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シティズンシップを求めるアイデンティティ・ポリティクスへ(暫定版)


1.問題意識
 辺野古新基地建設反対を訴えた故翁長雄志前知事(以下「故翁長知事」という)は「沖縄の置かれている状況に保守も革新もない、イデオロギーよりアイデンティティで結集すべき」と主張した。これが直感的には沖縄の人たちを結集させる意味を持たせたが、その後、アイデンティティの負の側面だけが強調されたり、各々が持つアイデンティティ、特に宮古や八重山、そして移住者、混淆的アイデンティティの視点からそのスローガンに自分が含まれているのかをめぐる疑問が呈されたりネガティヴな議論を招いている。それはひとつにアイデンティティという概念に対する理解が人によってバラバラであること、そしてもう一つは、「アイデンティティで結集すべき」というものが、「単一」のアイデンティティへの帰属の呼びかけであり、それが人間を極端に単純化し排除を生むという懸念に起因する。現在も続くこの混乱に対して本稿ではこれらを克服すべく、①アイデンティティの各種概念についてできるかぎり明確にするとともに、②特定の単一のアイデンティティへの帰属を絶対視しすることを避けること、人は同時に複数のアイデンティティを有しており、イシューや文脈によりその重要度が増したり減ったりすることを認識することの重要性を述べ、③指摘されてきたアイデンティティ・ポリティクスの弊害を踏またうえで、故翁長知事が述べたアイデンティティという概念が意味をなす文脈を想像するために、国家の権力構造によりつくられる「政治的アイデンティティ」という概念で説明されるべきものであること、これは「シティズンシップを求めるアイデンティティ・ポリティクス」であり、これを明確にした運動がソーシャル・アクションであり、社会変革であることを述べる。そして最後に、④感情の回復と本質的解決の両立を図ることの必要性を述べる。

2.アイデンティティとは 
 アイデンティティとは、同一性、「《他ならぬ》それそのものであって他のものではない」という状態や性質、あるいは、そのような同一性の確立の拠り所となる要素をいう概念である。同一化(identify)とはそもそも自己自身との同一化に他ならなく、哲学者のウィトケンシュタインは、「役に立たない命題の実例としてこれほど見事なものはない」と述べている。しかし、自己同一化は、多くの場合、対抗的に構築される。私は男性であるが、この男性というアイデンティティは、女性という存在を前提として対抗的に規定される。したがってアイデンティティという概念は、「同一であること(being identical)」から「アイデンティティ(同一性)を分け持つこと(sharing an identity)」へ、さらに自分自身を特定の集団の他者と「同一化(identifying)」することも指す。これらを集団的アイデンティティというが、集団的アイデンティティは一般的に社会的アイデンティティと言われる。これが人間の行動に対して重大な影響を及ぼしているという見解にほぼ異論はない。
 そしてこれがセンシティヴな問題でもあるがゆえに、その役割と影響については丁寧な議論が必要である。しかし沖縄において、故翁長知事がアイデンティティで結集すべきと述べた直後から、ネガティヴな部分のみを強調する議論が先行し(宮台・仲村:2014)、故翁長知事が述べたアイデンティティという概念が意味をなす文脈を想像するためにアイデンティティの重要性を述べるものや、その形成過程に注目した政治的アイデンティティと定義づけられる概念を説明したものはほとんどなかった。

3.社会的アイデンティティとは
 社会的アイデンティティとは、ある特定の集団への帰属意識、すなわちある社会的共同体(家族、学校、地域、会社組織、エスニシティ、国家など)の一員であることから生まれる共同性の意識、あるいは社会的カテゴリーの成員性に基づいた人の自己概念の諸側面およびその感情・評価をいう。なお、文化的アイデンティティも社会的アイデンティティの一側面として捉えられる。文化的アイデンティティとは、伝統的な生活習慣や固有の言語や感情・認知・行動の様式、つまり文化によって培われた個人のパーソナリティや自己のことを指し、文化的同一性ともいう。人間生活を理解する上で共同体や社会的アイデンティティは様々な点で重要であり、それが行動に及ぼす影響がある。もちろん、「沖縄人(うちなーんちゅ)」というときにも、「沖縄文化」というときにも、沖縄にも先島も含め多様性があり、沖縄人にも様々な考えを持つ人たちがいるし、その文化も多様であり、変化していくものである。
