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【岸本寛史×近藤雄生】『いたみを抱えた人の話を聞く』刊行記念トークイベント報告

2024年2月15日に、オンラインセミナー「いたみを抱えた人の話を聞く」が開催されました。2023年9月に刊行された同名の書『いたみを抱えた人の話を聞く』の著者である緩和ケア医・岸本寛史氏とノンフィクション作家・近藤雄生氏によるオンラインでの対談イベントです。質問を含めて2時間超のこの対談には、270名を超える方がご参加くださり、非常に多くの方からご好評をいただきました。人の話をどう聞くか、医療と心理療法の違い、「いたみ」とはどのようなものか――。様々な話題に及んだこの対談の様子を広く共有できればと、以下、当日と同様にお二人が対話する形で、概要をまとめました。

書影『いたみを抱えた人の話を聞く』

本書の企画が生まれる経緯

岸本  静岡県立総合病院の岸本寛史と申します。今回の本は、ライターの近藤さんが私にインタビューをし、その内容をまとめてくださったものです。自分の話を近藤さんに聞いていただいて私自身がすごく癒されたという経験でもあり、「いたみを抱えた人」というのは私自身のことかなとも思っています。今日の対談では、本を作る過程でどんなことが起きたかを振り返るとともに、本の内容について少し掘り下げてお話しできたらと思っています。

近藤 今回、岸本先生のお話の聞き手となり、文章を執筆させていただきました。近藤雄生と申します。私は、緩和ケアについても臨床心理学についても全くの素人です。その自分がなぜこのような役割を担うことになったかを知っていただく意味も込めて、最初に、少し長めに自己紹介をさせていただきます。
私はいま、文章を書くことを生業としていますが、元々は物理学や数学が好きな理系の人間で、大学に入る前までは文筆を仕事にすることなど考えたことはありませんでした。しかし学生を終えたあと私は、就職はせず文章を書いて生きていく道を選びました。そのきっかけの一つが、吃音でした。
それほど症状が重かったわけではないのですが、私は、高校時代から吃音に悩まされるようになりました。大学時代は、どうにかして社会に出るまでに吃音を治さねばということが自分の一番のテーマでした。しかし当時は、吃音について有用な情報などほとんど見つからない時代です。治療法も原因もわからない中、私は、精神的にタフになれば治るんじゃないかなどと考えて、一人旅をしたりするようになりましたが、吃音の状態は変わりません。そのうちに、このままでは就職しても思うように働けない、フリーランスで生きる道を探ろうと考えるようになり、加えて、もっと旅がしたい、ノンフィクションの物語を書きたいという気持ちを持つようになりました。そうして私は、学生を終えたあと、旅をしながらライターになる道を模索すべく、日本を離れることにしたのでした。
当時付き合っていた彼女も長い旅がしたいと思っていた人だったため、それでは一緒に行こうということになり、結婚し、二人で旅立つことに。オーストラリア、東南アジア、中国、ユーラシア横断、ヨーロッパ、アフリカという順で、住んだり移動したりを繰り返し、結果、旅は5年以上に及びました。その間、ライターとして少しずつ仕事ができるようになっていくとともに、自分に大きな変化が起きました。それは、中国の雲南省に住んでいた時のある日を境に、吃音が軽減していったことです。浮き沈みはありながらもその後明らかに症状が減っていき、帰国してから3,4年が経ったころにはほとんど吃音で悩むこともなくなりました。そうしてその頃に、自分にとって最大のテーマとも言えた吃音に関するノンフィクションを書くべく、取材を始め、2019年に『吃音 伝えられないもどかしさ』という本を出版しました。そして、創元社の編集者・内貴麻美さんがその本を読んでくださったのをきっかけに、今回の本のご依頼をくださったのでした。
最初は、「死」をテーマに岸本先生に語っていただき、自分がその聞き手となるという企画でしたが、実際に岸本先生とお会いしてお話を伺う中で、先生のご経験や問題意識、そして自分が聞き手となる意味などを考えていく中で、「いたみを抱えた人の話を聞く」というテーマに行き着きました。自分は、緩和ケアも臨床心理学も門外漢ですが、このテーマであれば、吃音の当事者や関係者に多く話を聞いてきた経験や、自分自身の吃音当事者という経験も生かせるかもしれないと感じました。

