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「無駄な仕事はない」元CMプランナーの大学教授、最後の言葉

 広告最大手・電通のコピーライター、CMプランナーとして活躍した大学教員があす31日、定年退職する。近畿大学総合社会学部教授の山本良二さん。36年間携わった広告制作のやりがい、一転して若者を指導する立場になったおもしろさを聞いた。【2年・大和倖太郎/2024年3月30日記】

広告業界を志したきっかけ。「広告論」を受講したこと

 大学3年生の時に受けた「広告論」という授業は、テレビ局に勤務していた方が広告やマーケティングを講義するというもの。その講師が「日本で唯一、世界一の会社がある。それは電通という会社だ」と語った。電通なんて知らない。しかし、「世界一の会社」という一言に引かれ、電通を目指すことを決めた。
 思い込んだらすぐに行動する性格で、その日に本屋に向かった。「マスコミ就活問題集」や「月刊新聞ダイジェスト」を買い、文章力を磨くために作文添削セミナーにも申し込んだ。ほぼ毎日、問題集と2~3時間向き合い、ニュースも注意して見るようになった。「世界一の会社に入りたい」という思いから初めて熱を入れて勉強に励んだ。
 業界研究はあまりやらなかった。コミュニケーション能力には自信があった。ありのままの自分を見てもらえればいい。そう考えていた。
 電通の採用試験の一つである、志望する学生のクリエイティブ能力を測るテストを受けた時のこと。「電車のシルバーシートを、もっと若者が高齢者に譲りたくなるようなキャッチフレーズとボディーコピーを考えなさい」というお題が出された。周りの学生はすぐに作業に取りかかったが、ボディーコピーの意味が分からない。手を挙げて、試験官に「ボディーコピーとは何ですか」と尋ねた。試験官は「新聞広告などでキャッチコピーが目立つところに書かれているでしょ。そのキャッチコピーの横に書いてある長めの文章がボディーコピーです」と教えてくれた。それを聞き、5分ほどでボディーコピーを書き上げた。業界の知識がないからこそ、考えすぎることなく案を出すことができた。面接も怖いものなしで素直に正直に受け答えをした。それが幸いしたのか、電通から内定をもらうことができた。
 小さい頃からのテレビ好き。だから放送局の試験も受けて、内定をもらった。テレビか電通か、1週間悩んだ。「世界一の会社という大きな舞台で自分を試したい」という思いが勝り、電通に決めた。

電通に入社。配属先は広告やCMを制作するクリエイティブ局

 自信はなかった。でも「3年頑張って芽が出なかったら部署を変えてくれるだろう」と思うことにした。
 広告業界のことを知らず、広告の知識もなかったが、先輩に恵まれていいスタートが切れた。この仕事はおもしろいしやりがいもある、そう思った。『コピー年鑑』(宣伝会議)というその1年間の優れた広告をまとめた年鑑を読み漁って勉強もした。いい仕事を見ることはためになり、刺激になる。「自分もこんなすごい仕事がしたい、してみせる」というやる気をもらえた。
 この頃から目標を立てることを意識した。若手の登竜門だった東京コピーライターズクラブ新人賞を獲得することは大きな目標だった。受賞に5年かかったが、目標を持つと仕事に手を抜かなくなる。腐ることもない。
 仕事は一生懸命に励み、夜は派手に遊ぶ。大人って面白いと思った。多くのスポンサー企業と仕事ができるから、いろいろな世界を見ることができる。広告に対しては感謝の気持ちしかない。広告と電通が自分を育ててくれた。
 ありがたいことは世の中から褒めてもらえる仕事だということ。「あのCMおもしろいね」と言われることもあるし、自分が書いたキャッチフレーズが街中で口ずさまれたりすることもある。自分が考えたCMで商品が売れるのはうれしい。自分が生み出したアイデアが世の中の話題になるのは快感だ。その快感を味わうためにいくら徹夜しようと苦ではなかった。

