竹田青嗣『〈在日〉という根拠 増補新版』の「解説(加藤典洋)」を全文公開
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●解説「頁をめくる風」
文・加藤典洋
ここには竹田青嗣の「在日」をめぐる考えの結晶がほぼすべて、おさめられている。中でも中心はその最初の評論集でこの文庫本の表題ともなっている『〈在日〉という根拠』だが、わたしはここでは、竹田のこの本から伝えられてくるいくつかの力点について、わたしの考えるところを書いてみようと思う。
わたしはこれまで竹田のいうこと、書くことに意表をつかれたことが少なくとも、二度ある。
その第一は、知りあって間もなく、話が井上陽水に及んだ時のことで、わたしが陽水の大麻事件に触れ、あんなにあっさり社会に「すみません」と頭をさげるのを見て、それ以来陽水のものは聴く気がしなくなったというと、竹田はこともなげに、いや、陽水の歌はあの後ぐっとよくなったんですよ、とわたしにいった。
その頃は、むろんまだあの『陽水の快楽』は書かれていない。ただ竹田の井上陽水への打ち込みは深く、それは、大学卒業後、ボイラーマンの仕事をアルバイトで続けた数年間、心のささえが陽水の歌だったという述懐に示されていて、その話をもわたしは、そのおりに聞いた。要するにわたしは、この時の竹田のこともなげにいった、陽水が社会に謝った、そしてその後の音楽がすごくいい、という逆接のない言い方に、深く意表をつかれたのである。
その第二は、彼の『世界という背理』を読んでいた時のことで、そこで竹田は小林秀雄の戦争中の言説を取りあげていたが、これを批判的に検討しながら小林の戦争責任に一言も触れていなかった。この竹田の評からわたしは、小林について、その戦争肯定の主張を、戦後的な観点から肯定するのでもなければ否定するのでもない、全く異質な批評がここにあるという感じをもった。そこで小林は、たとえば、「日本に生まれたことは僕等の運命だ」、大事なのはその運命に関する智慧を育てることだ、と述べ、おりしもはじまろうとしていた日本の「戦争」を肯定する論調に転じていた(「戦争について」)。わたしの知る限り、いわゆる戦争肯定論者以外で、この小林の発言を否定していない評者は、いまにいたるまで一人もいない(わたしも先にこれを批判している)。しかし竹田はこれを否定しないばかりか、むしろこれを「戦争の現実や民衆を『絶対化』した」と批判する本多秋五について、その批判は「全く無効であろう」と明解に断定していた。なぜそうなるのか。本多の批判には「日本の戦争が侵略戦争であり『悪』であったがゆえに、それに加担した言説は誤っていたという事後的な観点が隠されている」。当時の小林の持ち札にないもの、「事後の観点」からする批判は、容易だが、無効だ。ここには全く新しい批評の姿勢のマニフェストが示されているが、それはマニフェストされず、すでに書き手にとって自明のものとしてこともなげに語られていた。わたしは、先に竹田の逆接のない陽水肯定に意表をつかれたようにここでもその自明のものとしての小林肯定に、意表をつかれた。先に音楽を文学的に見ていたことを思い知らされたのと同じく、この度は、文学を政治的に見ていたことを、思い知らされる思いがしたのである。
竹田の在日論は、わたしに何より在日の問題を在日の問題として見る――これを文学的にでも政治的にでもなく――とはどういうことだろう、そんなことを考えさせる。しかしここには独特の問いの響きがある。竹田は、その問いを、ここにははなはだ見えにくいが、大事な岐路がある、そう感じさせる仕方で、わたし達の前におくのである。
たとえば音楽が好きだとはどういうことだろう。それは、音楽の本質を音楽固有の秩序で味わい、吟味すること、それ以外の判断基準でこれを裁断しないということである。しかし、そういうならここには二つの仕方の音楽への接近がある。ある人は音楽の本質にそれをめざすことによってたどりつく。しかし別の人は、同じものに、それ以外のものをめざさないこと、めざせないことで、たどりついているからである。この本を読んで、わたしに机上の本の頁をめくる風のようにやってくるのは、この後者の、在日の問題への接近の感触だ。それはわたしにきて、わたしの中の何かをめくる。この後者の感触が、ひるがえる頁の「裏」のように、一瞬わたしの視界をよぎるのである。