対談イベントの様子①


記憶に基づいて書く

岸本  私は、これまで新聞やテレビから何度かインタビューを受けた経験から、今回のようなご依頼には正直警戒する気持ちがありました。取材者側が聞きたいテーマを聞いてこられ、そのうちに自分の考えていることとの間のずれが大きくなり違和感が生じる、という経験を少なからずしてきたためです。ですが今回は、創元社の内貴さんのお話を聞き、そして近藤さんの本を読ませていただいたりする中で、お任せしても大丈夫なように思い、お引き受けしました。ただ、その際に私はちょっと無茶な提案をさせてもらいました。インタビューを、録音を起こすのではなく、記憶に基づいて書いてほしいとお願いしたんです。
とはいえもちろん、一冊の本を書くとなると録音しないと現実的には難しいので録音はしてもらいましたが、記憶に基づいて文章を書くというスタンスを意識してほしいとお伝えしました。記憶に基づいて書くということは、じつは、心理療法においては日常的にやる方法で、私はこの方法を学生のときに初めて目の当たりにして衝撃を受けました。その経験がきっかけとなって私はその後、医学とともに心理学も学ぶようになり、医者になってからもこの方法を診療に取り入れてきたのですが、しかし、自分がそのような形で話を聞いてもらうという経験はこれまであまりありませんでした。そのため今回、近藤さんにそういうスタンスで聞いていただいて、これまでのインタビューとは全然違う経験ができました。クライアントさんもおそらくこのような感じで、診療の場で話しておられるんじゃないかなと想像することができ、私にとって貴重な経験となりました。

近藤 私もこれまでの経験から、インタビューする時の録音については思うところがありました。旅をしながらライターをしていた頃は、インタビューする際、録音せずにひたすら聞いてメモを取っていたのですが、旅を終えて帰国してからは録音するようになりました。すると気づくことがあったんです。録音すると当然音声は正確に残るものの、録音しない場合に比べて、その時の空気感や感じていたことが記憶に残りにくいと感じるようになったのです。そんなこともあったので、岸本先生にこのご提案をいただいた時には、何か通じるものを感じ、ますますやらせていただきたいと思うようになったのでした。
ところで岸本先生は、普段から記憶に基づいて書くということを患者さんに対して実践されていますが、先生のこれまでのご本を読むと、メモせずに聞いた患者さんのお話しがとても詳細に記録されていて驚かされます。このように細部まで記憶することは訓練によって可能になるのでしょうか。

岸本  そうですね、訓練もあると思いますし、やはり聞くときの意識が重要になってくると思います。自分の意識は常に患者さんの方に向けておく、ということが大切になります。細かい事実関係などは、その場で少しメモを取ることはありますが、あとは、全体の流れを自分の中に収めるということを意識して聞き、細かく書き残すことはしません。よく最近、お医者さんがパソコンばかり見ていると言われますが、メモを取るのもある意味そういう感じになってしまうようにも思います。

近藤 そうやって話を聞いていく中で、記憶に残る部分と残らない部分がある。その場合、どこが残ってどこが残らないか、ということにも意味があると、先生はおっしゃっています。

岸本  そうですね。話を聞いていると、記憶に残る部分と抜け落ちていく部分というのがどうしてもあります。しかし抜け落ちていく部分も、ふとした拍子でぱっと思い出すことがあります。そしてなぜあのとき自分はこの話を忘れたんだろうって考えていくと、自分自身の中にその理由が見えてきたりします。たとえば、その話から連想される、あまり思い出したくない事柄が自分の中にあったりするんです。すると、その時の自分の状態がこうだったから思い出せなかったのかもしれない、と自分自身の聞き方を振り返ることにつながったりもします。
私は、最近では若い先生と一緒に診察をすることが増えているのですが、緩和医療科の研修医の先生にはいつも、記憶に基づいて記録を取るということをやってもらうようにしています。すると、最初は数行しか書けなかった先生が2、3週間もすると10行ぐらい書いてくれるようになったりするんですね。書けるってことはそれだけ聞いているということです。つまり、だんだんとよく聞けるようになってくる。するとやはり患者さんとのやり取りは変っていくし、そういうやり取りが患者さんにとっては多分、話を聞いてもらえたと感じる経験に繋がり、それが患者さんの状態にも影響を与えていくように思います。


対象を外から操作する医療と、対象の内側に入り込む心理療法

近藤 本書では、臨床心理学と医学とでは依って立つところが大きく違うということが、一つの大きなテーマです。両者の違いを顕著に表している点として次のことがあります。すなわち、臨床心理学では、個々の患者またはクライアントが、治療などによってどのような経過をたどっていったかを詳しく追っていく「事例研究」を重視するのに対して、医学では、個々の事例そのものではなく、多数の事例から集まったデータを統計学的に解析することで得られる「エビデンス」を重視することです。この辺りについて、岸本先生から少しお話しいただいてよろしいでしょうか。

