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What was Visual Shock? 解説/説明放棄の訳。

こんにちは。softinhardです。  

以前、自身が主催した映像イベント'Visual Shock'について、全体的に振り返る記事を上げました。https://note.com/softinhard/n/nfc3210dc9ad

まだまだ、上記の記事だけではイベント全体を包括する事はできませんので、これから細かくテーマを記事ごとに分けて考察/回想していこうと思います。 

 
この記事では、Visual Shockでのsoftinhardによる"解説/説明の放棄"についてフューチャーします。


'Visual Shockの概略'
自分、softinhardが、膨大な短編映像作品のアーカイブから、ヴィデオアートからMVなど多種多様な作品を厳選し、4つのプログムを構成しカフェのスクリーンで上映するイベントでした。


softinhardのstyle/姿勢
毎度Visual Shock/イベントスタート前に全体の流れやコンセプトについて、自分/softinhardが話しますが、質問や必要に迫られば作品について、プログラムについて解説/説明し補足する事はあれ、(3回目以降顕著に表れるように)基本的にsoftinhard自ら説明/解説は行いませんでした。

完遂する事はできませんでしが、
主宰/コンセプトメイカー softinhardとして、Visual Shockに説明/解説は不要でした。

作品が何を指し示すのか、作者は何を意図しているのか、作者や作品の背景は、作者の出身地は、作者の経歴は、作者や作品が受けた影響は、 それらはVisual Shockでは不要な疑問でありました。

より極端に言えば、(最終回作者と作品のリスト表を作りましたが)作品タイトルや作者の名前は、このVisual Shockでは知る必要性はないと考えていました。

softinhardが重要視したもの
こういうと作品を上映しておきながら、作品や作者に対し主宰から尊敬が感じられないと、実際に参加者にそう感じられた方もいたかもしれません。

自分/softinhardは、映像作品(作家)の表面/表層を重要視します。内容や背景よりもその映像作品がスクリーンに、映し出している"画"とスピーカーから漏れ出る"音"を重要視します。

意図や背景を追いかけ、脳を使うことは、見えないもの聞こえないものを自分なりに解釈し納得しようとする行為と考えます。(それが自分勝手にならないため、質問をするという意図や疑問を持つことは理解できます。)

想像や知識、解説/説明で作品を補うことをする事はとても大切な行為であることは理解できますが、それよりも以前に、作品が映し出している画をどれだけ観れているのか。漏れ出す音をどれだけ聞こえているのか。

観ているようで、みていない、聞いているようで、きいていない。それが何を示したものか分からず内容を気にする以前に、より深く心酔して能動的に目と耳を見開いて、表面/表層の情報を摂取してもらいたかった。

質問には、いくらでも答えられました。
作品リストも作れました。
ただ、それらは'後付け'の情報にすぎなきのです。


Visual Shockの狙い
説明/解説を放棄することで、参加者がより表層/表面と向き合うことが狙いでした。
映像作品に限らず、この方法はあらゆるart/芸術に通じるものと思っております。

素晴らしい絵画と紹介された作品を観た時、その素晴らしいという説明があることで、何一つ'みる'ことの妨げにはならないといえますか?
'素晴らしい絵画'だと納得し、'観る'ことを諦めていませんか。

人のさじ加減に影響を受けないことは、不可能です。それでも、自分の目と耳、そして脳を最大限に能動的に作用させることは、とても有意義な鑑賞スタイルを手に入れる事に繋がると考えます。

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最後まで、読んで頂きありがとうございました。
少しでも良きと思って頂きましたら、
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softinhard

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