(小説)がらんどうのあなた②
もうとっくに桜の季節は終わったものと思っていたのに、遊歩道のあちこちに名残惜しげに桜の花びらが散り敷かれている。やや色褪せ翳りを帯びた花びらも綺麗なものだ。ここは、街中にあるちょっとしたオアシスのようだ。今までは、自分には関係のない所だと思っていたけれど。
目的の場所は、遊歩道沿いのマンションの一室だった。街中を流れる川の片側が遊歩道になっていて、それに隣接する車道沿いに雑多な店が並んでいる。ちょっと遊歩道を歩いたぐらいでは、一階の店に気を取られて、雑居ビルなのかマンションなのか、二階以上の様子はすぐにはわからないだろう。
オープンカフェ形式になっている店の脇に目立たない出入り口があり、エレベーターで上階に通じている。山本さんから言われた通り、わたしは三階で降り、一番奥の部屋まで外廊下を歩いた。
隣のビルの陰になるせいか、廊下は暗い。昼間でもこんなに暗いなんで、気が滅入ってとても暮らせない。ぼろ家でも日当たりはいいわが家の方が、少しはましに思える。
わたしは軽く息を整えてから、一番奥の部屋のインターホンを押した。「はい。少々お待ち下さい」とやや甲高い声が響いた。
ドアが開き、顔を見せたのは、小柄で痩せた中年の女性だった。母よりは年下のように見える。そして母よりは品があるように思える。ただ品の欠けらも持ち合わせない母を基準にするのがそもそも間違っている、とすぐに気づいた。フリルやレースの目立つ少女じみた服装のせいで、女性の実年齢は霧の中へと消えていくような心持ちになる。
「こちらへどうぞ」
女性の後に続き、短い廊下の先にあるリビングにわたしは入った。
外廊下の印象とは対照的にリビングは明るく、広さもある空間になっていて、わたしは驚いた。二間続きの部屋の仕切りを取り、改装したのかもしれない。大きな出窓がさらに明るさに貢献している。そして多分出窓の側に立てば、遊歩道や川が望めるのだろう。
女性が勧めたのは、出窓の側のソファではなく、手前のダイニングテーブルだった。
わたしは気後れしつつ椅子に座った。女性はすぐにお茶を出してくれ、わたしの向かいに座った。多分美濃焼か何かの、金彩で縁取られた蓋付きの湯呑みが、漆塗りの茶托に載せられていた。
「履歴書を拝見できますか」
と単刀直入に言われ、わたしは慌ててバックの中から履歴書を取り出した。慌てたので、白い封筒の角が小さく折り曲がってしまった。
女性は無言で履歴書を眺めた。視線を下に向けると目蓋が落ち窪んでいるのが強調され、やや老けて見える。
「いろいろな職業を経験されているようですが、何か得たものがありますか」
特に何もない、と条件反射のように頭の中にその一言が浮かんだが、それをそのまま答えるわけにはいかない。わたしは必死に違う言葉を引き出そうとした。
「いろいろな職業を経験する中で、人や状況を観察する目は養えたような気がします。時間的には遠回りをしたかもしれませんが、無駄ではなかったと思っています」
まるで自分の言葉ではないように空々しく響く。居心地の悪さを感じながら、わたしは彼女の反応を待った。
「確かに、観察することは大事ですね。今は、自己主張したり、行動することばかりに気を取られている人が多すぎますね」
彼女はため息を飲みこんだような気がした。彼女のこれまでの人生から搾り出された言葉だったのだろうか。
その後いくつかの事務的な質問があり、しばらく間を置いた後、彼女は言った。
「採用決定します。来週から週一回、ここで私の話を聴いていただきます」
採用されるわけがないと面接の途中から諦めていたので、面食らったわたしは一瞬無言、無反応となった。
よろしくお願いします、と彼女が右手を差し出したので、わたしも慌てて右手を出した。彼女の指は思ったよりさらに細く、掌は少し湿っていた。
一週間後、再び彼女のマンションへ行き、わたしの新しい仕事が始まった。
