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第17回|車酔いとプルースト効果

行動分析学を取り入れた「犬との暮らし方」にまつわる連載。犬と生きていくこととは、犬を飼うとはいかなることか。保護犬はると行動分析学者ボクの生活から、そのヒントをお届けします。*マガジンページはこちら

 小学校の遠足や林間学校でバスに乗る時に、ボクはいつも先頭の席に座らされていた。学級委員でもないのに。
 左隣の窓際席にはたいてい女子が座っていた。乗車前、校庭で整列して並んでいるときから喋らなくなり、顔面が少しずつ青白くなっていく。車酔いを恐れているのだ。ボクの役目は、その子に話し続けて気を引いて、最悪の事態を回避すること、そして最悪の事態が起こってしまっても、少しでも気晴らしになるように、やはり話しかけることだった。

 母が園長を勤めていた幼稚園に幼い頃から出入りしていたボクは、先生たちに可愛がられて育った。大人の女性と話す機会が多い、振り返れば随分とませたガキだったわけで、同級生の他の男子と比べると、女子に話かけることになんの躊躇もなかった。担任の先生がそこに目をつけたに違いない。


 すっかり忘却の彼方にあったのだが、車酔いして吐くはるを見ていたら、昨日のことのように鮮明に思い出し、自分でも驚いた。独特な匂いがきっかけとなって記憶が蘇る現象を心理学では「プルースト効果」という。まさにあれだ。

 はるの車酔いは那須塩原にあるアニマルファンスィアーズクラブ(AFC)からはるを連れて帰った日から始まっていた。このときは中型犬用の布製キャリーケースに入れ、車の後席にシートベルトで固定して、2時間半くらいの道のりだった。途中でケースが齧られ、破けていることに気がついた。次のサービスエリアに入り、キャリーケースの中を見ると、もどした跡がある。はるは背中を丸めてブルブルと小刻みに震えている。まるであのときの女子のように。

 一度、車から出して芝生のところに連れて行く。おしっこするかなと思ったが、しない。それどころかリードを引っ張って逃げようとする。尻尾はお尻の下に丸まったままだ。仕方なく、しばらく気の向くままに歩かせてから、車に戻った。助手席にはるを座らせ、キャリーケースを出して、ウエットティッシュで掃除した。どうやらお漏らしもしてしまったようだった。破れかけた穴をガムテープで補修し、とんでもなく抵抗するはるを無理やりキャリーケースに押し込み、とにかく一分一秒でも早く家に帰ろうと急いだのだった。

 はるは、その後、クレートに入ることを断固として拒否することになるのだが、この日の出来事がトラウマになってしまったのだと推測している。初めて会った男に、初めて狭い小さなケースに押し込まれ、初めて車の中で長時間揺られて、懸命に脱出をしようとしても出られなかったわけだから。

 この日以来、はるは車に乗せられるたびに吐くようになってしまった。近くの公園やドッグランまでは10-20分のドライブなのだが、出発早々もどしてしまう。AFCから近くの獣医さんまで車で移動したときには酔っていなかったので、トラウマの影響かもしれないし、キャリーケースに入れられて後席に一人ぼっちになることが原因なのかもしれない。齧られて破れた布製キャリーケースは廃棄し、頑丈で少し大きめのプラスティック製のキャリーケースを購入したが、とても快適そうには見えない。

 そこで、はるの車酔い防止対策を始めることにした。
 まずはキャリーケースだ。この頃、部屋の中ではクレートに慣れる練習を始めていたが、自分から入り、扉を閉めても落ち着いて寝転がれるような状態に至るまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。それに、キャリーケースに入れられたはるは、車が右折左折するたびにゆらゆらして体をケースの内側にぶつけている。万が一の事故の際に身を守ってくれる、犬にとってのシートベルトだとわかっていても、自分が犬でもこれなら酔う。

