるんだろうと思いながらも、今すぐ死ぬよりはいいかと思い、初めて向精神薬を飲んだ。それからずっと服薬を続けたが、効果は全く実感できなかった。とはいえ、そのEにしばらくずっと通うことになる。

この頃の自分に一番近い曲といえば、ミスチルの「しるし」だと思う。主題歌となったドラマ「14歳の母」は賛否両論を巻き起こしていたのが印象的だ。私はドラマがどうこうというよりも、「しるし」の曲調、全体的にゆるやかで少し退廃的なムードが当時の自分に合っていた気がする。胎児をイメージしたというジャケットも、疲れていた自分を投影するのにぴったりだったのだろう。

ZARDとの別れ
ZARD「グロリアス マインド」

初めてCDを買ってから一番のファンだったZARD、その坂井泉水の死去のニュースはまさに突然だった。子宮頸癌を患い入院していた病院のスロープから転落したという。その後お別れ会が開かれ、自分も青山斎場に参列した。会場は、ZARDのイメージカラーとも言える、青や藍、紫や水色、そして白の花がたくさん添えられていた。ニュースのわけがわからないまま会場に来たが、それを見て「ああZARDだ」と。そこで静かに現実を受け入れた。

海や空の青さ。砂浜や雪の白さ。すれ違いの切なさ。恋のトキメキ。瑞々しさ。想いの強さ。後押ししてくれるまっすぐさ。ひたむきさ。詞と声で、色々な想いを分かち合い、支え、励まして、浄化してくれたのがZARDだった。もう新しい曲や声を聴くことはできない。でもこれまでの思い出と共に、これからもZARDの曲と声は自分の中で彩りを増やしていくだろう。

ZARDのラストシングルとなったのが「グロリアス マインド」。生前坂井泉水が最後に録音していた仮歌を形にしたものだ。具合がかなり悪かったそうで、母親が付き添ってレコーディングをしたという。しかし曲の声からその辛さは聴こえない。むしろそれさえも強さに変えようとしている、そんな声の表情だ。


という感じ。この時期は10代からのひとつの時代の終わりとなったのだと思う。次回はいよいよ就職、しかしパワハラに遭って…という話をしたいと思う。

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