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クリスマスに犬をもらう。

本を読んで、ホラを吹く。 第三回はクリスマス・ストーリー。

「天国とは、他の犬。」 

 クリスマスにをもらう。はイヌではない。イエイヌどころか、イヌ属にすら属している気配がない。たぶん、ネコ目のカテゴリにも漏れる。動物界と脊索動物門のあいだのどこかにぶらさがって、どうにか存在を保っているような、不安な瞳の四ツ足だった。
 うろんな生命でも生命ではあるのだし、モノあつかいしてクリスマスプレゼントにしてしまうのはどうなのか。例年のように古本屋で拾ってきた時代小説のほうがいい。でも、三宅さんが「いらないなら保健所だ」というので引き取らざるをえない。最近では保健所とは禽獣よりも人間に縁深い単語で、そこにが収容される姿はあまり想像できない。
 三ヶ月ほど鶏肉をやったり魚肉ソーセージをやったり毎日三十分ほどの散歩につれだったりで養っていたけれど、これがまったくなつかない。鳴き声すら発さない。虐待を受けていたイヌは狷介になるというけれど、そもそもイヌではないので生来ヒトと交わらない性分かもしれなかった。
 ヒトの飼う生物で、ヒトになつかない種は多い。でもそれは、爬虫類や魚類といった、小柄で顔つきからしてヒトにはなつかなさそうな風情の生物だ。かたや、イヌはヒトになつくものだという通念がある。はイヌではないけれど、やはりひとつ屋根の下でそれなりのサイズのなにかが自分とかかわりなく空間を占めているのは窮屈だ。
 は大変おりこうさんで、教えてもないのにコーヒーミルや無水自動調理鍋の操作をおぼえ、みるみるうち、こなれていく。朝食として、はちみつたっぷりのライスポーリッジとアラビカ豆100%のエスプレッソをおのれで賄うまでになる。
 は日々向上していく。 
 こちらはなぜだか日々不安がつのっていく。
 桜花賞の翌日、すってんてんの三宅さんがアポもなしにうちへ来る。
 追加で五万払えば会話機能をつけてくれるという。
 無料のなど幻想にすぎない。わかっていたはずだ。それでも、クレジットカード用の電子署名欄に自署していると、詐欺にあったような心地に囚われる。しかも消費税でエクストラに五千円も取られる。をもらったときには別途一割のがつかなかったのに。
 利用規約を読むと「本機能の利用を通じて、が抑うつ状態になっても三宅さんは責任を取りません」といった奇妙で不穏な免責事項が眼にとまった。三宅さんにこれはなんだと詰め寄る。三宅さんはあくまで万一のための注意だと前置きしたうえで、「一般に、動物が言葉に寄りすぎると鬱々としがちだから」と説明になっていない説明をする。言葉を使わない動物だって鬱にはかかるのだけれど、いちおうね、念のため、念のためだからね、と何度も釘を差して、赤と緑のストライプの四角いフィルムのようなものを何枚かくれた。の舌に乗せればがハッピーになるのだという。ヒトには効かない。イヌにも効かない。
 安心してほしい。この話では鬱にならない。
 いい忘れていたけれど、これは昔ながらのクリスマス・ストーリーだ。どんな動物も、たとえがイヌでなかったとしても、不幸に陥ることはない。ハッピーエンドを約束しよう。
 翌日、が死ぬ。
 居間のソファで泡を吹いて硬くなっていた。フィルムのやりすぎだ。
 死体になっても空間を取るので、三宅さんに引き取りを頼む。すると、半日ほどのちに新しいをくれる。
 タダで。
 新しいは前のとぜんぜん似ておらず、脚もない。ふかふかな毛をミドリムシの鞭毛のようにして移動する。床のホコリを勝手にはらってくれ、お得感がある。三宅さんは、「会話機能は外付けだから引きつづき使えるよ。あとこの状態だと学習とかしないんだけど、まあいいよね」
 が成長してもろくなおもいはしないので、いいですよ、という。
 会話機能は翌日の夜から作動しはじめた。
「"RESFEBER"(「旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること。」)、”RESFEBER"(「旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること。」)」
 こっけいな鳴き声、とおもいかけて、そうか、会話、と合点する。
 しかし、いっていることがわからない。
 とりあえず、
「こんにちわ、こんにちわ」
 と返す。
 はそうそうと昏い毛の奥の発声器官からリッチな倍音を響かせる。
「”RESFEBER"(「旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること。」)!」
 どうやら、よろこんでいる。意味するところは不明なのだが、なんとなく通じあう錯覚をおぼえ、こちらも昂揚する。
 最初はそれでよかったけれど、が発話するたびに孕まれているはずの語意を理解できないのが、だんだん不安になる。何語なのか、そもそも何語でもないのかすらもわからない。
 “RESFEBER”の由来がたまたま判明したのは、月額四千円で友達になってくれている友人にの動画を自慢したときだった。
「スウェーデン語だね」