低温のものに長時間触れることによる火傷は傷が深い、わたしのスネにはそういう「ユタンポ」による火傷の痕が一つ残っているが、わたしは、竹田の書くものを通じて、ときどきそんなふうに、長く記憶に残る、意表のつかれ方を経験した。何といえばよいか、それは、「真空に触れる」、というのに似ている。指摘されて気づくのではない。指摘なしに、じかにその言い方から気づかされる。竹田の読者になら、こうわたしのいう意味が、わかるだろうが、竹田の言葉は遠赤外線と似ている。竹田は前にいるのにその言葉は背後から、わたし自身の内奥部から、わたしにやってくるのである。
竹田の在日論について、さしあたりわたしのいってみたいことは、次の二点である。
一つ、竹田の在日論は「在日」の「不遇の意識」を乗り越えようとするのでなく、その前にとどまり、じっと耳をすます、はじめての論である。わたしは総じてそこから、こんな声とのつながりを感じる。
まず、「わたしは極の極まであなたを愛した。しかしそれがあなたと何の関わりがあろう」、これはゲーテの言葉。また、あることに関して、「わたしは決して咎めはしない悲嘆者なんだ」、これはわたしの記憶にある中原中也の言葉。
この本の起点は『〈在日〉という根拠』に収められた金鶴泳論にある。そこで竹田は批評家としての自己発見をしている。ところでそこからわたしは、これが金の声なのか、竹田の声なのか、定かではないが、こんな声を聞く。そして、なかなか、いいな、と思うのである。
「わたしは極の極まで苦しんだ、しかし、そんなことに何の意味があるだろう」。
二つ、わたしが立ちどまるもう一つのことというのは、たとえばこんなことである。
「在日」とはどういう存在か。それはまず、いまいる社会から受け入れられず「不遇」であることを強いられた存在だ。たとえば「貧困」なら、個人の努力と運で、なんとかできる。でも、この在日の不遇には、この社会全体、世界全体の改変がない限り、出口がない。それは生まれてみたら「在日」だったという在日二世三世の人間にとっては、取り返しのつかない、その社会にいる限り出口のない、永続性の「不遇の意識」の別名である。
ところで、この「不遇の意識」について、竹田は独特の対し方を見せる。これまで在日論は、まずこれをどう乗り越えられるか、という処方箋として現れた。民族の誇りを回復することでこれを克服するというみちすじが示され、民族的自覚の獲得か敗北的な日本社会への同化か、という二者択一がつきつけられたこともあれば、万人の平等をいう戦後民主主義的な理念の実現をめざす実践に、その乗り越えの方途が指さされたこともある。しかし、竹田は、自分の場合、何か、この民族の誇り、戦後民主主義という乗り越えのみちすじは、うまく「フィット」しなかった。それに自分を合わせようとするとどこかにそぐわなさ、もどかしさ、不自然さ、があった、という。
そして、その結果どうなるかといえば、竹田は、在日朝鮮人作家の中にあって特異にも自分の吃音の経験の前にとどまりつづける金鶴泳の文学の形、不遇経験の「範形」を手がかりに、そこから、たとえば、次のような場所に、抜け出ていくのである。
竹田は、自分が誰か、よくわからない。在日の人間であれば、民族の誇りとか、被差別の社会的な怒りに立脚し、自己回復をめざすはずなのに、彼はそういう生の範形に自分の不遇感を「フィット」させることができない。ところが彼は、むしろこの自分の不遇感を世の中に用意されたどんな苦しみの範形にもフィットさせられない、という、他の「在日」達が不遇感からの回復をつうじ「在日」の自覚につながる時、不遇感からの回復不能という逆の回路に、自分が誰か、というそのアイデンティティの手がかりを見出すのである。
