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星野源という回遊魚―『創造』という名の不治の病に侵されて生きる【音楽文移植その14】

音楽を作る、本を書く、演技をする、踊る、写真や動画を撮る、絵を描く、立体物を作る。
何かを創り出して表現活動をするクリエイターと呼ばれる人たちの中には、たまに回遊魚みたいな人種がいる。
回遊魚、マグロやカツオ。泳ぐのをやめると死ぬ魚。
私達は結局、どんなことがあっても何か創ってるんだろうね。止まると死んじゃうマグロみたい。
そんな事を少し前に、映像ディレクターをしている友人と話したことを思い出す。

<何か創り出そうぜ 非常識の提案
誰も見ない場所から 一筋の
未知を創り出そうぜ そうさYELLOW MAGIC
やめられない 遊びを繰り返した
進化を君に 外れ者に授ける>

2021年2月リリースとなった星野源の『創造』は、2020年6月の『折り合い』以来のシングルとなる。
自身も出演する任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』発売35周年記念CMソングとして創られたこの曲。そのメッセージを端的に表現するならば何かをクリエイトすること、0を1にして世の中に何かを生み落とすことの面白さと楽しさを詰めた曲、とでも言おうか。
楽曲のサウンドや歌詞の中には、これまで彼が様々な作品でも用いてきたモチーフの引用やオマージュがあちこちに散りばめられている。
その中に時折織り込まれているのは、一度三途の川を見た自身の経験を踏まえた生きる事の、そして「遊ぶ」と書いて「創る」ことの喜びだ。

<僕は生まれ変わった 幾度目の始まりは
澱むこの世界で 遊ぶためにある>
<死の淵から帰った 生かされたこの意味は
命と共に 遊ぶことにある>

死の淵を彷徨い、数々な奇跡の先にもう一度手に入れた自らの生。彼はその人生を以てどこまでも、何かを創る人であろうとしているように見える。
けれどそれは決して義務でもなく、己に課した責務でもなく、彼にとってそれは遊びの一貫なのだろう。
とはいえ遊びだからこそ、きっと星野源は創る事に対してどこまでも真剣だ。彼自身も敬愛する某芸能人の「真剣にやれよ!仕事じゃねえんだぞ!」という名言を体現するような、そんな彼の姿がありありと目に浮かぶようである。

けれど一方で2020年の1年間が、音楽業界にとって後にも先にもなかなか類を見ないであろう苦しい時代だったことは否めない。
事実星野源自身も、音楽家としての活動は例年に比べぐっと減っていた。その一方で彼が何をしていたかと言えばぼーっとしていたわけでもなく、NHKで番組を作ったり、俳優として演技に精を出したりしていたことは記憶に新しいだろう。
その中で、変わらず音楽を作り演奏するミュージシャン・星野源の姿ももちろんあった。
新型コロナウイルスによる蔓延で人と人との距離が隔たれ、音楽を始めとしたエンターテイメント全般が真っ先に「要らない職業」としての槍玉にあげられ。
思うような音楽活動ができなくても、音楽は不要じゃないか、と思われても。それでも彼は音楽を作り続けていたんじゃないだろうか。まるで創造することをやめると死んでしまう、回遊魚のように。
笑顔で任天堂のCMに出演する星野源や、新しい音楽を生み出した星野源。過去の闘病経験を克服し、遊ぶように再度与えられた命を全力で生きる星野源。
大勢の人々がイメージする、そんな彼の姿以上に。私がこの『創造』という曲の中に見たのは、寝食も忘れて1人ミキサーの前で、PCの前で。黙々と何かに憑りつかれたように瞳を輝かせながら、音楽を作っていたであろう丸まった背中の星野源だった。

余談だが、私自身もこのコロナ禍に音楽活動を奪われた人間の内の1人でもある。
学生の頃から楽器を続けて15年、社会人になっても仕事をしながら細々とアマチュアバンドとして活動を続けていた。けれど、当然皆と同じようにライブハウスへの出入りも禁じられ、演者としても客としても楽しみにしていたライブやフェスは次々となくなり。私がこれまでクリエイトしていた場所を、為す術なく奪われ続ける2020年を過ごしていた。
そんな私が昨年1年、何をして過ごしていたか。これは本当に笑い話なのだけれど、なんにもせずにぼーっと無為な時期を過ごすことになるかと思いきや、何を思ったか10年ぶりに小説を書くためにペンを取ったのである。結果半年ほどの期間で、約10万字、250ページにも及ぶ自費出版作品を作った。雀百まで踊り忘れず、三つ子の魂百までとはよく言ったものである。

元々文字を書くことも、音楽活動と同じくらいに自分が好きなことだった。だからこそこうやって投稿文を書く今の自分がいるのだけれど、小説だったりブログだったり手を変え品を変え、これもまた学生時代から15年ほど続いている創作活動である。
我ながら本当に面白おかしい話だなあと思う。新型コロナウイルスでこれまでとは全く異なる生活様式となって、音楽が、エンターテイメントが、クリエィティブな事柄が不要だと声高に叫ばれても。
私もまた、創造することをやめられなかった。何かを創り出すことを、やめることは結局できなかった。

回遊魚のようなクリエイターにとって、創造、クリエィティブってまるで一生付き合い続ける持病みたいだなあと思う。
飽きたから手放せるもんでもないし、嫌になったから簡単にやめられるものじゃない。もう無理だと思っても、もう何も創れないと思っても。数年、数か月、どれだけの時間が空いたとしても、気付けばまた何かを創り始めている。それは前に創っていたものと同じかも知れないし、また別のものに矛先が向くことだってきっとある。

思い通りのものや想像以上のものを創り出せた時の喜びは大きいし、その創造物が大勢に認められたり賞賛されるのはもっと嬉しい。
けれど、何かを創造するということは嬉しい楽しいこと以上にしんどいことも多い。
時には創りたい物が多すぎて、自分の身体も時間も睡眠もいつだって足りない。一方で創り出したものだけじゃ金にならないことも多いから、生きる為の営みが必要になれば益々時間もない。
自分が思い描いているものが思い通りに創り出せない時の苛立ち、創らなければいけないものがあるのにアイデアが降ってこない時の歯痒さ。
人と比べられた時の劣等感、他者との相対評価を気にしている自分自身への腹立たしさ。認められるために創っているわけじゃない、けれど認められたいと思ってしまう。そんな矛盾を抱える葛藤。
何が楽しくてこんなことしてるんだろうと思う日だって確かにある。
それでもきっと、星野源はこれからも創造と生きるんだろう。
同じようにきっと、私自身もまた創造と生きる。
この先まだ何十年もある、長い長ーい人生を。まるで不治の病と共に歩むかのように。

※文中歌詞は全て星野源『創造』より引用。

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音楽文移植シリーズ。何かを作る人間は結局手を変え品を変えずっと何かを作っているんだろうなあという話。
バンドで音楽を作れなくなった私は文章を書いています。
バンドで音楽が作れなくなった夫は一人で打ち込みで音楽を作っています。
そんな自分たち夫婦のことを考えると、根っからの創作人気質は多分死ぬまで変わらないんだと思います。