 それを踏まえても、私たちが倫理や規範、さらには知識や理解力を身に付けていく時に、私たちが同一化し、付き合いを持つ共同体や人びとは、大きな影響力を持っている。それゆえにカテゴリー化する力が強すぎると、それが息苦しいと表明されることもある。社会的アイデンティティは、まさに人間生活の中心にあると言えるが、それが抑圧的傾向を持つというという側面があるのも事実なのである。
 アイデンティティは対抗的に構築されるが、それが集団からの承認だけでなく、集団からの排除や差別、専制、暴力を引き起こしてきたという歴史的事実から、これまで肯定的には評価されてこなかった。ナチスのホロコースト、ユーゴスラビア、ルワンダなどの世界各地で起こった悲劇、身近なところでいえば、在日コリアンへのヘイトスピーチや、水原希子さん、大坂なおみさんへの中傷もそうである。その連想ゆえに、社会的アイデンティティは忌避され、警戒されてきた。特にリベラルの側は「なぜ私たちは、人びとの人種やジェンダー、エスニック・アイデンティティを考慮せず、単に『人びとを個人として取り扱う』ようにしてはいけないのだろうか、また、なぜ、私たちを区別だてするものではなく、私たちが人間として共有しているものに関心を集中してはいけないのだろうか」と、現代社会からは排除されなければならない「障害」として位置付けてきた。しかし、共同体意識や仲間意識は私たちにとって大切なものだという信念は、軽視できるものではない。なぜならばアイデンティティと政治との関係を歴史的に回顧すれば、マジョリティからの排除や差別、専制、暴力に対する抵抗として「対抗的に構築」され、民主化を推進する原動力でもあったからである。
 問題は、特定の単一のアイデンティティへの帰属を絶対視し固定化することである。したがってアイデンティティの複数性と選択可能性を認識することはとても重要な点であるので5.で詳述する。

4.政治的アイデンティティとは
 政治的アイデンティティは、国家が行う政治的権力関係と連結して検討する視点を与えるもので、リベラリズムの欠陥を内側から乗り越え、それを継承する批判的リベラリズムという批判理論の系譜に連なる。
 政治的アイデンティティとは、社会的アイデンティティと異なり、カテゴリー化するのは国家であり、その効果として形成されるものである。法や政策がある特徴による人びとを集団化し、国家がそう規定された人びとに対して画一的な対処をするとき生まれるものである。そのような集団化の結果、特権を付与される人びともいるが、反対に不利益を被る人びとも出てくる。               その際に、その排除の是正を求めるときに立ち上がるアイデンティティを政治的アイデンティティという。なぜなら政治的権力により規定され、その権力規定が是正されることを求める運動も政治的といえるからである(太田2012:19)。
 つまり、政治的アイデンティティは、国家によるカテゴリー化とそれに基づく排除が前提となっている。権力をめぐる運動には不可欠の集団化と、そのような集団化がもつ抑圧的傾向の矛盾に対して、一つの解決を提示する概念として捉えるということである。
 なお、文化的アイデンティティが政治化することは十分に想定される。すなわち、ある文化的実践が原因で政治参加や経済的資源へのアクセスから排除されてきたために、その文化的実践を共有するという意識により集団を形成し、パワーと資源の獲得に奮闘する場合などである。
  一方で、政治的アイデンティティという考え方は、以前から「文化的動員」という言葉で言われるアイデンティティを政治の前提とする議論そのものを転倒し、アイデンティティを政治の効果として把握することになる(jung 2006:33)。
 国家が集団としてパワーや資源のアクセスを制限した結果、集団化のときに基準となった差異が前景化され、政治運動が起こる。政治的アイデンティティという概念は、アイデンティティーをこのようにしてパワーとの関係に置きなおし、構築主義的に考察することを可能とするのである。