 知らなかった。意味は? 
「旅行前に興奮して眠れない状態、とか?」
 が公園の砂場でぐるぐる周りながら「TIÁM(「はじめてその人に出会ったときの、自分の目の輝き。」)」と鳴く動画も撮っていたので、それも見せる。
「ごめん、わからない。シナモンロールプランの人ならわかるかもしれない」
 でも、シナモンロールプランの人は月額一万五千円かかる。
「じゃあ、一生わかんないままだね」
 麻婆豆腐プランの友人と会話が途切れて気まずくなる。麻婆豆腐プランを担当するような友人は、細かい気遣いもうまくとはいえない。
 それでも商売の自覚はあるらしい。LINE上でリアルタイム既読後の沈黙があんまり続くとさすがにまずいと感じたのか、「に本物の、見せてあげたら」と提案してくる。
 友人はとイヌを厳密に表記しわけないものの、文意は汲み取れる。
 というわけで、デパートなどによくあるイヌやネコやヒヨコを金で売っている場所にを連れていく。
 値札のついたイヌやネコはどれも小さくてころころしていて、イヌやネコっぽくない。未熟で劣ったイヌを種の規範にされてもイヌだってこまるだろう。店員にいって、おおきなイヌを見せてもらえないかと頼む。店員によると一定以上成長しきったイヌはよりよい場所に行く決まりになっていて、おおきなイヌの在庫はない。だが、店員が自宅にアラスカン・マラミュートというかなりおおきなイヌを飼っていて、それを見せてもらうことになる。
 店員が退勤するまで七階のレストラン街のサイゼリヤでと粘った。このごろ咳きこみがちながコホコホと毛を震わすと、隣の席の客たちがあからさまに顔をしかめて席を移動したり、会計を立ったりした。
 店員はおしゃれな私服に着替えて迎えに来た。地下鉄を乗り継いで、マラミュートの待つ家へ向かう。の毛が自動ドアに挟まるちょっとしたハプニングを乗りこえつつ、電車に揺られる。話の流れで店員に、おおきくなりすぎたイヌの行く、よりよい場所ってなんですか、と訊ねた。
「天国です」
 すべてのイヌは天国に行く。そんなテーゼを店員の口から初めて聞く。
「イヌの天国はヒトよりいい場所なのです」
 イヌにはイヌの天国がある。その昔、マーク・トウェインは「私はヒトの天国ではなく、イヌの天国に行きたい」と手紙に書いた。トウェインほどの大作家がいうのならば、上等な世界なのだろう。店員はそう述べる。
 トウェインも天国もよく知らないけれど、そういうものらしかった。
 店員の家は、地方の素封家の建てるお屋敷といった風情の構えだった。店員以外には誰も住んでいないらしい。漠とした静けさが不気味だったが、は屋敷内を跳ねるように這ってまわり、しっかり汚れて帰ってくる。
 マラミュートは家の中心を廊下とガラス戸で四方を囲むようにして設けられた中庭で、伏せの体勢になってねそべっていた。
 たしかにおおきい。予想より、かなりおおきい。店員の背丈くらいあるだろうか。ふつうのイヌの造形をそのままに縮尺だけ引きのばしたようで、下手なひとのフォトショップみたいな暴力性を感じる。
「今日は機嫌がいいなあ」と鼻歌をうたいながら、店員がガラス戸を開ける。が庭に放たれる。マラミュートはわずかに耳を動かしただけで伏せを解かず、無視をきめこむ。いっぽう、は興味津々といった様子でマラミュートの周囲をぐるぐるまわり、その鼻先で止まると「”PORONKUSEMA”(「トナカイが休憩なしで、疲れず移動できる距離。」)」と叫び、自在な毛でさわさわと巨体を包みこむ。
 包んだまま、の散発的な咳が聞こえるだけの三十分が経過する。
 お茶のおかわりを手渡しながら、店員がいう。
「別にイヌじゃなくてもよかったのではないですか。ネコとか、ヒヨコとかでも。あれはイヌじゃないのだし」
 そのとおりだ。名づけとはおそろしいもので、と呼んでいるとのように扱ってしまう。でも、どこまでいっても、はイヌではない。
 イヌにはイヌの天国がある。では、の天国も存在するのだろうか。
 店員に訊ねると、「の天国は聞きませんね」とそっけない。
 とすると、ソファで泡吹いて死んだは、どこに行ったのだろう。天国だけが彼岸ではないし、愛着といっても三ヶ月そこらぶんだけれど、釜茹でにされたりぐるぐる回転する棒を押させられたりする苦役とは無縁であってほしい。
 さらに一時間が経つ。すっかり夜の色に染まったの毛から、マラミュートが解放される。マラミュートはようやく立ちあがって、ガラス戸を叩いて飼い主に夕飯をねだる。
 そのうしろでは満足げに、
「🐶!(「言葉とは一種のだ。それは良い主人にも悪い主人にも、おなじように仕える。だからある行為に関して言葉そのものを責めようという気になったときには、われわれはまずを操る、その主人の顔を見抜くべきなのだと、ぼくはずっと考えてきた。」)」
 と鳴いた。
 その晩は店員が作った夕飯を一緒に食べた。もらってばかりで申し訳ない、と頭を下げると、店員は、
「いいんですよ。が来てくれたおかげでうちもすこし綺麗になりましたし。もうあんまり、掃除する気にもなれないんでね」
 それから店員は広壮な家に一人で暮らすことになった経緯を語り出すが、クリスマス・ストーリーにふさわしくない陰鬱で教訓ゼロの挿話であるし、ここでは伏せる。

