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封建主義ジャパン(4)死に至る病患者

以前の記事でこう書きました。

前近代的で人権を蹂躙じゅうりんするような風土はさっさと根絶してほしいし、次世代に継承したくありません。つまり土壌改良したい。そのためには自分に写された”版画”を批判的に評価して、相応しい行動に変えるしかありません。

自分だけが悪いわけでない。
「だから、今のままでいい」というタイプ①の人 と
「だけど、なんとかしないと」というタイプ②の人 の
どちらかに分かれます。

タイプ①の人は責任を負いたくない。自分を変えるくらいなら、人権を踏みにじられてでも他者に責任をなすりつけておいたほうがマシ。責任を問われなければ、強者に支配される機械のような人生で構わない。というかそもそも人権って何?その前に自分とは何?というタイプ。

つまり自我の確立ができていない。

自我は、本能的なイドと規律的な超自我を調整する自分のこと。自分の意思や信念が無いと調整できない。つまり自我とは自分の頭で考えて判断する自分、ということ。自我が確立していないと自分で物事を決められない。

ところで、先日「死刑にいたる病」という映画を鑑賞した。

この作品は、キルケゴールの「死に至る病」のオマージュだ(哲学の授業でキルケゴールを教えていたから間違いないだろう)。登場人物は自我が確立していない人たちだらけ。虐待シーンの痛々しさが見ていて苦しくなる。そして執念が纏わり付く感覚。自分の精神をも掻き乱すほど非常に後味の悪い作品だったが、仕事に関連する学びはとても多く、見てよかった。

キルケゴールは「不安は自由のめまいである」という言葉で有名ですが「死に至る病」は読んでいません。同書を簡単に解説している上記のリンク先では、絶望とは「本当の自分であろうとする自分から目をそらしている」状態だと説いています。つまり自我の確立を避けている状態。

映画「死刑にいたる病」に登場する多くの人は、その状態にありました。自分を肯定してくれたり応援してくれる周囲の人達に流される。自我を失った人がどれだけ脆弱か示されていました。そうして簡単に狂気になずんでしまう姿からアイヒマンを思い起こし、狂気の伝染があまりにポピュラーで、他人事とは思えない分とても恐ろしくなります。

「死刑にいたる病」に登場する榛原はいばらもヒトラーも、大衆心理の脆弱さを利用して支配的立場を確立した。このような悪人が、自我が確立していない弱い人の前に、善人の顔をして現れます。その人は心の隙間を甘い言葉で埋めて、その人が作る地獄の犠牲にするか共犯者にするのです。

社会を地獄にしないためには、タイプ①の人にならないように、タイプ②の人に自己変革できるように努めないといけない。そう強く思います。


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