 これを冒頭の故翁長知事の発言に当てはめると、故翁長知事が訴えたかったことは、政府の辺野古新基地建設強行に立ち向かうためには米軍基地の賛否(日米安保の賛否)というイデオロギーは、問題の本質を見えにくくしている。したがって、「なぜ沖縄がこれを引き受けるのか」ということを問わなければならいということである。
 これまで日米の政府関係者らの発言、多くの識者の分析によって明らかになっているように、「軍事的に沖縄でなくても良いが、本土の理解が得られないから」という「ヤマトー沖縄」という不合理な区分により政府が決定した問題であることに焦点をあて、この権力構造に対峙する必要性を述べたものであり、これは政治的アイデンティティという概念で説明すべきものなのである。
 アイデンティティは、個人に本質としてそなわっているものではなく、達成されるのである。特に政治的アイデンティティは、社会的アイデンティティと違い、承認やカテゴリー化を否定する論争はあまり意味をなさず、また、文化やエスニシティ等に本質を措定し、それにより政治行動を説明するという立場から一定の距離を置くことが可能なのである。これは脱アイデンティティではなく、アイデンティティの脱本質化といえる。政治的アイデンティティという概念の有用性は、アイデンティティの同質性に焦点をあてた議論に集中するではなく、アイデンティティを排除されてきた人びとを政治参加への道を拓くという意味での民主化の力として捉えるというものなのである。
 故翁長知事の、イデオロギーより、(政治的)アイデンティティにより結集すべきという訴えにもかかわらず、安全保障における「願望の表明」が優先させると、新基地建設に反対する人たちを、「反米・反基地運動」というイデオロギーで反対しているかのようなレッテル貼りが行え、故翁長知事が指摘した「県民が争っているのを上から見て笑っている」状況が乗り越えられないということになるのだ。
 自衛隊を先島などに配備する「南西シフト」も同様である。沖縄戦の教訓を、「もう二度と本土防衛のための『捨て石』にはならない」ということだと考えるのならば、この問題の本質をイデオロギーの問題として措定するのではなく、再び「本土」防衛のために宮古・八重山をはじめ琉球弧を捨て石とする軍事的戦略であることに対して、政治的アイデンティティとして構築すべきである。
 沖縄島の人たちと宮古・八重山の人たちは、米軍基地の問題、自衛隊の南西シフトの問題において、イデオロギーや、文化的アイデンティティでは不可能な、政治的アイデンティティにより結集して、共闘できること、すべきことを示しているのだ。

5.アイデンティティの複数性と選択性を認識することの重要性
 冒頭で述べたように故翁長知事の「アイデンティティで結集すべき」という呼びかけは、「単一」のアイデンティティへの帰属の呼びかけであるとし、それが人間を極端に単純化し排除を生むという懸念が指摘されてきた。
 この懸念を解消するためには、私たちは複数のアイデンティティを有すること、アイデンティティは理性的に選択・決定しうること、そして、国家権力によるカテゴリー化とそれに基づく排除が前提となり、その是正を求めて構築される政治的アイデンティティ概念を理解することがとても重要となる。
 もちろん、アイデンティティは、「どんな選択でも無制限に行える」などということはない。男性の私が女性のアイデンティティを選択できないように、また女性からも承認されないように、自分を同一化するために選択できる対象には限度があるのは当然である。したがって例えば法や政策によって女性の権利が制限されていることに声を上げる当事者運動に対して、私ができることは、当事者運動に参加することではなく、差別をやめるよう世論に訴えたり、政府に働きかけたり、当事者運動を「エンパワメント」することである。私たちのアイデンティティに関する現実的な選択と決定は、いつでも外見、状況、経歴、歴史などによってある程度は制限されているのである。
 アイデンティティは「発見」されることもある。私は高校まで過ごした石垣島を離れ、東京で暮らすことになり、「沖縄」というアイデンティティを「発見」したが、それは今まで明確に意識していなかった身体化されていた文化や祖先などの繋がりを見出すという意味においてである。     
