年末年始に感じる孤独感と、その正体

世間的には明るいイメージの強い年末年始だが、自分はあまり好きではない。私事になるが、自分にはニートの父親が居る。物心ついたころ(小学3年くらい?)からそうだったように感じる。
もちろんニートのすべてが悪い人というつもりはないし、「働く」ということはとても辛いものだから、別にその在り方を否定するつもりはないし、人によってはそうなるのも理解できる。

ただ、彼は家族に対して自分の置かれている状況・今後について相談することもなく、触れることを許さず、そこに触れるとうるさく喚き散らす。そんな父親の在り方が、自分は嫌いだ。
だからなるべく家には居たくなかったし、大学進学ととも高校生の頃にもらえた奨学金を元手に家を出た。

年末年始が嫌いな理由。

家を出るまで、年末年始には必然的に家にいることを余儀なくされるし、家族全体が家に居るいない、どこどこに行く、何を食べる、大掃除のダメ出しというところまで家族で喧嘩…というよりは父親が一人でゴネることが大半だった。
だから、正直年末年始にはあまりいい思い出がない。

実家から離れてはや4年になるが、幸いなことに?周りの大学生は皆家族と仲が良く(最も、自分にとってそう見えているだけかもしれないが)大概が帰省し地元で過ごしている。
自分は実家に帰省するつもりなどさらさらないので、毎年正月は神戸で一人で過ごすことになるし、同じ住居に残っている学生も大概自分一人だ。

今年はコロナの影響もあり、普段帰省する人も一人で年末年始を過ごす、ということが多いようだが、一人で過ごす年末年始というものは何とも孤独なものである。

あとは何より、街全体が一斉に眠るような、あのフワッとした雰囲気があまり好きではない。
あの独特な雰囲気、自分一人が孤独である中、街で楽しそうにしている家族連れやカップル、友人グループを見ると何とも言えない感情がこみ上げてくる。

周りとの比較で「孤独」を感じる

では、この感情の正体とは一体何なのだろうか。
結論から言えば、周囲の人間がうまくいっているのに対して、自分は一人でうまくいっていないという「比較」によって孤独を感じる。

「楽しそうなあの人達と比べて、自分は何も予定がないなぁ…」

「一緒に遊んでくれる友人・恋人がいなくて寂しい…」

「自分なんて世界にとって不要な存在だ」

相手の人間関係を自分の中で想像し、孤独な自分と対比して自己否定に陥ってしまうのである。

ただ、一つ考え直してもらいたい。そのように一緒にいる人々が、仲が良い・うまくいっている保証などどこにもないのだ。
「愛してる」の裏には浮気があり、「友達」という概念の裏には陰口がある。

もちろん全ての人間がそうというわけではないし、大半は「仲が良い」のは本当だろう。
ただ、自分の中で作ってしまった「良い人間関係」というイメージは完璧ではないし、それに縛られるというのももったいない話である。

”孤独”ではなく、”孤高”であれ

ただ、今の自分が孤独なのはそれまでにしてきた行動の結果である。寂しいなら友達や恋人を誘って何かすればいいし、そもそもいないのなら作る努力をするべきである。
その努力を怠った結果が今の自分であり、本気で「寂しい」という感情を排除したいと思っているなら、何か行動を起こすはずだ。

結局のところ、自分の置かれている境遇は変わらない。ただ考え方を変えることはできる。今からでも何か、別の楽しみ方を見つければいいだけのこと。
共通の休みであることを生かし、以前の旧友と連絡を取ってみるのもいい。自分が旧友から連絡をもらえば大半が嬉しいように、多くの場合相手もまたうれしいものである。

他に簡単な例でいえば、正月限定のイベントに参加したり、見たかった作品をまとめて見たり、コロナの影響で今は難しいかもしれないがひとり旅行に行ったり…一人であれば「やってみたい」と思い立ったことに対して、すぐに行動できるはずだ。

後はやはり、創作だろうか。創作活動とは元来孤独なものだ。自分の作品は自分にしか完成できない。
先の見えない暗闇に向かって、孤独の中で高みを目指す。内に秘めたエネルギーを、想いをカタチにするにはとてもいい機会なのではないだろうか。

自分の中で孤独であることの意味づけができれば、先述した孤独”感”の意味は逆転する。
自分の考えのもと、あえてそうあることを選んだのだから、他人と比較して自己嫌悪に陥る必要はない。堂々と前を向いて、一人であることを楽しめばいいだけである。

”孤独”ではなく、”孤高”であれ

皆さんの2021年が充実したものとなるように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?