岸本  はい。私は、エビデンスを重視しすぎる現代の医学のあり方に対して疑問を持っていて、その点は本書の中でも触れています。エビデンスには歴史的な変遷があったことを最近、松村一志さんという社会学者の方が書かれた『エビデンスの社会学』という本で読みました。現代の医学において使われる「エビデンス」という言葉は、一言で言えば、対象を操作するために一番有効な方法は何かを知るための根拠、ということになろうかと思います。「対象を操作する」というのはたとえば、患者さんに対して、血圧をコントロールするとか、痛みを取るといったことです。つまり、患者さんの状態を望ましい方向へと「操作」するにはどんな方法を取るべきかを決めるためにエビデンスを参照する。それが現代の医学のあり方だと言えます。

近藤 患者さんの状態をどう「操作」して治癒へ向かわせるかを、データに基づくエビデンスによって決めていくということですね。

岸本  そういうことです。しかし心理療法の場合は、考え方が大きく異なります。いろんなやり方があるものの、基本的に心理療法のベースとなるのは、相手の話を聞くとともに、こちらもいたみを感じ、葛藤を抱えながら、出口を一緒に探していくことだと私は考えています。それは、対象を操作するということではありません。何かを操作するというよりも、自分自身も一緒になって、例えば容器の中に一緒に入って、ともに苦しみながらともに変化していくということのように私は捉えています。うまく表現するのが難しいのですが。
一方、私は医療者としてエビデンスは大事なものだと考えています。薬の選択をしたりするときには、様々なエビデンスを頭の片隅に置きます。ただ、現在の医療では、あまりにもエビデンスが重視されすぎるようになってしまった。そのために、簡単にはデータ化できない個々人の事情や内面の問題が置き去りにされがちであり、その結果、患者さんがなかなか楽になられない場合があるのです。それゆえに、エビデンスから少し離れて、もう少し違う形で患者さんとやり取りしていくことが必要であり、その際に心理療法のアプローチが大切になってくる、というのが私の考えです。

近藤  つまり医学の場合、「対象」(=患者)の外にいる医療者が、外から何か手を加えることによって対象の状態を変えていくというスタンス。それに対して心理療法は、治療者が自ら対象の内側に入っていき、一緒にうまくいく方法を探っていく、という感じになるのですね。

イベントの様子②


心の痛みと身体の痛みはつながっている

岸本  心理療法にもいろんな流儀があるのですが、基本的には私はそのように考えています。ところで、その点との関連でいま思い出したのですが、今回の本のタイトルは、『いたみを抱えた人の話を聞く』と決めていただきました。その案を聞いてすごくいいなと思ったのは「いたみ」をひらがなにしていただいたことです。ひらがなにすると、身体的な痛みだけじゃなくて心のいたみや、人をいたむ気持ちなど、いろんないたみを包摂するように感じたからです。ただ一方、じつは、いたみを「抱える」という部分には少し違和感がありました。というのは、いたみというのは何か形があって荷物のように抱えられるものではないと思うからです。よく「いたみを抱える」「いたみを取りましょう」などと言いますが、いたみは決して、荷物のように抱えたり下ろしたりできるものではないと私は思っています。もっとその人の存在そのものに深く絡んでいるというか、その人のあり方そのものがいたみという状態であり、体験である、という言い方ができるんじゃないかなと。

近藤 「抱える」という表現について、いまはじめて、そのような観点に気づかされました。確かに「いたみ」は、もっと捉えどころのないものとしてイメージする方が、しっくりくるような……。

岸本  「いたみ」というのは、本当に複雑なものです。たとえば、心の痛みと体の痛みは別のもののようにも思われることもあるかもしれませんが、じつは繋がっていることがこれまでに実験で示されてきました。心の痛みを感じている人は、身体的な痛みを受けている時と同じ脳の部位が活性化されていることがわかってきたんです。つまり、心の痛みも体の痛みも、「いたみ」の体験としては一緒という可能性がある。そのため私は、がんの患者さんが「痛い」って言われるとき、通常考えられるがんの浸潤による体の痛みだけでなく、体が痛いと同時に心も痛いし、いろんなところに「いたみ」が響いてるのではと思って、聞くようにしています。
例えば患者さんががんを告知されると、その数日後にお腹の痛みがすごく強くなるということがあるんです。その場合普通は、がんの痛みが強くなったのだと考えます。というのも、エビデンスから考えると、この痛みが告知と関係しているという見方は出てこないからです。そして、モルヒネを増やしたりなどするのですが、痛みを単に身体的な痛みとして対処しようとすると、モルヒネがたくさん要るということになりがちです。一方、告知されて気持ちが非常につらいのだろうなあと想像し、こちらがそのつらさも感じながらモルヒネを出したりすると、最小量の調整で済むというふうに私は考えています。がんの痛みとともに心の痛みも強くなっているので、医療者がそこに意識を向けると、患者さんの痛みを和らげることに繋がっていくんです。
そういうものの見方はきっと、個々の事例の流れを見ていくという心理療法的な目を持つことで出てくるものだと思っています。ただ一方、事例のことばかりに意識が向かい、エビデンス的な部分、つまり、外から客観的に見るというところが弱くなると、それはそれで行き詰まってしまうところがある。その両方の意識をともに持ちながら患者さんを見ていくことが大事なのかなと私は思っています。