   このようにアイデンティティは発見するものでもあるが、私たちはこの発見したアイデンティティがどのような重要性があるのかを、「決定」しているのである。
 また私は、同時に複数のアイデンティティを持っている。私は、 沖縄県、八重山、石垣島出身であり、那覇に住む男性であり、不動産登記や会社の登記を業として職員を雇う経営者であり、また一方で貧困問題にも取り組む司法書士でもある。私は、沖縄の辺野古の新基地建設について話しているとき、石垣島の自衛隊配備に関して話しているとき、司法書士の制度について話しているとき、事務所の経営について話しているとき、貧困の問題について話しているとき、アイデンティティの優先順位は文脈によって決まってくる。私は複数のアイデンティティを持ち、しかもこうした複数のアイデンティティが多様な文脈に依存しつつ互いに関連し合っているのである。
 アイデンティティ同士が競合することもある。私は、沖縄の貧困問題について語るとき、「自分のことを沖縄人ではなく八重山人とみなすべきか」という二者択一の関係にはないが、石垣市議会が辺野古推進決議を採択した際に、沖縄島の方から「石垣には米軍基地がなく、沖縄島の苦しみを知らないからそんな決議が採択できる」旨を言われた際や、先島の自衛隊配備が進む中、石垣島の方から「沖縄島の人は本島中心主義で、離島には全く関心を示さず、声を聞かない」旨を言われた際には、二つのアイデンティティが葛藤し不安定に揺れ動く。
 しかしこれらの怒りの基礎にある理性の精査をおこなえば、「軍事的に沖縄でなくても良いが、本土の理解が得られないから」という不合理な区分=差別により決定された辺野古新基地建設も、「南西シフト」という宮古島や石垣島などの琉球弧を「本土防衛のための捨て石」とする自衛隊配備計画も、国家による「本土ー沖縄」の不合理な区分=差別により構造化された政治的アイデンティティの呼びかけと理解できれば、沖縄人と八重山人というアイデンティティは対立するどころか併存できるのだ。
 世界のうちなーんちゅ大会に来る海外の方もうちなーんちゅのアイデンティティと所属する国籍国は二者択一の関係にはないはずであり、外見や言語、文化もその優先順位も沖縄島に住む多くの沖縄人の一般的なモデルとは違うはずである。
 ある特定の国や地域、あるいは特定の文化の中に生まれたからといって、その国や地域、文化のなかで暮らす大半の人々とは全く違った考え方、逆にその忠誠心をもってはいけないということにはならないし、それを変更することも可能である。しかしすべての所属関係をひとつの支配的なアイデンティティに服従させてしまえば、多様な人間関係が持っている力や幅広い関係性が見失われてしまう。
 国境を超えた人々の間の関係は、例えば、国境なき医師団などの職業的アイデンティティであり、そこで生まれる国境なき責務は、当事者のエスニック・アイデンティティに直接は付随しない越境するアイデンティティであり、越境する正義である。
 コスモポリタン的民主主義は、現在世界市民として参加可能な実行的な世界政府というものがない以上(これが可能かどうかの議論はここではしない)、人権を保障していくのは国家でしかない。そのためにはさまざまな理由で排除されてきた人びとを国家の枠組みの中で政治参加への道を拓く必要がある。
 政治的アイデンティティという概念は、アイデンティティの複数性と選択性を踏まえ、その同質性に焦点を当てるのではなく、歴史を振り返り、未来を創造するために、排除の対象となった人びとのアイデンティティ構築を国家形成の過程のなかで考えることを可能とする。

6.アイデンティティ・ポリティクスとは
 ややこしいが、政治的アイデンティティと違い、アイデンティティの政治(以下、「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ぶ)はアイデンティティを土台にした集団が、その集団を構成する個人のアイデンティティに関して社会的承認を求める運動である(太田:2012.47)。
 一般的にアイデンティティ・ポリティクスは、第二次大戦後に起きた労働者の権利拡大運動に端を発し、米国では次第に「マイノリティの市民がお互いの文化や言語を尊重して、多様性を保ちながら共存する」という考えに発展し、現代では特定の人種やエスニックだけでなく、女性や労働者、LGBT 、障碍者など、社会的に不利な立場にある集団の社会的運動を指して説明がなされる。
