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今敏の遺書を読んで思ったこと

私は等身大の人間として貴方と話がしたい。


このようなタイトルにしようとしていたが、無料の読者、しかもファンがついていないような物を書く人間の文章なんて誰も読まないからキャッチーにした。
騙しているようですまない。
というか、読まれることを考えてない。
にも関わらず、ハッシュタグを付けているのは、限りなく少ない自己顕示欲の最低限の抵抗であろう。


今敏の遺書を読んだ。

私はパプリカが好きだった。小学生の頃にたまたま流れてきたYouTube、それが初めての出会い。
よく分からないけど、そんなものが好きだった。
ドラッグオンドラグーンのEエンド、あれもこの時期だったと思う。要するに、奇々怪々なものを奇一文字で表せば概要を呈せると思われているのは変わらないのだろう。

そうして、大学生になり、パプリカを見た。
平沢進が好きになり、それからだ。
パレードは先に知っていた、これも奇だったからだ。パレードを高校時代に女性とのカラオケで歌ってドン引きさせたのを覚えている。あの時は本当に申し訳ない、私自身がどれだけガキで、場に合わせることを知らなかったのか、悔やまれるばかりだ。

そうして、パプリカを見て、好きになった、平沢進をだ。
そうして、パーフェクトブルーを見て、妄想代理人を見て、そうして、遺書に辿り着いた。予定調和にも見える。

あの才能が40で途絶えた。
寺山も50で途絶えた。
父は56だ。

私はいつ死ぬのか。
お先に、これはやりきった人間のセリフだ。
私が死ぬ時に、こんなことを言えるのだろうか。

そうして、自分を残して死ねるのか。
寺山に言わせると、死の質量である。生の質量いかに生きるべきかは意識できるが、キノコ雲がムクムクと高層ビルよりも高く人を舞いあげたのならば、私の死の質量はどこに消え去るか。

私は、大学生にして40年分の人生を頂いたのだ、文章にはそのような力がある、彼らを過去のものにしては行けない、彼らを引き継がなければコンクリートの下に埋もれてしまう。

私の目標がなんとなくだが決まった。
私は就職を捨てて、街に出る。
手のひらサイズの赤子が、こうして言葉を話すようになった。この命がどこまでやれるのか試してみたい。ホームレスになったとて、最後に後悔しなければそれ幸せなのだ。
このことは誰にも話さない、話したところで嘲笑の的になるに違いないからだ。
私は人を信用出来るのか、まだ若すぎて分からない。
ただ分かるのは、これから信用できるようになることと、私の人生には友人と同じように言葉が必要なこと。言葉が私を活かしてくれるのだ。
言語、なんて美しいんだろう。六人の母が残してくれた大きな遺産だ。遺言にはこうある。お先に。

今の世の中はどうやったってドレスコードに付きまとわれる。350円の牛丼を食ったって頭を下げられるご時世じゃ人間と人間が顔をつきあわせる機会なんてあったもんじゃない。
私はフリーハグが大嫌いだ!セフレという文化には吐き気を催す!
人間がもはや人間というおままごとをしたいがためにやっている軽薄な文化は、即物的過ぎて耐えられない!
地球を掘り返し、そうして行うゲームになんの価値がある。1000万を手に入れてまで買った時計になんの価値がある。
人間が人生の中で人間を手にする、人生の価値そのものが

散文中毒、散文中毒、その言葉が僕の頭から離れない。寺山修司が言っていた。僕はまさにその通りだと思った。


自分の吐く言葉に丁寧な言葉なんてありはしない、そこは一体一の対決なんだ。私が書く文章は私の言葉だ、だから、整えられるはずもない。そのありのままの等身大に触れることで私は戦うのだ。

文章の吐き溜め、ここには等身大の人間がいる。

上辺だけの芸術はクソ喰らえ。

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