彼女は前週と似たようなたっぷりとフリルのあしらわれたブラウスを着ていた。違うのは色で、前週は白、今日は薄いピンクだった。
面接を受けたテーブルではなく、窓際のソファを勧められ、座って待っていると、彼女はコーヒーを運んできた。ピンクと紫の小花柄のカップは、華やかな印象だった。
「コーヒー、お嫌いかしら?」
「そんなことありません。いただきます」
気詰まりと緊張からわたしの動きはぎこちなくなり、カップを持つ手がかすかに震えた。彼女はカップに口をつけ、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。彼女がカップをソーサーに置く音が、小鳥の囀りのように聞こえた。
「最初にお願い事をします。私の話を聴くのが、あなたの仕事です。相槌を打つのはかまいませんが、話の途中で口を挟んだり、私の話を否定したり、批判したりしないで下さい。ただ、頻繁でなければ質問はかまいません。話の流れについていけなくなったり、わかりにくい所があれば、遠慮なく質問して下さい」
そう言われても、わたしにはよくわからなかった。批判するなと言ったり、遠慮なく質問しろと言ったり、彼女の言っていることは矛盾しているような気がする。
「それでは早速始めますね。最初からこんなことを言うと驚くでしょうけど、言いますね。私は医師から余命半年と宣告されています」
そこで一旦言葉を切った彼女は、わたしの反応を窺うように視線を投げた。驚くより先にわたしの体は動きを止めた。頭頂から爪先まで瞬時に体の芯を射貫かれ、一ミリも動けない状態だ。
わたしの反応を気にする風もなく、彼女は続けた。
「膵臓癌のステージ四。末期の膵臓癌です。手術は不可能。化学療法も効果は薄い。先進医療を選択する人もいるらしいけれど、私はそうしないと決めました。そうしたとしても、数ヵ月延命できるかどうかで、ずっと病院のベッドに縛りつけられて、何もできないまま死んでいくなんて嫌だと思ったんです。家族には先進医療を受けてほしいと懇願されましたけど、私は自分の死に方は自分で決めたかったんです」
彼女の目には意志的かつ挑戦的な光が宿り、わたしが口を挟む余地などどこにもなかった。
「だってそうでしょ? 先進医療を受けてくれというのは、家族のエゴです。本人がどう死んでいきたいのか、本人の気持ちや希望を考えようともしない。決める力が残っている間は、最期の在り方を決めるのは本人でしょ。家族だってそれを奪うことはできない。そう思いませんか?」
彼女はわたしの意見を求めているのだろうか? 発言していいのかどうかもわからない。
「あの……わたしの意見を言っていいんですか?」
「私が質問した時は答えて下さい。答えたくない時は答えなくてもいいです。最初に言ったお願いにそれほど縛られなくても、臨機応変でいいですよ」
臨機応変と言われても、苦手なパターンだ。わたしはおずおずと切り出した。
「家族や大事な人にできるだけ長く生きてほしいと思うのは、自然な感情というか、当たり前なんじゃないでしょうか。誰でもそう思うんじゃないでしょうか」
「そうね。あなたの言う通りかもしれないわね。でも、私は嫌なの。死期が迫っているからこそ、自分が望む生き方、死に方をしたいのよ。そんなにわがままのことを言ってるかしら?」
わたしの方にちらっと視線を投げると、彼女は続けた。
「今までいろいろと我慢もしたし、不安や不満を抱えて生きてきたけれど、だからこそ最期ぐらい自分で決めたいのよ」
「今の日本では、自分が望むようには死ねないのかもしれませんね」
「昨年の夏に、橋田壽賀子さんが『安楽死で死なせて下さい』っていう本を出したでしょ。私も自分の望む死に方を宣言したいのよ」
宣言すればいいじゃないですか、と言いたいけれど、わたしが今の立場で、そんな無責任なことを軽々しく言えるわけもない。
(続く)
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