 しかしながら、多数派・社会的強者が少数派や社会的弱者の自由や権利を制限する政治権力も実際にはアイデンティティ・ポリティクスなのである。
 アイデンティティは対抗的に構築されることは上述したが、それが排除や差別、専制、暴力を引き起こしてきた歴史的事実がある。その一方で、マジョリティからの排除や差別、専制、暴力に対する抵抗として対抗的に構築されてきたという歴史的事実もあるのだ。
 この二つのアイデンティティ・ポリティクスのせめぎ合いを単にヘゲモニー争いと捉えると、少数者・社会的弱者がヘゲモニー争いに勝利し、多数派・社会的強者になった場合、構造的には、立場が逆転したうえで、また同じことが起こることになる。これを肯定する場合、その動機は、自由や平等、公正というシティズンシップの諸価値ではなく、単にヘゲモニーを握りたいだけということとなる。しかし政治的アイデンティティは政治における力の構造よる刻印を受けて作られているのであり、その抵抗運動としてのアイデンティティ・ポリティクスは歴史的にも単純なカテゴリーの反復―支配と被支配の反転、あるいは立ち位置の入れ替えーを肯定し、求めているわけではないはずである(太田:2012.24)。
 実際、権力により排除された人びとが抵抗運動として構築したアイデンティティが政治を動かしてきたのであり、これまでの歴史において、アイデンティティ・ポリティクスではない政治など存在しなかったのである。しかし、アイデンティティ・ポリティクスを批判する立場は多く、「アイデンティティが、内閉、別の集団への非寛容、そして新たな排除を招く」、「それは結局、集団と集団との間の距離を作り、反目を大きくするし、その内部にも抑圧をもたらす」、「社会的弱者・被害者としての立場を強調することに専念するようになり、建設的な社会改革を放棄している」、「アイデンティティ・ポリティクスは社会的弱者・被害者が特権を得ているというマジョリティのアイデンティティ・ポリティクスを招いている」として、「アイデンティティ」と「シティズンシップ」は「克服できない対立」であるという論調(二項対立)があり、特に日本ではこれが顕著である。
 しかし、権力によりカテゴリー化され不利益を受けてきた人たちが構築する政治的アイデンティティは、国家を分断に導くどころか、国家がこれまで排除してきた人びとを政治参加へと導く可能性があるのである。つまり、アイデンティティ・ポリティクスが上述のネガティヴな内包を持たず、アイデンティティの複数性と理性的選択の重要性(構築主義)に合意が得られるのなら、政治的アイデンティティとアイデンティティ・ポリティクスには差異はないのである(太田:2012.50)。
 私たちは、抵抗運動としての、アイデンティティ・ポリティクスの意味を、負の内包―他者を批判するためにだけに機能してきた歴史から解放する必要がある。

7.共同性の広がりと深まりが、個人主義(シティズンシップ)と共同体主義(メンバーシップ)の対立を超える
 私は、アイデンティティ・ポリティクスを単純なメンバーシップで規定する共同体主義とみるべきではなく、また、個人の多様性を認め、市民的生存を求めるシティズンシップとの関係で、「克服できない対立」(二項対立)とみるべきではないという立場である。
 「差異」により人種化された固有のアイデンティティを主張する運動の弱点は、教条主義や原理主義、セクト主義によって、当事者をアイデンティティに閉じ込め、つまり自分の内部に引きこもらせ、社会の民主主義空間への参加とは正反対に向かわせる危険を常に孕んでいるといわれる。一方、固有のアイデンティティを持たない一般的な運動の弱点とは、それが依拠するのが何らかの基盤ではなく、原則や価値だという点である(ヴィヴィオルカ2007:168)。
 そもそも、フェミニズム運動や、黒人の公民権運動、そして労働運動でさえも、当事者により認識されるアイデンティティ・ポリティクスとそれに基づいて展開される社会実践がなければなにも始まらなかった。社会実践のなかで要求される自由と権利、民主主義の実現要求、社会変革の活動がなされることによって、民主主義は醸成し、社会変革が進捗する。その結果として、マイノリティに市民的生存を求める自由が分配され、相互承認がなされ、多様性が生まれる。共同性の広がりと深まりこそが、自由主義と民主主義の接合を可能とし、個人主義と共同体主義の対立を超えるのである。
