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(小説)池畔のダーザイン⑨

 かつてのわたしがそうだったように、ファミレスでもカフェでも似たようなグループ、似たような関係性に絡めとられている人間は、よく見かける。学校や職場や町内、老いも若きも、プライベートでも公共の場でも、懲りもせず成長もしない人間は、終わりのない悩みに弄ばれ続ける。
 雨は止みそうにない。雨筋が妙にくっきりと浮かび上がり、スローモーションで降り落ちていくように見える。
 会計をしている時、振り向くと、放心しているようなボスおばちゃんの顔が目に飛び込んできた。まるで満足感のない疲れた表情だった。それはそうだろう。あれだけしゃべったのに、誰も本気で聞いてはいなかったのだから。
 店を出て、車までの数メートルを走った。派手に跳ね上がった雨が、スカートの裾を濡らす。雨の流れる黒灰色の暗い路面は意外に柔らかくて、わたしはもっと走りたくなった。
 「晴れの国」と呼ばれる瀬戸内の町にいた頃は、一粒たりとも雨に濡れるのが嫌だったのに……。変われば変わるものだ。ルームミラーに映る、苦笑を浮かべた自分の顔は、どこかの異邦人のようだった。

 結局、六月までの二カ月近く大山に行くことはできなかった。緊急事態宣言は五月二十五日に全面解除となったものの、しばらくは他県への移動は恐る恐るといった感じだった。
 「六月より中国地方五県間の移動はよろしい」との県知事会の告知により、六月初めに一週間だけ大山に滞在した。その時には周囲の松林から蜩の声が響いてきて、もうそんな季節なのか、こんなに早く鳴き始めるのか、とひどく驚いた。夕方頃からマンションの部屋を突き抜けていくカナカナの響きは、物悲しいというより、堂にいった生命力を感じさせた。
 臨時休館していた図書館や映画館が再オープンし、わたしも二度延期していた歯科の定期検診に半年ぶりに行った。飲食店や観光業だけではなく、この春以降コロナウイルスの感染を恐れて病院へ行かない人が増え、歯科医院も大きく影響を受けたらしい。
 いつもと変わらない医師や歯科衛生士の対応に、何だか申し訳ないような気分になった。受付には「歯科治療でコロナウイルスに感染した事例はありません」という新聞記事のコピーが貼ってあり、今はその通りだと思うものの、三月からの三カ月間は、一時間近く口を開けた状態で歯石除去の処置を受けることに、不安を通り越し恐怖を感じていた。確証も曖昧で、恐怖の正体もわからないまま、ただ恐ろしいという感覚だけが肥大し、絡めとられていた。
 少しずつ以前の日常に戻っていくようでいて、閉ざされた時間と空間の記憶が、そう容易く元の顔を見せてくれるとは思えない。皆がいとも簡単に「新しい生活様式」を受け入れ、従っていることを、わたしは奇異に感じる。
 予防のための行動をするのは当たり前のことで、それは新しくもなければ、生活様式と呼べるものでもない。そんなものを生活様式になどしたくはない。感染を予防するために必要不可欠な行動だから、粛々と抜かりなく実行するだけのことだ。
 誰が言い出したのか知らないが、ネーミングに大失敗している。でも誰も文句を言わないのは、思考停止して気付いていないのか? その通りだと疑問を感じていないのか? だいたい「新しい」と付けるなら、もっと楽しく、もっとうきうきするような要素がなければ成立しない。手洗い、うがい、マスク、三密回避のどこにうきうき感があるというのか。わたしは納得できない。
 七月にはまた大山へ行きたいと思いながら、庭の草取り等の夏に向けての仕事に追われ、九州他日本各地で豪雨被害が続くのに心乱されているうちに、あっという間に時間が過ぎていく。七月に入ると、また感染者がぽろぽろ出始め、先行きの不透明感が増してきた。
 雨が多く、長い梅雨の晴れ間に一人草取りをしていると、突如憤然と腹立たしい気持ちが湧き上がってくる。
 毎年五月下旬に行われる町内の大掃除(溝掃除)は、不要不急だし、三密を避けるため、今年は延期になるだろうと予想していたら、なんとそのまま実行されたのだ。
 四月半ばに町内の役員が町内会費の集金に来た時、溝掃除は密になるから延期した方がいいのでは、役員で相談して下さい、とわたしはその役員に言ってみた。彼女も「多分延期になるでしょう」と当然のように答えた。その二日前に緊急事態宣言が全国に拡大されたばかりだった。
 四月下旬には、女優の岡江久美子がコロナウイルス感染により亡くなり、ゴールデンウィークは全国的に自粛ムード一色となった。だから当然大掃除の延期を疑っていなかったのに、無造作にポストに投げ込まれたのは、予定通り実施と書かれた無言の白い紙だった。
 わたしはその女性役員に経緯を問いただしたかったが、幸か不幸か、大掃除の三日前に三十九県で非常事態宣言は解除となった。
 大掃除の当日、その役員は言い訳するようにこそこそとわたしに耳打ちした。
 役員会で誰も延期とか反対とか言わなかったからーー。
 わたしより年上のその女性は、言わなかったのだ。言う勇気がなかったのだ、と直感的に思った。自分の意見として言う勇気がないなら、こういう意見がありましたと言うこともできただろうに、それさえしなかった。
 わたしが近隣の町内も今日大掃除をしているのかと聞いたら、うちの町内だけで、他は延期になったーーと悪びれる様子もなく彼女は言った。
 感情の動きの薄いのっぺりとした彼女の顔を見ているうちに、わたしは思った。
 彼女も他の役員も、皆真面目で愚かなのだ。けれど、その組み合わせは致命的だ。真面目で愚かだからこそ、疑問も持たないし、容易に思考停止してしまうのだろう。
 大山以前と、大山以後の自分で何が変わったのだろう。自分でもまだよくわからないが、大山以前だったら、のっぺり顔の彼女と似たようなものだったと思う。真面目で愚かな彼女に意見を言うことさえ、思い浮かばなかったかもしれない。衆愚の象徴のような真面目で愚かな人間をさえ恐れ、自分は取るに足らないちっぽけな存在だと卑下していた。
 昨日まで雨が降っていたので抜きやすいかと思いきや、深く根を張る雑草は強かで手強い。軍手の中で手が蒸れ、右手の薬指と小指の間が痛む。かんかん照りではないものの、どうにも蒸し暑くて身体中から汗が吹き出る。遅々として終わらない草取りを早く済ませて大山へ行きたい。その思いだけで、わたしは土から離れようとしない雑草と格闘し続けた。
                             (続く)

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