 ネットで色々検索し、ゆりかごのような箱を後席に取り付ける商品を見つけた。キャリーケースというよりキャリーボックスといった造りで、天井はない。高さは50cmくらいで、はるなら飛び越えられる高さ。クッションや毛布を敷きつめて、中に入って座ったら体重で沈み込むようにすれば、車が揺れても体をもっていかれにくくなりそうだ。シートベルトの代わりにはならないが、これならはるも自分から入ってくれるに違いない。

 まずはこの新しいキャリーボックスに慣れてもらう練習だ。ササミを茹でた特別なおやつを用意して、はるを車の横に誘う。すでに車そのものを警戒しているので及び腰だが、我慢強く待っていると、近づいてきてパクっと食べる。これをササミ一切れがなくなるまで続ける。今日はここまで。

 次の日は車のドアを開けたままで同じ練習をする。やはり最初は警戒しているが、最終的には寄って来てパクっと食べる。無理せず、この日もここまで。

 次の日はササミに加え、豚ロースを茹でたものも持っていく。車のドアを開けたまま、ドアの5cmくらい内側にササミを乗っけた右手を差し出し、食べたらすかさず、茹でた豚ロースをちぎって与える。パク。そのままシートの上に右手をだしたら、身を乗り出してパク。いい調子だ。右手をシートの奥にだし、左手ではるのお尻をちょっと押す。すると、はるはポンとシートに登って、パク。

 これはイケる。そう確信したボクはそのまま後席に乗り込み、右手を奥の席に設置したキャリーボックスの中に入れて、またはるのお尻をちょっと押してみる。すると、はるはキャリーボックスの側面をひょいっと乗り越えて中に入り、パク。茹で豚、最強! そのまま車の扉を閉めてみる。はるは気にしていない様子で、残りの豚ロースをキャリーボックスの中でたいらげて、その日の練習は終了。

 そうそう。書き忘れていたが、この手の練習をするのははるがお腹をすかせた時間帯に限る。夕方、散歩に行く前、朝食を食べてから10時間以上何も食べずにいる夕食の直前が適期だ。そして茹でササミや茹で豚のように、普段は与えていない、ここぞというときのおやつを使う。

 動いていない車とキャリーボックスに慣れたので、いよいよドライブ練習に移る。最初は長くても2-3分。マンションのまわりを1周する。「はる、どう? 快適? あれ? あそこ、アローのうちだね〜」と小学生のボクさながらに声をかけて気を散らし、スピードを出さずにできるだけゆっくりと角を曲がる。ちらちら後席をみていると、キャリーボックスの中で毛布にうずくまって座っている。

 駐車場に戻ったら、キャリーボックスから出てくるように促して、出たらすぐに豚ロースを今度はちょっと多めに与える。パクパク。これを3周して終わり。一度も吐かなかった。


 あとはドライブ練習の距離と時間、右折・左折の回数を少しずつ伸ばしていくだけだ。慎重に進めたために一ヶ月近くかかったが、近所の公園やドッグランまで酔わずに乗車できるようになった。今では促せば自分から車に乗るし、高速道路を含めて数時間連続でドライブしても問題なくなった。

 となると俄然と欲が出てくる。はるがうちに来てからというもの、山登りもダイビングにも行っていない。旅行そのものがとんとご無沙汰だ。伊豆や房総などの観光地にはペットと泊まれるホテルが続々と登場しているという。生まれて初めて『るるぶ』なる情報誌を買ってしまった。それも一度に数冊も。机の上に写真だらけの雑誌を並べ、昭和のドラマに登場していたOLのようにウキウキしながら、はるとの旅行を計画し始めた。

to be continued.

★プロフィール
島宗理(しまむね・さとる)[文]
法政大学文学部教授。専門は行動分析学。趣味は卓球。生まれはなぜか埼玉。Twitter: @simamune

たにあいこ [絵]
あってもなくても困らないものを作ったり、絵を描いたりしています。大阪生まれ、京都在住。instagram: taniaiko.doodle