難しい仕事も多かった

 ある大企業の担当になったときのこと。先方の担当者と何度もやり取りをしてできあがった案が、その上司や役員のチェックでどんどん変わっていく。最終的に自分の考えたキャッチフレーズが跡形もないようなものになっていることもあった。「それでもめげたらあかん、自分の匂いを少しでも残したい」と思いながら頑張った。
 この企業を担当した7年半、がむしゃらにコピーを書きまくった。ひとつひとつの仕事に目標を立てるようにもしていた。「賞を狙う」「クライアントの信頼を得る」「人脈をつくる」「きちんと利益をあげる」。仕事ごとに目標を持って臨んだ。
 思い通りに案が通らないことも多く、大企業のプレッシャーも強い。難しくて厳しい仕事だった。その分、得たものも多かった。優秀な人たちと仕事ができて、仕事に対してのスピードもついた。深夜に打ち合わせが終わると、「朝一には完成させたものを持ってきて」と言われることは何度もあった。たびたび起こる困難を解決していかなければいけないから、問題への対応力が高くなったと思う。チームで事に当たることの大切さも学べた。この大企業の担当から異動した後、どんな無理難題にも落ちついて対応できるようになった。無駄な仕事はないと心から思う。
 広告という仕事を楽しめたのは性格によるところも大きい。元々が楽観的な人間。「悲観は感情、楽観は意志」という言葉が好きで、後悔したりうじうじ悩んだりしても物事は前に進まない。意志をもって何事もポジティブに恐れずにやる。そのように考えて仕事に臨めば、たとえ失敗したとしても納得できる。仕事や困難から絶対に逃げない、諦めない。どんな仕事でも責任を持ってやり遂げる、いい仕事にしてみせるという意志が必要だ。そう思ってやってきた。目標を立て、前を向いて毎日考え続ける。そうやって自分のスタイルをつくっていった。

電通で36年間働いた。大学教員をやらないかと誘いがあった

 驚いたが、依頼を受けた。自分がやってきたこと、培ってきたことを若者に伝えたい。不安もあったが、やりたいという気持ちが勝った。がんばる若者が好きだ。そんな若者たちの心に火をつけたかった。
 ただ、自分が人を育てるなんて思うのはおこがましい。自分ができることは人が育つ環境を作ることだ。人は一度、心に火がつけば、あとは放っておいても頑張る。大事なことは、その人が自らやる気を出すこと。大学に来て強く感じたことは、自己肯定感の低い若者が多いこと。自信過剰も良くないが、自分で自分を認めないのはもっとだめ。勝手に諦めてチャレンジしないなんて、それほどもったいないことはない。だから、褒めるべきときにはしっかり褒めた。良くないことをした時には、何が良くないと思うのかという自分の考えも話してきた。
 目標を立てることの重要性も伝えてきた。目標を立てたら、その目標に向かう手段がわかる。やるべきことも分かるし、やる気も起きる。すべては目標を立てることから始まる。

 近畿大学に来て8年。楽しかった。いい仕事を与えてもらったと心から思う。最初は自転車操業、必死だった。授業を15回やるのって大変。でも嫌じゃなかったし、楽しかった。授業内容と同時にギャグも思いつく。そのギャグをいつ盛り込もうか。ウケなかったこともあるが、学生に面白い授業をしたいと思い続けてきた。ゼミとか少人数のクラスの学生には「この子たちのために何ができるだろう」といつも考えていた。こんなことを思わせてくれる仕事はなかなかない。やりたくてもできない仕事だ。
 電通でも近畿大学でも楽しく、懸命に働いてきた。退職後はとことん遊ぼうと考えている。とにかく好きなことをしたい。ゴルフとかテニスとか、お酒も思いっきり飲みたいし、本も読みたい。映画も見たい。英会話の勉強もやるかもしれない。友だちともゆっくり会いたいし、いろんな人に出会いたい。やったことがない一人旅もしてみたい。やりたいことは山ほどある。元気なうちにいっぱい遊んで、いっぱい笑いたい。

山本良二(やまもと・りょうじ) 1958年2月、福岡県生まれ。1980年電通入社。関西支社クリエイティブ局で、コピーライター、CMプランナー、クリエーティブ・ディレクターを経て、エグゼクティブ・クリエーティブ・ディレクター。2016年から近畿大学総合社会学部社会・マスメディア系専攻の教授を務め、広告論などの講義を担当した。


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