 政治的アイデンティティという概念の有用性は、カテゴリー化する力をもつのは国家であり、例えば、宮古や八重山、そして移住者、混淆的アイデンティティの視点からそのスローガンに自分が含まれているのかをめぐる「個人の多様性」など、カテゴリー化を否定するさまざまな分析視点は、政治的アイデンティティが立ち上がるフィールドでは、あまり意味をなさない。
 つまり、この概念に基づく運動は、共同体主義(メンバーシップ)に本質を置くものではなく、国家により排除された人たちに市民的生存(シティズンシップ)の保障を求める運動なのである。
 これは、「沖縄の人たち」を「本土の人たち」と同様に自由で独立した存在であると認め、尊重することことを求める運動であり、共同性の「広がり」と「深まり」のなかで、個々人の「自由」の拡大を求める運動なのである。これは、政治的アイデンティティに基づく運動であり、シティズンシップを求めるアイデンティティ・ポリティクスにほかならない。 
 

8.対外的防御を支持すべき理由こそが対内的制約を拒否すべき理由
 私たちの社会において、マジョリティのアイデンティティ・ポリティクスはそのパワーゆえに政治的にも経済的にもきわめて有利な立場で少数者や立場の弱い人びとを差別し、排除・疎外・抑圧する。そしてそれは、多くの場合、無意識のうえに行われている。それゆえに、差別の指摘には、反発や感情の対立が起こる。
 リベラリズムの思想の根底には、自由な個人というものがあるが、それが階級、エスニシティ、人種、ジェンダーなどの「差異を忘れる」ことにより公共圏への参加が約束されるかのように振る舞ってしまう。しかしながら、現実の社会においては、階級、エスニシティ、人種、ジェンダーなどの差異による不正義がなれており、その「差異を前提」にした不正義を除去せよという要求こそが必要なのである。 
 それが理解できないと、差異に起因する不利益を標的に議論を行うことが不可能となり、いつまでたっても、アイデンティティと政治との関係について、きちんと考察ができないままとなってしまう(calhoum1994:3,19-20;clifford2000;alcoff,et al.2006)(太田2012:41)。
 自由な個人というシティズンシップは、人々の特定の属性・特定の集団・特定の地域というアイデンティティを考慮すべきではないということではない。万人に単一の差異化されていないシティズンシップのモデルを課すことは不可能である。つまり「差異の政治」は、個人主義(自由主義)の原理と両立するだけでなく、それらの実現を促進するのである。
 同じ権利を認めろという要求は、差異をなくすことのトレードオフとして権利が与えられるものではない。つまりアイデンティティをリベラル民主国家にとって肯定的要素として捉え直すということなのである。
 つまり、集団間の平等および、集団内の自由と平等が確実となるようにすべきこと。これらは命運を共にするどころか、対外的防御としてのアイデンティティ・ポリティクスを支持するべきまさにその理由が、同時に対内的制約を拒否すべき理由であるシティズンシップなのである。
 したがって、私たちは、「本土」と沖縄という権力関係に注目し抵抗するからこそ、さまざまな権力関係にも注目し、インターセクショナリティの重視など、対外的にも対内的にも一貫性を持てるのであり、持つべきなのである。
 ウィル・キムリッカは著書「多文化時代の市民権―マイノリティの権利と自由主義―」において、「自由主義者が努めるべきことは、集団間の平等、および集団内の自由と平等が確実なものとなるようにすることなのである。」と述べている。私もこの意見に賛同する。
 なぜなら、私たちが求める自己決定は、政府の抑圧や介入「からの自由」を求めるだけでなく、誰も排除されず、多様な個人が尊重され、自由で平等な社会を作りたいという幸福追求「への自由」を求めていくことでもあるからである。
 シティズンシップを求めるアイデンティティ・ポリティクスは、これを自覚的、明示的に行うことを意図したものである。
 

9.感情の回復と本質的解決