近藤 試験前に緊張してお腹が痛くなるといったことはよくあるように思います。つまり、心と体の痛みが繋がっていることは、おそらく誰でも経験的にはしっくりきますよね。しかし心と体の痛みがどのように繋がっているかを、データと統計学によって示せと言われれば、それは容易ではありません。エビデンスという形では示しづらい。そしてそれゆえに医療の現場では考慮されなくなってしまう。それは確かに、現代の医療が抱える大きな問題であろうと改めて感じさせられます。


「描画」から多くのことを教わった

岸本  本の中ではあまり触れなかったのですが、私にとって大きな助けになっていることとしてもう一つここでお伝えしたいのは、「描画」のことです。これは、私の恩師である山中康裕先生から教えていただいた方法なのですが、患者さんに「実のなる木の絵を描いてください」と伝え、描いてもらう「バウムテスト」というものです。がんの患者さんにこの方法で絵を描いてもらって、私は本当にいろいろなことを教えられ、経験させてもらいました。
元気そうだなって思っておられる方でも、「実のなる木の絵を描いてください」ってお願いすると、すごく倒れそうな木だったり、葉っぱが全部落ちていたりといった絵を描かれたりする。すごくいろんなイメージが出てくるんです。すると、言葉では大丈夫だって言っておられても、描かれた木の中に全然違ったイメージが出てきて、この人はこんなに大変だったんだといったことが視覚的に伝わってくるんです。そういう視覚的なイメージをこちらが持ちながら話を聞いていると、同じ話も全然響き方が違ってきます。そしてそうやって話を聞いていくと、それがまた土台になって患者さんも話す内容が変わっていったり、いろんなことが出てきたりということがあるんです。こういうことも、いわゆるエビデンスからは全く出てこない部分です。今回の本の中ではあまり触れられなかったんですけれど、このような言葉以外の部分でのやり取りもすごく大事になってくることを意識しながら、いつも患者さんとやり取りをしています。

近藤 言葉では表現されないことが、イメージとして描かれ、そこから見えてくる患者さんの内面があるのですね。それはまさに、数値やデータから得られるエビデンスからはアプローチしようのない部分のように感じます。心と体は決して切り離せないし、数値によって理解できない部分は本当に大きいのだなあと思わされます。



以上、対談の一部を要約する形でお伝えしました。
お二人のやり取りは、こうした内容をさらに掘り下げていく形で進んでいきました。90分の対談のあとのQ&Aのコーナーでもたくさんのご質問をいただきました。ぜひ、『いたみを抱えた人の話を聞く』の書籍で、さらにじっくりとお二人の対話を読んでいただければ幸いです。

【著者プロフィール】
近藤雄生(こんどう・ゆうき)
1976年東京都生まれ。東京大学工学部卒業、同大学院修了。2003年、旅をしながらライターとして活動しようと、結婚直後の妻とともに日本を発つ。オーストラリア、東南アジア、中国、ユーラシア大陸で、5年以上にわたって、移動・定住を繰り返しながら月刊誌や週刊誌にルポルタージュなどを寄稿。2008年に帰国。以来、京都市を拠点に執筆する。著書に『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社)『旅に出よう』(岩波ジュニア新書)『遊牧夫婦』(角川文庫/ミシマ社)『まだ見ぬあの地へ』(産業編集センター)『10代のうちに考えておきたい 「なぜ?」「どうして?」』(岩波ジュニアスタートブックス)『オオカミと野生のイヌ』(共著、エクスナレッジ)などがある。大谷大学/放送大学 非常勤講師、理系ライター集団「チーム・パスカル」メンバー。ウェブサイトhttps://www.yukikondo.jp/

岸本寛史(きしもと・のりふみ)
1966年生まれ。1991年京都大学医学部卒業。内科医。富山大学保健管理センター助教授、京都大学医学部附属病院准教授を経て、現在、静岡県立総合病院副院長。主な著書『せん妄の緩和ケア』『迷走する緩和ケア』『がんと心理療法のこころみ』『バウムテスト入門』『緩和のこころ』(誠信書房)『緩和ケアという物語』(創元社)『ニューロサイコアナリシスへの招待』(編著、誠信書房)『がんと嘘と秘密』(共著、遠見書房)。主な訳書『神経精神分析入門』(青土社)『意識はどこから生まれてくるのか』『なぜ私は私であるのか』『ユングの『アイオーン』を読む』『キリスト元型』(共訳、青土社)『ナラティブ・メディスン』(共訳、医学書院)『バウムテスト第三版』『関係するこころ』(共訳、誠信書房)ほか。