 のおかげでうちの床は常にピカピカに磨かれる。そのぶん、の体毛はうす汚れ、ちょっと洗うのをなまけるとの見た目はゴミに近くになる。古いほうのだったらそのうち風呂を沸かすくらいはおぼえたのだろうけれど、新しいはまっさらなままだ。
 記憶もそうだろうか。の思い出は蓄積せず、仮に飼い主が突然いなくなっても、昨日とおなじ心持ちで生きていきそうだ。こちらには半年以上を共に暮らしただけの愛着が生じている。
 はどうだろうか。せめて毛の奥の表情さえうかがえればヒントや気休めを得られたかもしれない。しかし撥水性の高い毛はまさぐろうとすると反発し、濡らしてもシルエットを表さない。それにやたら手をつっこむとが不機嫌になってしまう。暴いたところで無貌かもしれない。
 をシャワーで洗いながら死んだのことを考える。死んだの顔を思い浮かべる。が挽いたコーヒーの香りや、ビーフストロガノフのにおいを思い出す。今のに対する不実を感じながら、あのだったら、あのだったら、と仮定が風呂場に溜まっていく。死んだあとの思い出のほうが多い気さえする。新しいなしでは古いを顧みもしなかったのだろうと考えると、自分の薄情がうらめしい。
 天国も地獄もイヌも人間の言葉でには関係ないのだけれど、それでも天国のほかに死んだあと幸せになれる場所を知らなくて、古いには天国にいてほしいと願ってしまう。
 ちかごろ、はあまりしゃべらなくなった。
 
