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【映画レビュー】『映画:フィッシュマンズ』それでも、佐藤伸治がわからない

 バンドのデビュー30周年を記念して制作されたドキュメンタリームービー『映画:フィッシュマンズ』。
 今作はその表題通り、現代カルチャーシーンの片隅で今なお熱い支持を得るロックバンド・フィッシュマンズの軌跡と、そのボーカル・佐藤伸治の半生を追ったドキュメンタルフィルムである。

 90年代邦楽シーンにおいて、レゲエやダブ、シューゲイザーなどの要素をいち早く取り入れ、確固たる独自の音を鳴らしていたフィッシュマンズ。
 だが悲しいかな、彼らの軌跡は控えめに言っても商業的成功を得られていたわけではない。

 メジャーへの挑戦、そして挫折。相次ぐメンバーの脱退、その果てに在ったバンドの絶対的フロントマン、ボーカル・佐藤伸治の突然死。けれどそんな数多の逆境と障壁の中で生み出されたとは到底思えないほど、あまりにも繊細で、緩やかで。
暖かな慈愛に満ち溢れたフィッシュマンズの音楽は、時代を超えて今なお多くの音楽フリークに愛され続け、佐藤の死後から20年以上経つにも拘わらず、近年海外ではその評価を驚くほどに急上昇させているという。

 当然ながら今フィッシュマンズを愛するリスナーで、リアルタイムで彼らの音を聞いた人間は本当にごく一握りの存在だろう。多くの人が当時のフィッシュマンズの現実を、そして佐藤伸治の生前の姿を知らない。
 否、正確に言えば「佐藤伸治の事がわからない」という方が正しいのかもしれない。
 彼らがメジャーデビューした1991年、当時の音楽業界は空前絶後のバンドブーム。激動の時代の最中にぽつんと佇んでいた、大して商業成績も残していないバンドの痕跡や活動資料がそう大量に残存するはずもなく。 
 本映画の最も大きな功績は、そんな今はもう形を成していない故人・佐藤伸治の在りし日を、ここまで多くの関係者が各々の視点を交えながらも、こうして言葉にして語ってくれていることに他ならないだろう。

 1991年に生まれた私ももちろんその一人で、生前の佐藤の事は円盤やデータに残るフィッシュマンズの音楽からその人間性を推察することしかできないでいた。
 当然彼のWikipediaやバンドの略歴情報ぐらいは目を通している。けれど彼が何を思って音楽を作り、何を考えてフィッシュマンズを動かしていたのか。
 その内面についてはいくら情報を探せど、本当に断片的で茫洋とした内容しか見つからなくて。それを生前の彼を誰よりも知る人たちから教えてもらう、そんな気持ちで劇場へと足を運んだフィッシュマンズリスナーの一人であった。

 172分というドキュメンタリー映画としてはやや長丁場の上映を終え、フィッシュマンズの歴史を、そして佐藤伸治の半生を垣間見て。私が劇場から握りしめて出てきたのは、「それでも彼の事は何一つわからなかった」という事だけだった。
 その理由は酷く単純で、どんなに彼の近くに居た人たちでさえ、フィッシュマンズ最後の存命メンバーとなった茂木欣一でさえ。佐藤伸治の本質となる心の内側には、本当に誰一人として踏み入れる事ができなかったからだ。

 あんなにも緩やかで、メロウで、ふわふわとした陶酔感を孕む音楽を生み出す一方、佐藤伸治という人は音楽に対して想像を絶するほどストイックな人間であった。
 生前の彼を知る人々は口を揃えてそう語るが、その方向性が私の想像に反してどこまでも哀しいほどに内向的な意味合いのものだった、というのが話に準拠する点である。 

 制作に打ち込む時、信頼を置くバンドメンバーにすらも会おうとはしなかった。
 誰も彼が音楽を作る姿を見たことがない。 人々が口々に語るミュージシャン佐藤伸治の姿はたったひとつだけ、彼がどこまでも「独り孤独に音楽を作る人だった」ということ。
 あるいはもしかしたら佐藤伸治という人間は、「孤独の渦中でなければ、フィッシュマンズの音楽を作ることができなかった」と言った方が正しいのかもしれない。

 それを思えば、佐藤伸治という人間の内面や本質が何一つ残っていないことも頷ける話ではある。
 彼が音楽に込めた自身の孤独由来の内面性は、誰かに語ったりどこかに書き記して楽曲の外へ飛び出し、日の元に晒された瞬間その輝きを失う。きっと誰よりも佐藤自身が、そのことを知っていたのではないだろうか。

 フィルムの中で語られるバンドの物語の結末は当然全員が知っている。
 だからこそ映画は終盤に向かうにつれ、少しずつ寂寥感とやるせなさに満ちた空気を帯びていく。

 奇しくも生前最期の姿を映す事となったツアー「男達の別れ」の映像内には、一時期は5人いたバンドメンバーがついに2人まで減ってしまったことを、いつもの緩やかな口調でぼやく佐藤の姿が映っている。
 しかしそれと同時にあくまでも、また一からフィッシュマンズというバンドを作っていく意志も彼は口にしている。
 この時の彼の本当の心境を知る者は誰もいない。
 けれど、もし5年後、10年後のフィッシュマンズというバンドに、佐藤がたった一人で残されてしまったとしたら。

 自分を独りにする他者の存在が在るからこそ、孤独という事象は成り立つ。
 孤独になれない己。それがフィッシュマンズの終わりを意味する事を、もしかしたらこの時の佐藤はすでに知っていたのかもしれない。