 初期ナチスの理論家だったドイツの思想家カール・シュミットは、自由主義と民主主義を区別し、ナチスは自由主義に反するが民主主義には反しないと述べ、政治の根幹を、友と敵の分別に求め、味方は絶対に正しく、敵は殲滅すべき対象という姿勢を貫いた。イギリスの政治学者シャンタル・ムフは、シュミットのいう自由主義と民主主義の相性の悪さを認めることから出発し、「自由民主主義を攻撃するためにシュミットを読むのでは決してなく、いかに自由民主主義が改善されうるのかを問うためにシュミットを読む」こと、「シュミットとともに、そしてシュミットに抗して考えること、これこそが我々共通の努力目標の趣旨である」と宣言した。つまり、アイデンティティとシティズンシップを「克服できない対立」「友(仲間)と敵を分け、敵は殲滅させるべきという敵対関係」から、その対立を民主主義が改良するための好機ととらえ、「闘技関係」「緊張関係」に変換させることにより、集団間及び集団内での「自由の格差」「自由の不平等」を是正していくことが必要なのである。
 ナチスのユダヤ人迫害も国民の不満をユダヤ人にぶつけて、敵対関係をつくったルサンチマンを煽るアイデンティティ・ポリティクスであった。同様に、小泉劇場による郵政民営化、大阪維新の公務員改革も国民の不満を公務員などにぶつけ敵対関係をつくりルサンチマンを煽ったアイデンティティ・ポリティクスの側面が大きかった。その結果、貧困と格差は拡大するばかりか、生活保護受給者は特権を得ているというより弱い(叩きやすい)者への憎悪を増し、自己責任論が横行している。
 私たちは、このような多数派・強者が行う専制としてのアイデンティティ・ポリティクスと明確に区別することを宣言し、シティズンシップを求めるアイデンティティ・ポリティクスを実践するべきである。
 非対称の権力関係という社会構造が私たちの感情さえも生み出している。2020年6月11日沖縄タイムスに土井智義氏による『「沖縄の人」にみえぬ者 排他的に扱ってないか』という論壇が掲載された。沖縄の学校で沖縄の子が「本土」から来た子を「ナイチャー」と呼ぶことに警鐘を鳴らす訴えであった。もちろん、学校での生徒同士など、「本土」と沖縄という権力構造と全く関係がない人間関係の場面にまで、出身地という所属をあえて呼称するべきではないし、その必要性もない。そして、その子が受けた傷を繰り返してはならないし、土井氏が指摘するその啓蒙もその対策として必要だ。
 しかし、正直にいうと土井氏の論壇に対し私も含め少なくない沖縄人(うちなーんちゅ)に反発にも似た不安定な感情の揺さぶりがあったのも事実である。非対称の権力関係(構造)が感情を生み出しているのにも関わらず、構造ではなく、感情にばかり焦点が当てられ、沖縄社会が「本土」の方を差別する傾向があると一般化しすぎていないかというものである。非対称の権力関係において、マイノリティにとって他者を信頼できるかどうかの基準は、ポジショナリティの認識である(もちろんポジショナリティも、相互作用の場における人間の数だけ存在し、同じ場でも文脈により変化することは踏まえたうえで。)。ポジショナリティを弁えない他者が多い中、感情にだけ焦点が当て過ぎると、その効果は非対称の権力関係をさらに固定化・強化されないか。属性で括るのは間違いだと権力側が言うのは、ダブルバインドとなり、告発者の隠れたメッセージを否認したり、その人の経験に基づくリアリティに異議を挟む効果を生じないか。その構造に触れない啓蒙や啓発が双方の感情の回復と本質的解決を図れるのだろうかということを問いたいと思う。
 なお、米軍人に対し「ヤンキーゴーホーム」と訴えることに対する是非もヘイトスピーチ規制条例をめぐり議論のなかでされているように、米軍に対する抗議活動においてなのか、まったく関係のない文脈においてなのかによってヘイトか否かは決まってくる。当然のことであるが、その単語のみならず前後の文脈や背景を総合的に判断する必要があるのである。
 個々のケースにおいて、私たちは個別的なものとして捉えたり、もしくは過度の一般化が行われがちで、社会的な文脈、構造が抜け落ちがちとなる。
 告発や抵抗を単に「憎しみ」や「敵意」と捉え、矮小化するトーンポリシングが機能するとき、被抑圧者の声は効果的に沈黙させられる。
 BLM(Black Lives Matter)に対しALM(All Lives Matter)という過度に一般化した言説を返すことにより効果的な分断が持ち込まれる。