ところで、ここに語られていることを、「在日」の本質規定の深化といってみることは、間違いでない代わり、正確でもない。こういうところで、わたしはたとえば、「シュルレアリスト達が自己の想像力の構築をめざした時、アンリ・ミショーは自己の想像力の犠牲者だった」というような言葉を思い出す。竹田は、いわばはじめて在日論の問題領域にアイデンティティから見放された存在、非アイデンティティ的存在としての「在日」という本質規定をもたらすが、彼自身は、その本質規定により、彼の「在日」としてのアイデンティティを築いている。彼はアイデンティティのないこと、それが自分のアイデンティティだというが、そこで彼はアイデンティティを発見しているのではない。そう言うことでアイデンティティを、いわば作っているのである。
たぶん、このあたりが、彼の在日論の最も深いところだろう。
竹田の在日論に接するとは、そこから吹いてくるこういう風に何かをめくりかえされる経験をさす。でも、実をいえば、こういうことが、いわずもがなのことなのか、その逆なのか、わたしにはよくわからないのである。
たとえば彼は、芥川賞を取ってその後早世した在日三世の作家李良枝の同賞受賞作『由熙』について、世の作家批評家とはちょうど一八〇度違う評を下す。これを多くの評家はアイデンティティに引き裂かれる主人公の苦しみを描いたものとして肯定的に評価したが、彼によれば、それは、「アイデンティティに引き裂かれる人間」という誰にも理解されやすい物語を深く突き破ることのできなかった点、前作『刻』に及ばない残念な作である。竹田によれば、彼女の前作は、同じく「在日であること」をモチーフに掲げているが、それは意匠にすぎない。在日の若い小説家が「在日であること」をテーマに選ぶが、それが意匠でしかない、このことに、竹田はその作品の紛れもない新しさを認めるので、つまり、評価の軸が竹田とその他の作家批評家では、一八〇度まるきり、ポジとネガのようにずれているのである。
竹田は「在日」日本人という言葉について、こう書いている。
彼がいうのは、不遇の意識からの回復不能を生きることは、その回復不能を理念化し、その理念を生きることとは「ひどく隔た」っている、ということだ。回復不能を生きること、ナショナル・アイデンティティをもたずに生きることは、回復をめざし、アイデンティティを希求しつつ、しかもそこから排除され続ける、という経験をさすので、彼によれば、共同体から排除されたマイノリティの一員であることとマジョリティの一員として、共同体を否認したりこれに反発したりすることとは、「ひどく隔た」った似て非なることなのである。
そう、狂気に苦しむ人と狂気をあこがれる人くらいにそれは違っている。ある意味では現在「在日」という言葉は、「国際化」や「多文化主義」といった「多様性を認めあう社会」を生み出すためのキーワードになりつつあるが、それとたとえば金鶴泳の文学の示す「在日」は、「ひどく」違うのである。
このあたり、わたしは竹田の言葉につけ加えることができない。竹田の言葉は、これ以上ない正確さで、石を切り出すように、一つのことをいっているからだ。
この本の白眉は、わたしの見るところ、『〈在日〉という根拠』の金鶴泳論とその金氏の追悼文「苦しみの由来」だが、いまから一三年前に書かれた金鶴泳論で、すでに竹田はこう書いている。末尾近く、金が、「在日」という物語の交差し合う場所に生きながら「どんな物語からも拒否され続けた」ことに触れた後、
国内亡命であるとか、共同体の外部とか、この文章が書かれてからの十数年間、この国には、ポストモダンな思想と文学が花咲いた。わたしはこの本の著者とかなり親しい間柄だが、ひさしぶりにその最初の評論集を読んで、いまわたしの知る彼の思想がもうこの評論集にすべて現れていることにあらためて驚いている。わたし達がいるのはどういう子どもの国か。わたしにやってくるのは、大人の思想の感触、いつか知らないが、こういうものを書く場所にくるまで、もうずいぶんと前、竹田が一度、「極の極まで考えた」ことのある人間だ、という感触だ。わたし達はそれがあって、この本から、「しかし、そんなことに何の意味があるだろう」、そんな彼の声を、受け取っているのである。
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