 の咳は日に日にひどくなっていく。
 魚も鶏肉も受けつけなくなり、ツヤを失った長毛をだらんと広げて日がな一日眠る。言葉などもちろん発さない。
 三宅さんに相談すると、病院につれていったほうがいいと助言される。の病院。獣医を何軒かたらい回しにされた末に、保健所に流れつく。保健所にヒトが行くと野蛮な目にあわされるとのうわさだ。できれば行きたくなかったのだが、案の定、職員のおじさんから「なんで脚、つけなかったんですか!?」とめっぽうに叱られた。
 だって三宅さんが……と抗弁しようとするのを遮られ、「あんたねえ、ちょっと考えればわかるでしょ、脚なくしたら毛で動くようになって、毛で動くようになればハウスダストやらダニやら巻きこみまくる、そんで、コレだよ。あんたみたいな考えなしがねえ、殺すんですわ、おまえが死ねっての」
 面と向かって死ねと強い言葉をぶつけられるのは久しぶり、半年ぶりくらいだった。ボロボロに泣いてしまった。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝罪を口にしたけれど、おじさんは「あたしに謝ってもしゃーない。謝るんだったらに謝りなさい」と怒る人が頻用する正しいクリシェでなおいたぶる。いわれたので、にごめんなさい、ごめんなさい、と頭を下げながら、肚のうちでは、公務員ってなんて居丈高でヤなやつなんだろう、きっと公務員の研修に「ヤなやつになるための速習講座」がプログラムされているに違いない、国のあらゆる機関で”ヤなやつであること”が出世のための最重要な資格とされていて、YOEIC(国際ヤなやつ能力共通検定テスト)で800点以上取らないものは係長にもなれない、このおじさんはうだつが上がらなそうなのでたぶん一生ヒラでYOEICも600点クラスなんだろうけど、それでも性善なる世間一般の基準からすればかなりすごくヤなやつだ。ズル木とまではいかないがスネ夫くらいにはヤなやつだ。末端でこれだけヤなやつなら、この国はどれだけヤなヤツで溢れているのか。こんなのだから消費税があがったり……消費税があがったりするんだ!
 それはそれとして、はおじさんがなおしてくれる。
「”KABELSALAT”(「直訳すると『ケーブル・サラダ』。めちゃめちゃにもつれたケーブルのこと。」)」 
 よかった。
 自分が死にかけていたなんておもいもよらなそうな調子で、は由来不明の言葉を吠えまくる。
 おじさんもどこか誇らしげだ。やはり、保健所だけあって動物は好きなのだろう。
 あの、治療費は……とおずおず伺うと、おじさんは照れくさそうに手をひらひらさせ、「いらねえよ、最近の若いのは金、ねえんだろ」という。そして、「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる、それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、――だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ」と山本周五郎の『赤ひげ診療譚』のセリフを引用して胸を張る。
 黙ってパクればバレないという厚顔と、曲軒周五郎を引くにしても『赤ひげ』かよという見識でもうダメだったが、ここで頭を下げるのも代金だなとひとり納得し、謝して保健所を去る。

 をうちに連れて帰り、ふとカレンダーを見ると今日はクリスマスだ。
 もう一年経ったのか……と感慨にふけっていると、三宅さんから荷物が大小ふたつ届く。小さい包みには藤沢周平の『静かな木』が入っていた。あまり好みの作家ではない。半分ガッカリしながらおおきなほうの包みをやぶる。
 の脚が四本。それと、電動バリカン(フィリップスの自転車のサドルっぽいの)。
 バリカンでの毛をかり、脚をつける。
 するとなんという奇跡、古いほうのが現れる。
 慌てて三宅さんに問い合わせると、古いも新しいもどうやらおなじだったと判明する。新しいだとおもっていたのは三宅さんが薬物中毒治療のリハビリのために一時的に脚を外して、代替の移動手段として静電気で動く科学の毛を装着させていただけのことらしい。三宅さんは早い段階でこちらの勘違いに気づいていたけれど、ああいうひとだから、おもしろがって放っておいたのだという。
 安堵に似た要約できない感情に圧しつぶされ、腰が抜けそうになった。
 は死んでいなかった。死が不幸であるかどうかはそのひとの宗教観や倫理観によるので一概にはいえず、イヌならばともかくには死という概念を認知する能力があるか疑わしいが、ともかくが死んでなくてよかった。麻婆豆腐プランの友人(前任の人は十一月に退職して、利用プランに対してオーバーパフォーマンス気味に感じの良い人物に交代していた)も「よかったね」といってくれた。
 ヒトのよろこびは言葉によってにも共有されていて、ほら、こういっている。
「"WABI-SABI”!(生と死の自然のサイクルを受け入れ、不完全さの中にある美を見出すこと)」
 メリー・クリスマス。
 それとね、保健所に行ったヒトがひどい目にあう、なんてうわさは全部うそで、死んだらみんな、天国に行くんだよ。? は、のいるところが、どこだって天国さ。

                             〈千葉集〉


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※「天国とは、他の犬。」は『翻訳できない世界のことば』にインスパイアされたフィクションです。書籍の内容とは一切関係がございませんので、ご了承ください。

【本を読んで、ホラを吹く。】
創元社の本を読んで、作家・千葉集が法螺を吹くシリーズ企画。ジャンルとジャンルの境界線上を彷徨いながら、不定期にショートショートを連載中。
【千葉集 略歴】
作家。第10回創元SF短編賞(東京創元社主催)宮内悠介賞。文芸ニュースサイト「TREE」で連載書評「読書標識」を担当。また、はてなブログ『名馬であれば馬のうち』では映画・小説・漫画・ゲームなどについて執筆。