 したがって、私たちは、非対称の権力関係があるなかでその社会構造を無視して「協調」だけが強調されることに注意を向ける必要がある。一方で、構造が感情を生み出すのであり、感情に支配されるのは、構造に支配されていることと同じになってしまうことを認識し、構造が排除を生み出していくように、感情が排除を生み出さないようにしなければならない。
 沖縄は、「本土」に対し差別構造を訴えることは友と敵を分かつ敵対関係だと糾弾され、連帯を損なうと忌避・否定されてきた。さらには近年は「本土」の側から、沖縄の貧困問題などの社会問題は沖縄に内在する文化問題であると指摘されている。少なくない沖縄の人もコンプレックスとして、これを内面化してしまっている。感情と同じく構造が文化を生むのにもかかわらず。構造にコミットせず、貧困や階層を描き、「アンダークラスの文化」として取り上げ、焦点をあてることにより、まるで沖縄の文化が貧困や階層を生んでいるかのように消費されていく。それが自己責任論を強化したり、理性の不偏性を絶対視する啓蒙主義や、「自分を愛する心」とか「自尊心」という自己啓発への「偏重」を生じさせている。そしてこれが、社会構造を直視することから逃避するものとして機能している。
 繰り返し述べるが、差別構造の是正を訴える際の対立は、敵対関係ではない。しかしお互いが人間である以上、これを意識的に「闘技関係」「緊張関係」として、そして集団間及び集団内での「自由の格差」「自由の不平等」を是正していくことを絶えず行う必要があるのである。対外的防御と対内的制約の拒否は、これを一体的に取り組んでこそはじめて機能するからである。自由は公正の中にこそ宿る。
 私が本稿を書くのは、沖縄の「怒り」の背後にある理性的な基礎を言語化したい、「感情の回復」と「本質的解決」の両立を図りながら一歩前に進みたいという動機に基づく。
 構造を理解するからこそ感情から距離を置くことができ、それによって構造的解決を求めていくことが可能である。うちなーんちゅにはそれができるはずだと、沖縄人(’うちなーんちゅ)が沖縄人をエンパワメントしていくことが重要だと改めて思う。シティズンシップを求めるアイデンティティ・ポリティクス、これを明示する当事者運動により、沖縄をめぐり繰り返される分断を乗り超えたいと願う。


*「本土」という言葉は、「離島または属国・植民地等との対比で用いられる言葉」であり、適切ではない。しかし、日本国内の沖縄以外の地域を総称する言葉として、本文において沖縄以外の日本の地域全体を示す言葉は引用の場合以外はかぎ括弧付きの「本土」またはヤマトという語を使用している。

引用・参考文献
ウィル・キムリッカ(1998)『多文化時代の市民権―マイノリティの権利と自由主義―』晃洋書房
アマルティア・セン(2003)『アイデンティティに先行する理性』関西学院大学出版会
上野千鶴子編(2005)『脱アイデンティティ』勁草書房
ノーム・チョムスキー(2004)『秘密と嘘と民主主義』成甲書房
シャンタル・ムフ(2006)『カール・シュミットの挑戦』風行社
ミシェル・ヴィヴィオルカ(2007)「レイシズムの変貌 グローバル化がまねいた社会の人種化、文化の断片化」明石書店
アマルティア・セン(2011)『アイデンティティと暴力』勁草書房
太田好信編著(2012)『政治的アイデンティティの人類学―21世紀の権力変容と民主化にむけて』昭和堂
宮台真司・仲村清司(2014)『これが沖縄の生きる道』亜紀書房
志賀信夫(2016)『貧困理論の再検討』法律文化社
金城馨(2019)『沖縄人として日本人を生きる』解放出版社
梁英聖(2020)「レイシズムとは何か」ちくま書房
田中聡子・志賀信夫編著(2020)『福祉再考―実践・政策・運動の現状と可能性』旬報社
土井智義『「沖縄の人」にみえぬ者 排他的に扱ってないか』沖縄タイムス2020.6.11論壇
ケイン樹里安「『日本人感』とは何だったのか 水原希子さんへの中傷が映し出すアイデンティティの暴力性」https://news.yahoo.co.jp/byline/keanejulian/20200627-00185269/
綿野恵太「みんなが差別を批判できる時代ーアイデンティティからシティズンシップへ」
https://note.com/edoyaneko800/n/nee7e465fd705


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